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6.戦前のマスコミ統制

 前回まで、靖国神社の歴史や本質、そして戦前の教育が現代の教育に投げかける影響等を考察してきた。このページでは、戦争下での思想・言論への弾圧がいかなるものであったかを考察していきたい。
 太平洋戦争・戦時下のマスコミの統制は、現在では想像もできないような徹底的なものだった。言論の自由がいかに剥奪され、いかに真実に蓋をして、虚偽の情報を国民の脳裏に焼き付けていったか、そのシステムを本章では見ていきたい。

・大本営発表

 「大本営発表」…この言葉は、現在でも"虚偽・虚飾・誇大発表の代名詞"のように使われている。戦時中、如何に大本営発表が、国民に嘘を伝えていく事になったかを、膨大な資料と証言によって著された保阪正康氏の「大本営は生きている」をベースに、そのエッセンスを見てみよう。

 戦時中の大本営発表は、昭和16年12月8日から昭和20年9月2日(約3年9ヶ月の期間)まで、全部で846回行われている。ただし、当初は「大本営陸海軍部発表」、「大本営海軍部発表」、「大本営陸軍部発表」の三本立てだった(昭和17年1月8日に「大本営発表」に一本化している)。

 大本営発表は、初めから虚偽・虚飾に満ちていたわけではない。開戦初日から4日間の発表は、比較的正確だった。発表文は、必要な事のみの短文で終わっており、主語も明確である。相手方の損害については正確に伝え、不正確な情報の場合にはそれを明記している。この初期の段階では、発表は比較的冷静だったのだ。しかし、表現のための明確な基準があったわけではない。これらの正確な発表は、戦争初期において日本軍が有利に戦闘を行い、勝利に勝利を重ねていたため、まだ比較的余裕があったためと考えられる。

 しかし、日本の勝利は3年9ヶ月と言う長期の戦争において、初期の6ヶ月ほどでしかなかった。アメリカ軍が戦時体制を整え、莫大な物量で作戦を展開し始めると、日本は以後(部分的な勝利はあるとは言え)敗北を余儀なくされていく。その敗北への転機となった象徴的な戦闘が、ミッドウェー海戦である事はほぼ誰もが認める事だろう。第302回目(昭和17年6月10日)の大本営発表は、ミッドウェー海戦において敵艦隊に多大な損害を与えたとする。エンタープライズ型の航空母艦、ホーネット型の航空母艦を各1隻ずつ撃沈した他、飛行機や船、施設に多大な戦果を上げたと発表する。一方で、日本軍の損害は、航空母艦一隻、同一隻大破の他、損害はアメリカ軍側よりも軽微だったと伝える。
 しかし、事実はまったく異なっていた。結果的に、この戦いは日本側の惨敗で終わり、日本側は4隻の空母と搭載機280機の全機、および優秀なパイロット達を含む3,300名の将兵を失ったのである。一方のアメリカ側(太平洋艦隊司令部)の発表は、事実に即した正確なものだった(余談だが、ミッドウェー海戦の勝利を信じて歓迎の宴を用意していた大本営海軍部の幕僚は、顔色を失ったと言う)。このミッドウェー海戦の敗北は、国民にはまったく知らされなかった。それだけでなく、天皇にも正確な内容を知らせていなかったと言う。この海戦で生き残ったパイロットや水兵は、日本に戻ると幽閉状態に置かれた。病院のカーテンを開く事すら許されず、故郷との通信も当然許されなかった。しかし、それほどの隠蔽工作を行っても、時とともに次第に国民各層に、ミッドウェー海戦の惨敗、日本の空母が壊滅状態になったと言う噂が漏れ広がっていった。
 初期の大本営発表とは異なり、この頃の大本営発表は、狡猾に虚偽、誇張、隠蔽がなされている。例えば、「国民に対しては徹底的な嘘を付く」、「その嘘を繰り返す」、「アメリカ側はデマを流す」、「現地軍は幽閉状態にするか、玉砕を勧める」、「大本営発表の嘘を補完するため、皇軍兵士の武士道を称える」と言った特徴が挙げられる(再び余談だが、世界で日本の"武士道"のイメージが一時悪くなったのは、戦時下での各地での日本刀を用いた殺戮行為や、こうした日本の虚偽発表にも要因があると考えられる)。また、陸軍と海軍の確執や戦果争いは戦争初期より存在したが、情報についても同様で、大本営海軍部は大本営陸軍部に正確な情報を伝えない(逆もまたしかり)と言う状況になっていた。軍事作戦自体が、こうした誤った情報で作られていくと言う絶望的な状況を生み出していく。

