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3.靖国神社の歴史

 前回、日本の神道の歴史を概観したが、今回は靖国神社の歴史ならびにその本質を見ていきたい。私の祖父も太平洋戦争で亡くなり、靖国神社に祀られている。叔父の家には、靖国神社の写真と祖父の遺影が高々と掲げられている。靖国神社は、私ならびに私の両親・親類とは決して無縁ではないのだ。なぜ私の祖父が靖国神社に"祭神"として祀られているのか、このページはそれを巡る旅でもある。

・靖国神社の創建

 よほど宗教に関心のある人でなければ、現代の人々は意外と靖国神社の歴史を知らない。靖国神社は、日本各地にある伝統ある神社や仏閣(例えば東大寺や伊勢神宮等)と同様、数百年以上もの歴史のある宗教施設だと勘違いしている人も多いようである。
 しかし、靖国神社は明治に入ってから作られた、創建から百四十年に満たない、神社としてはかなり若い神社である。
靖国神社の前身は、「東京招魂社」と言って1869年(明治2年)6月に現在の九段坂上に建てられた。"招魂"とは、死者を霊から招いて鎮魂すると言う意味であり、古代より行われていたようだが、平安期から戦国期にかけて御霊信仰と融合し、戦争で亡くなった人々の霊を弔う習俗に発展したもの…と言われる。
 東京招魂社は、明治天皇が内戦の最中にある戊辰戦争の戦没者の慰霊と、新政府軍の士気高揚のために(旧江戸城の近隣に)造営を命じたものだ。この創建に尽力したのが、大村益次郎である。大村益次郎は、幕長戦争や戊辰戦争で官軍を指揮し、その功績により新政府下では兵部省の兵部大輔に任ぜられた。

 大村益次郎像

 彼は1869年3月に社地の選定を開始する。上野が候補地に挙がったが、東京城(旧江戸城)の鬼門に当たり、新政府を敵とした彰義隊との戦いの痕が生々しいとの事から、九段坂上に決定した。
 1年半に渡った戊辰戦争が5月に終結すると、政府は戦争で亡くなった兵士の鎮魂祭を6月に行うために、東京招魂社の創建を急いだ。このため、最初の社殿は10日足らずで仮本殿、拝殿、御供所が建立され、6月27日に竣工した。
 第一回合祀は6月28日に行われ、戊辰戦争で新政府軍について戦死した3,588名が御祭神として祀られた。その後の靖国神社の本質を語る時に、見落としてはならないのがその祀られた人々の内容である。東京招魂社で祀られているのは"新政府軍側に就いて戦った人"のみであり、幕府軍側に就いて戦った人々、また後に西南の役で反政府軍となった者達は"賊軍"として扱われ、祀られていないのである。同じ日本人でありながら、同じ大切な命としては扱われてはいない。立場の弱い多くの一兵卒達は、その時の置かれた状況で誰に忠誠を誓うかどうか、つまり官軍になるか賊軍になるかが決定してしまうのであり、東京招魂社に祀られるか、祀られないかは正に時の運だったといって良い。
 東京招魂社に祀られた人々は、天皇への忠誠を基準に、国家の大事のために亡くなった人とされている。天皇に敵対した者は賊軍、朝敵(※朝廷の敵)として排除されている。これは、招魂社に祀るか祀らないか、と言う問題だけで終わらなかった。実際の戦闘においても、その扱いは極端な差となって現れた。会津戦争では、西軍(新政府軍)の戦死者はその地に埋葬し石碑も建立した。しかし東軍(旧幕府軍)の戦死者には手を触れる事すら許さず、死体は獣や鳥に食われ見るも無残な状態になっていったと言う。日本の旧来の伝統では、例え敵方の武将であっても亡くなった場合には敬意を示し、丁寧に供養をしたと言う事例が数多く確認できるのだが、明治期の一連の戦争では敵軍に対しては徹底的な排除が行われた。
 ここに、その後の靖国神社の本質が良く現れている。靖国神社と言うのは、本質的には"慰霊(=死んだ人の霊を慰める事)"や"追悼(=死者の生前を偲ぶ事)"のために存在するのではない。「国家のために戦って亡くなった兵士を称える」ために存在する
"顕彰(=功績を称えて広く世間に知らせる事)"のために存在するのである。よって、賊軍とされた旧幕府軍の兵士達は排除されているし、戦争で亡くなった民間人も軍属を除けば祀られていないし、(意外と思われるかもしれないが)戦争後の平時に無くなった日露戦争の英雄、乃木大将も東郷元帥も靖国神社には祀られていない。お国のために戦って死んだ兵士のみを褒め称え、そうでない人間は排除すると言う原則は、今に至るまで一貫して変わっていない。つまり靖国神社の祀りは、慰霊のためでも、追悼のためでもなく、ましてや平和のためでもなく、徹頭徹尾"お国のために戦って死んだ兵士"を名誉の戦死として"顕彰する"ためにあるのである。「お国のために兵士が喜んで命を捧げる」ためのシステムを作ったと言っても良いだろう。