 日本軍が、大勝利から敗北へと転じる過程で、情報の発表の内容も変貌し、曖昧で難解な文語表現が増加していく。それをもっとも象徴的に示しているのが、第349回(昭和18年2月9日)のガダルカナル島の攻防をめぐる大本営発表である。ガダルカナル島での戦闘において、敵に与えた損害を、人員2万5千人以上、飛行機撃破230機以上、他戦果を報告し、日本軍の損害を戦死(及び戦病死)を16,734名、飛行機の自爆・未帰還を139機としている。この発表は、事実と反対だった。戦後明らかになったアメリカ側の資料によると、アメリカ側の戦死者数は約1千名(負傷者も4,245名)で、一方日本側の損害は、ガダルカナル島で24,600名、ニューギニア島のブナでは12,500名にも達した。大本営発表が、如何に現実から乖離したものであったかが分かる。ガダルカナル戦においてアメリカ軍側の地上作戦は反攻に転じたのであり、日本軍側は玉砕を免れるために辛うじて撤退作戦に踏み切れたに過ぎず、敗戦と撤退以外の何物でもないのだが、大本営発表を聞くと、日本軍は着実に戦果をおさめていると言う以外には、受け止めようが無いのである。こうした戦果発表により、国民は戦争に対し甘い認識を持っただろう。戦後明らかにされた回想録等によると、こうした虚偽の発表は、連戦連勝・皇軍不敗の神話を堅持したかった事が背景にあるようだ。

 戦況が敗戦の一途を辿ると、大本営発表はほとんど夢や幻でも見て酔っているかのように、より一層の虚偽・虚飾で飾られていく。それを端的に記す例が、台湾沖航空戦の戦果を伝える第647回(昭和19年10月21日)の大本営発表である。台湾沖の作戦で、日本は11隻もの航空母艦を轟沈、撃沈した他、数多くの戦艦や巡洋艦、駆逐艦を撃沈ないし撃破、数多くの飛行機を撃墜したとの発表をなした。これは、アメリカ海軍の機動部隊がほぼ壊滅状態になったに等しい戦果である。当時日本は至る所で連合軍に徹底した攻撃を受け、戦況面で何一つ朗報が無かったため、この発表は鳴り物入りで行われた。ところが、壊滅状態のはずのアメリカ軍の空母が、翌日以降も次々と台湾やルソンに現れて、各地の日本軍基地を爆撃していた。事実は、大本営発表の内容とはあまりにかけ離れ、アメリカ海軍の空母は、(11隻どころか)ただの1隻も撃沈も撃破も大破もしていなかった。大本営海軍部の作戦参謀は、そうした事実に薄々気がついていながら発表を行っていた。大本営発表は、事実から乖離した単なる主観的な願望によって虚偽・虚飾発表していたのである。さらに信じられない事に、この大嘘もいいところの海軍側のデタラメ戦果を鵜呑みにして、陸軍はレイテ決戦を行う破目になり、数多くの日本軍将兵を死に至らしめた。海軍は陸軍に、台湾航空戦の真実を伝えなかったのである。

 こうした虚偽・虚飾(虚偽ならともかく事実の片鱗にすら触れていない事もあった)の大本営発表は846回も行われているので、このコーナーだけですべて見ることは不可能だが、大本営発表の本質は、一体何だったろうか。戦争を遂行し、そして失敗した責任者達の責任逃れの為の"嘘"であると言う見方がある(嘘を隠すため、何度も嘘の上塗りを続けねばならない)。また、陸軍と海軍の確執による情報戦による駆け引きのための"虚"と言う見方もあるし、国民の戦意を低下させず暴動を起こさせないための"嘘"と言う見方もある。いずれも、大本営発表の否定しがたいそれぞれの側面であると思う。"大本営発表"と言う言葉の背後にひそむのは、「単に虚偽や虚飾、誇張ではなく、20世紀の戦争を正確に理解できず、戦争と言うシステムを理解できなかったゆえの悲しい報告書だったと自覚しなければならない」と、前述の保坂氏は述べる。
 もし今、何の偏見も前知識もなく、全大本営発表を読むと、日本軍の勝利に次ぐ勝利に「血沸き肉踊る」だろう。これだけ勝利を続けたら、日本はあっという間に連合国軍に勝利し、戦争は終結しているはずだ。ところがいくら読んでも、日本の戦争は終結しない。1年経っても、2年経っても、3年経っても、いっこうに戦争は終結しない。終結しないどころか、勝利しているはずの戦線で、玉砕や特攻が行われている…なぜだろう?そして、いつしか日本本土への空爆も始まっている。広島では、新型爆弾が投下される(※大本営発表は原爆情報を知り得ていたが、敢えて"原爆"である事を発表しない)。いくら情報が国家に統制されているとは言え、さすがに日本国民も大本営発表に疑問を持つに至るのは時間の問題だったと言える。
 太平洋戦争終結後、アメリカ軍の情報将校達が日本に進駐してきて、日本の情報システムを徹底的に調べた。情報将校は、日本の大本営の情報参謀に日本が用いた「情報関係の基礎文献を教えてほしい」と質問をしたが、日本側は文献は何も無いと答えた。あまりの情報戦略の稚拙さに、アメリカ軍の情報将校は、何か隠しているのではないかと疑ったほどだと言う。いかに日本軍の精神主義が情報活動を阻害していたか、の一端を知る事ができる話しだ。
 敗戦後、同様にアメリカ戦略爆撃調査団が広い範囲に渡って日本国民にインタヴューを行った。その結果によると、「日本側の報道が真実とは信じなかった」と言う回答が40%に達していたと言う。大本営発表をまったく信じない人は、50%近くに達していた。アメリカ軍の撒いた宣伝ビラについては、戦意の高い層ほど「ビラを信じず」(47%)、戦意を失っていた日本国民は「ビラを信じる」(41%)傾向にあったが、全体的に、「ビラを信じる」「条件付で信じる」が60%を超えている。大本営発表が、どれだけ戦果を並べ立てても、どれだけ記事を装飾しても、国民の間には確実に不信感が増大していたのである。

 大本営発表は、言論弾圧と表裏一体をなしていた。戦時下においては、新聞記事はすべて絶大な力を持つ大本営陸海軍報道部の統制下に置かれていた。良識のあるマスコミ人は、大本営陸海軍報道部や内閣情報局の圧力でどこにも記事を掲載できなかった。多くの文化人、言論人は、権力を恐れて表面上は従順な姿勢を保っていた。新聞記事は客観的に報道する機能を失い、主観主義表現で戦況が語られ、道徳的にも極端に粗末な内容だった。表面上従順を装っていたのではなく、積極的に先鋭的に国民の士気を鼓舞する役割を担った言論人も数多く存在した。大日本言論報国会は、昭和17年9月、内閣情報局が言論の有力者12人を招いて戦争協力を求めたのを機に生まれた。言論人の挙国体制を促し、そして誕生したのである。大日本言論報国会の設立目的は、「国体の本義に基づいて聖戦を完遂」するために言論人を鍛錬し、「日本世界観」を確立し「東亜新秩序建設」の原理と構想をまとめ上げ、「皇国内外の思想戦」に身を捧げることであった。この大日本言論報国会の構成は、日本の思想界、言論界から、ほとんど知性と言うものを抹殺するに等しいものであった。
 このような言論上の圧力は、単なる言論上の攻撃だっただけではない。当時、過酷な検閲が行われていた。「中央公論」が解散を命じられた時の編集者は、次のように語る。「当時の日本の検閲は、非常識を通り越して狂喜の沙汰とおもわれるまで峻厳をきわめ、字句の末端まで干渉して、修正や削除を要求した(以下、略)」。こうした言論圧殺と大本営発表は、戦時下の国民の思想を表と裏から統制していた(今回、ここに記しえなかった重大な問題が、大本営発表には色々と含まれているが、ここではこれだけの記述でご容赦願う)。

 当時の戦争を遂行し虚偽発表を続けた人々は当然として、新聞やマスコミの責任も大きい。新聞は戦時下の報道で謝罪していないどころか、戦後手のひらを返すように、新政府の御用を務めている、と言う言論人の指摘は当然だろう。また、国民自身も、戦争の勝利に酔いしれる前に、国民は全体主義の歪みに気がつき、情報操作に気づくべきだった、と言う指摘も当然だろうと思う。国民一人一人が、愚弄されていた事を自覚すべきだった(現実に抵抗する手段が在ったか無かったかと言う問題は、また別の問題である)。
 大本営発表と言うのは、特殊な時代の特殊な事態であってほしいと願うが、どうやらそうでもないらしい。最近の例では、年金の法案審議の終了後に重大な資料が提出されたり、政治家の疑惑に関する事はプライベートな事として隠そうとする方向に議論が進もうとしたり…。中でも心配なのが、自衛隊の海外派遣に関わる報道だ。前述の保坂氏は、こう語る。「小泉内閣は、"国益"に合致する情報のみ提供しなければならないかのように語るのだが、それは基本的に国民の「知る権利」に背反する考えでしかない」と。「軍事とは、国民の生命や財産を恣意的な国家目的のために犠牲にしろと言うのが、本来の意味である。それを隠すために麗句を並べれば並べるほど、情報統制を図る、つまり大本営発表になってしまうのである」と。私も、その意見に同感である。
 教育やマスコミ報道が国家の管理下に統制された時、戦時体制はすでに完成していると言われる。平時こそ、政治や情報操作の歪みに気が付く存在でありたいと心から思う。

・戦前の映画制作統制


 僕自身が映像制作に関わるものであるので、戦時下の映画制作に対する統制については以前から興味があった。次に、四方田犬彦氏の「日本映画史100年」をベースに、当時の映画制作統制の実態も見てみよう。

 映画をめぐる検閲は、実は戦争に突入する前からなされていた。しかし、1939年に制定された映画法は、映画制作を完全に国家の管轄下に置く事を目的としていた。そして、制作と供給は許可制となった。監督も俳優も、すべて免許登録制となった。映画人の中には、これに反対して投獄された者もいたが、大多数の映画人は既得権の確保のため賛成した。左翼映画人の中にすら、この法律に賛成し制定委員を引き受ける者もいた。こうして、国家による仮借なき映画の統制が始まった。
 1941年の連合国側の日本への経済制裁が始まると、アメリカ製のフィルムが無くなり、貴重な国産のフィルムは軍需品とみなされた。民間使用には著しい制限が加えられ、映画会社にとっては死活問題となった。軍部の記録映画要請に積極的に応えていた東宝は、生き延びる事ができた。逆に現代劇や時代劇等の映画を撮っていた会社は、軍部と結託する事が難しかった。こうして中小の映画会社は吸収合併されていき、映画会社は、東宝、松竹、大映の3社だけとなってしまった。
 こうして少なからぬ映画人は、軍属として南方の占領地へ宣伝映画制作に派遣されたり、満州映画の満映へと向かった。小津安二郎も、黙々と軍役に就いた(シンガポールで「市民ケーン」を見た時、日本の敗北を確信したと言う)。溝口健二も、不向きな事を知りながら国家主義に合わせた映画を撮ろうとしていた。その他、当時の著名な映画人も、南方へ、満州へと向かい、またある者は朝鮮で国策映画を撮った。
 多くの映画監督が、戦争に協力した。しかし、これらの多くの映画に共通するのは、敵である国民党や中国共産党の軍隊が登場せず、辛苦に耐える日本兵の自己犠牲の姿が大きく映し出されていた(これらはアメリカ的な文脈で見るならば、反戦映画として受け入れられると言うアメリカの人類学者の意見もある)。敵への警戒を訴える映画は、極僅かなものを除いて、ほぼ皆無だった。敵を醜悪な悪として描くことよりも、皇軍の艱難を通して天皇の恩に報いると言うメッセージを重要視して、映画人たちは国策映画を撮り続けた。どのような主眼で撮られたにせよ、それらはやはり戦意昂揚映画には違いなかった。戦争を主題としない時代劇や現代劇も、国策、戦意高揚にマッチした内容で撮られていく。
 そんな中にも、単に戦争に協力する姿勢だけを示して信念を曲げない映画人もいた。ドキュメンタリー作家の亀井文夫は、反戦的含意に富んだフィルムを撮った。しかし、結局彼は監督資格を剥奪されて、検挙されてしまった。

 映画での統制は、日本国内だけでの問題ではなかった。戦争によって日本が獲得した植民地、占領地での映画製作にも影響を及ぼしていく。簡潔に振り返ってみよう。

台湾…台湾映画では、戦前も日本人監督により娯楽的な台湾映画が撮られていたが、戦時中になると皇民化された部族の物語となり、1941年には総督府が台湾映画協会を設立して、台湾映画人は沈黙を強いられた。

朝鮮…朝鮮では、総督府は台湾以上に独立運動に悩み、過酷な方法で鎮圧していった。日本は韓国を1910年に併合したが、朝鮮映画界からは数多くの映画人が輩出され、彼らは何らかの意味で民族主義的昂揚に関わっていた。総督府は、最初映画による教育啓蒙を考えていた。そして、日本国内と同様の映画法が、1940年に実施された。こうなると、朝鮮人の映画人が主体的に映画に関われる機会は、ほぼ皆無となった。1942年には、ついにすべての映画会社が閉鎖され、総督府により朝鮮映画が設立された。内地の日本から次々と日本人監督がきて、そで映画を撮った。これらの多くの映画も、皇民化政策の延長であり、朝鮮人の学徒出陣が賛美されるような(日本にとっての)国策映画、戦意高揚映画だった。

満州(中国東北部)…日本が中国の東北部に建国した満州国では、1936年に満州映画協会を設立した。主な目的は、満州人の教化指導宣伝のために国策映画を撮るためである。満映は、戦後「日本映画史上の恥部」と呼ばれる。東洋最大の敷地の撮影所を持ちながら、高い評価は得られなかった。満州映画は、現地人から陰口を叩かれるほどの錬度の低い映画だった。戦時中には、少なからぬ映画監督から日本から渡った。1945年に満州国が崩壊すると、機材やフィルムはソ連軍によって接収された。次に到来した八路軍は、このスタジオを中国共産党の最初の撮影所とし、残留した日本人スタッフに技術協力を求めた。

上海…上海は、1910年代から中国映画の中心地であり、1932年に日本が満州国を建国させてからは、抗日映画を積極的に制作してきた。1937年に日本軍は上海を占領したが、映画の撮影所はフランス租界にあったのでその後も自立した映画製作を続行できた。そこで、日本陸軍は、東和商事の川喜多長政に、中国映画の管理を要請した。川喜多は「東洋平和への道」と言う映画を製作し、中国人の懐柔に務めた。彼は更に上海にあった12の映画会社を併合して中華電影を設立すると、あえて国防映画を制作して、抗日思想の監督を迎え入れた。満映の不評を聞き及んで、川喜多は現地人による中国映画制作にフィルムを提供し、内容に口出ししない方針で臨んだ。しかし、この時期に日本人が軍部に庇護されながら、中国映画界を支配したと言う事実は、拭い去る事はできない。1945年に日本が敗戦すると、中国人監督達は祖国の裏切り者のそしりを逃れようと香港へ亡命。そして、香港の産業が繁栄する礎となった。

南アジア…インドネシアでは、戦時中、現地人による映画撮影は禁じられ、日本軍政下に日本人の手で宣伝啓蒙映画が撮られた。ジャカルタで撮られた"Calling Australia"(1944年)は、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的で制作された偽ドキュメンタリーである。フィリピンでは、日本軍は捕虜を強制的に映画に出演させた。「あの旗を撃て」(1943年)は、アメリカをフィリピンから駆逐した日本軍を賛美する事を目的としていた。日本が敗戦した時、カメラを担当していた宮崎義男は、捕虜虐待の事実の発覚を恐れてネガを燃やして証拠隠滅を図った。そのおかげで、彼は戦後日本の映画界で、左翼勢力の中心人物として活躍する事ができた。

 上記のような戦時中の映画人や映画会社の戦争に協力した責任は、戦後も不問いにされ、あやふやにされている。そして、現在もあやふやなままだ。しかし、こうした状況は映画界に限った事ではなく、あらゆる業界において多かれ少なかれ似たような状況だった。戦争に協力した多くの日本人が、その自己の責任を曖昧にしたまま現在に至っている。
 ただし映画人の中には、先述の検挙された亀井のような映画人や、また、1939年に治安維持法で逮捕され執行猶予付きの懲役刑を宣告された岩崎昶のような映画人もいた。岩崎は、戦争賛美の映画を作らなかった数少ない映画人の一人であったにも関わらず、自分の戦争責任について次のように述べている(キネマ旬報1947年7月号の記事/家永三郎著「戦争責任」より抜粋)。少し長いが、引用する。

「私のようなものにとって、突然の軍国主義的ファシズムの崩壊は、嵐が去って雲の切れ間から青空をのぞいたほどのよろこびと開放感を与えてくれた。(中略)しかし、私の心はどうしたことか、少しもはずまなかった。(中略)ほかの多くの人たちが、その中には戦争中私と同じように拘束されていた人もあるし、またうまくカムフラージュして働いていた人もあるし、それらに上手に時局に便乗していた人もいたのであるが、そういう多くの人たちが、わが時来たれりとばかりに民主主義の旗さし物を高くかかげてはでな活動をするのを見ながら、やはり、どうしても、私としては腰をあげることができなかった。(中略)私はなるほど、一度も軍閥や役人の手先をつとめなかった。が、その「節操」の半分は、アウトになった野球選手がベンチで試合を見ている時のような傍観者的無力感、どうあがいても俺は俺の思想の戦いでもう三振したのだと言うあきらめにほかならなかった。(中略)日本の映画界でもっとも戦犯的行為のあったものは、映画企業家だとして世論の糾弾を浴びたが、そしてその中の特に重いものはある時期の間追放されたが、しかし一流の映画批評家の戦争中の活動はそれに劣らぬ戦犯性を帯びていた。ある人は東条の文化統制の機関に参加して日本映画の自由を圧し殺すのに一役を買い、また他の人はその著書で侵略戦争の賛美をおこなった。しかし、私がそれに仲間入りしていなかったことは、本当のところ、偶然のことであって、私が他の人々のように動くことを許されていたなら、私も同じことをやらなかったか、正直のところ、私には自信がない。してみると私自身が潜在的戦犯であったといわなければならない」。

 積極的に戦争遂行に関わっていた人が戦後自らの戦争責任を棚上げしているのが多い状況の中、一方で治安維持法と言う稀に見るの悪法で逮捕された岩崎が、このような謙虚な告白をしているのは、必聴に値すると思う。

・右翼団体の問題

 直接的には国家権力によるマスコミ統制ではないが、関連的に右翼団体等による言論・出版妨害についても述べておく必要があると思う。一般の方々も、右翼団体の街宣活動に恐怖を感じた事があると思う。軍歌を流しながら異常な大音量で街宣車が目の前を通り過ぎるのは、主義・主張を別にして誰にとっても心地の良いものではない。路傍の小さな子どもが怯えているのを、目にした事もある。
 右翼団体と言っても、(立場や主義の違いは別として)心から国の将来を憂う愛国団体から、暴力団が企業等を恫喝する為に起こした似非(えせ)右翼団体もある(これは似非同和団体も同様な事例がある)し、まったく過去の右翼団体と関係ない新興勢力の新右翼団体もあるようだ。私達一般人には、その違いは分かりにくい。

 右翼団体は、街宣活動や時には実力行使によって、自分達の主義・主張に合わない言論活動や出版活動を妨害する傾向がある。次の例もその一つ。森村誠一氏が多数の証言の収集等を基に公表した、七三一部隊の調査記録「悪魔の飽食」はベストセラーとなった。七三一部隊は、先の戦争において細菌戦準備のため生体実験や囚人虐殺をしていたとされるが、その内容を世に公表したため、著者と出版社に対して右翼の脅迫が加えられ、著者の生命の危険を感じさせるほどの事態となり、初版本の出版社が出版続行を拒む異様な事態となった。ちなみに七三一部隊の実態については、元隊員の証言や旧ソ連の記録により、現在ではほぼ確実な歴史的な事件と判明しているし、1948年に帝銀事件が起こった時、警視庁では捜査過程で七三一部隊の実態をかなり的確に把握していたとされる。こうした歴史的な事実に関する出版活動も、右翼は自己の主張に合わないために妨害した。最近(2005年)では、本宮ひろ志氏の漫画内で描かれた南京大虐殺のシーンも右翼団体や保守陣営から激しい攻撃にさらされ、謝罪や当該シーンの削除へと追い込まれた。最も記憶に新しいところでは、自民党元幹事長の加藤紘一氏の自宅と事務所が元右翼団体幹部に放火された事件であろう。加藤氏の主張が気に食わないと言う理由での、許されざるテロ犯罪だ。しかし、政府のこのテロに対する批判のトーンはあまりに低かった。普段は国際テロや北朝鮮の犯罪に対して声高らかに勇ましく批判する政治家達も、こと国内右翼の犯罪となると及び腰になり声を低めてしまう。

 司法に関わる裁判官でも、事情は変わらない。小泉首相の靖国神社参拝に対する"小泉靖国参拝違憲訴訟(※全国各地で起こされている訴訟)"で、福岡地裁で裁判長を務めた亀川清長裁判長は、三権分立の立場から首相の靖国参拝に対して憲法判断に踏み込み、違憲の判決を下した。亀川裁判長は、判決後の右翼からの攻撃を予想して、「遺書を書いて」まで判決に臨んだ。それほどまで、靖国に関わる裁判の判決には、命を賭する覚悟が求めらると言う事だろう。

 裁判官ではなく、裁判に関わる一般の市民の場合はもっと過酷な状況に置かれる。靖国神社や護国神社等が直接、間接に関わる信教の自由を争う裁判での原告に対する誹謗中傷・攻撃はかなり激しい。"かなり激しい"と言うのは控えめな表現で、実際は"言語を絶する壮絶な"攻撃だ。
 "愛媛玉串料違憲訴訟"の原告団長を引き受けた真宗大谷派の僧侶、安西賢誠氏は、自坊の前に右翼の街宣車が張り付き、「国賊坊主!」「寺に火つけたる」「子どもを学校に行けんようにしたる」と大音響でまくし立てられ、家族は震え上がる生活を強いられた。"岩手靖国違憲訴訟"で、原告団長を務めたキリスト教の牧師の井上次郎氏も、右翼団体の激しい攻撃を受けた。「非国民」、「国賊」等と攻撃され、脅迫的な電報も受け取り、夜中の無言電話にも長く悩まされた。街中で右翼の青年に体当たりされた事もあると言う恐ろしい経験もしている。"自衛官合祀拒否訴訟"の原告の中谷康子さんにも、電話、手紙、ハガキで、非難・批判・攻撃が行われた。それは、「非国民」「国賊」「亡国の輩」と言う暴言と共に何年も続いた。裁判の勝ち負けとは別に、信教の自由を守るための闘いは、右翼団体や靖国思想の保守陣営の人々からの激しい誹謗中傷・攻撃を受ける事も意味するのである。

 右翼の街宣活動は、一般の人々には恐怖で耐えられないだろう。信念をもって活動している学者や言論人でさえ、連日の街宣活動や恫喝、脅迫を受けたら、まいってしまうと思う。かくして、過去の戦争を批判・糾弾する声は次第にマスコミの表面から抹殺されていき、戦争を美化する声のみが次第に大きくなっていく。こうした方向性は、過去の人類の歴史を振り返ると、全体主義・軍国主義国家・が生まれる前兆の一つである。今、マスメディアで声高らかに勇ましく言論活動をしている人々は、その多くが保守・右翼の言論人達か、もしくはそれを(本意に関わらず)黙認している人々であると判断してまず間違いない。政府からも圧力も受けず、右翼からの攻撃もなければ、"勇まし気"に主張をするのは"たやすい"だろう。

 この右翼の問題と同系列で語って良い問題に、公安警察の問題がある。公安警察の守備範囲は広く、共産党や極左団体から右翼団体まで(最近では国際テロまで)カバーしている。しかし、公安警察に詳しいジャーナリストによると、右翼団体と公安警察の関係は同胞的な関係であるとされ、右翼から情報を得る代わりに交通違反のもみ消し等の各種利益供与まで図っていると言う。右翼団体が犯行を起こした場合は、公安警察はほぼ誰がやったか特定できていると言う(そこが、事件が起こってから調査する刑事警察とは違う。この辺の事は、別の問題なので今回は詳述しない)。街宣活動中の右翼に正義感ある巡査が注意したところ、公安警察官が出て来て自分達の管轄の事について口を出すなと一喝したという事例もあると言うほどだ。ただし一方で、こう言った事は過去の事例であり、現在の公安警察の実状は改善されつつあり組織も変革されている、と言う話もある。本当のところ、どうなのだろう?部外者にはちょっと分からない。

 政治家が直接言論や出版活動に圧力をかけるのも問題だが、右翼団体による恫喝や脅迫による言論・出版の妨害も恐ろしい問題だ。一般人では、恐ろしくてとうてい反論・反抗する気も起きなくなるだろう。かくして、絶大な力を持った国家権力が直接圧力をかけずとも、代替的に攻撃をしてくれ、保守側や好戦的論陣側の主張を、世に押し通しやすくなる。

 マスメディアが政府の主張を代弁する機関となりはて、学者や言論人も右翼団体等からの実力行使的な言動で反論できなくなる…そんな真っ暗な嫌な時代が将来到来して欲しくないと、心から願う。選挙権は大切に行使する、思想・信教の自由は絶対に譲らない、と心に固く誓っている。


(2006年10年15日記載)


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