 
高灯台(常燈明台/※明治4年に建てられた)

 1872年(明治5年)に、東京招魂社が陸軍省・海軍省の管轄になったのを機に、各地の招魂社に祀られている祭神も、東京招魂社に合祀しようとする動きが出てきた。明治新政府の富国強兵策の下、軍は国を挙げて強い軍隊を作るために、東京招魂社を全国の招魂社の"総社"として位置付けたのである。
 ここで、度々登場する神社への"合祀(ごうし)"と言う言葉の意味を解説しておきたい。合祀とは「すでに祀られている神々に新たな戦死者を合わせて祀る」と言う、靖国神社の宗教行為の核心である。この合祀の決定権は、本人や遺された家族にはなく、国家が独占していた。「戦死者は国家のもの」であって、死者や遺族の宗教や思想に関係なく、選択の自由も無く、完全に一方的に合祀された。当時の国民には、合祀を「ありがたく」「名誉な事」として受け止めるように教育された。靖国神社の創建目的が「顕彰」にあるのを考えれば、明治政府の国家にとっては当然の事であった。戦争に加担させられ亡くなった一人一人の死者の思いや遺族の思いはそれぞれ異なると思うが、そう言うものは初めからシステムとして無視されている。

 戊辰戦争以後も各地で「佐賀の乱」「神風連の乱」「萩の乱」等の内戦が続く中、東京招魂社では年々、祭神の数を増やしていく。1877年(明治10年)の西南の役では、政府軍の戦没者が6,000名を超え、東京招魂社の合祀者が倍増したのを機に、政府と軍は、同社を"神社"に格上げする事にした。こうして
1879年(明治12年)6月4日、"東京招魂社"は"靖国神社"と改称された。「靖国」と言う社号は、「春秋」(古代中国の史書)が出典と思われ、「安(※靖)らかに国を治める」と言う意味から来ている。
 さらに政府は、改名に合わせて靖国神社を「別格官弊社」に格付けた。官弊社は、平安時代から受け継がれる社格の一つで、春日大社や出雲大社、平安神宮等の由緒ある大社が名を連ねている。しかし、靖国神社は人間を祭神とするため、天地の神々を祀る官弊社とは同格にできず、
明治政府が特別に新たに設けた社格、これが別格官弊社である。他の一般神社が内務省管轄だったのに対し、靖国神社が陸・海軍省管轄だったのも他の神社と異なる点だった。こうして見ると、靖国神社がいかに新政府の手で限定的な目的を持って、かつ急造されたかが察せられる。

・日本の戦争と靖国神社

 ここからは、日本の戦争とそれに対して靖国神社が果たした役割を考えたい(個々の戦争の背景や戦争にまつわる緒論についての考察は、本論からそれて話しが見えにくくなるので、ここでは省略します)。

 1874年(明治7年)1月、明治天皇は陸軍卿・山県有朋を祭主とする"例大祭"に初めて参拝した。天皇が天地の神々を祀る有力神社に参拝する事はあったが、「臣民」を祀る神社に参拝するのは初めてで、極めて異例の処遇処置だった。以来、明治天皇は在位45年間に、(東京招魂社時代も含めて)計7回参拝している。2回目以降の参拝は、戦没者を合祀する際に行われる"臨時大祭"での参拝が主となる。回数も、1894年の日清戦争より増えている。
 靖国神社は、日清戦争以前は戦いが直接の原因で亡くなった人のみを合祀していたが、日清講和条約調印以降は、戦病死者も合祀する事に改めた。祀られる人々は、東京招魂社の創建時も時の政権政府によって人為的に決定されたが、この日清戦争によっても合祀対象者は政府の都合により変えられた。日清戦争で祀られた祭神は、1万3,619柱となった(※"人"でなく"柱"でカウントされる)。この頃から、天皇が"軍装"をまとって社殿に昇殿して祭神に一礼する「親拝」方式が恒例となった。こうした中、靖国神社は軍が所管する特異な神社として、天皇崇拝と軍国主義の普及に大きな役割を果たしていく事となる。
 日清戦争終結時点で祭神が2万8,000柱に及んだ靖国神社だが、その後も祭神の合祀数は増え続けていく。1899年から1900年、北清事変(義和団事件)が起こる。中国の山東省で中国の反乱に対して、日本を含む英・米・露等の列強8国が共同出兵し、北京や天津を占領した。この事件を機に、ロシアが満州を占領した事が日露戦争の引き金となった。この日露戦争では、8万8,429柱の祭神を新たに合祀することとなった。靖国神社に祀られる戦死者の霊が「英霊」と呼ばれるようになったのも、この日露戦争後からである。同時に、祭神は一個人ではなく、天皇に忠誠を尽くして死んだ人々の総称として、「護国の英霊」として崇められるようになった。

 大正時代は15年と短く、外国との戦争も取り立ててなかったため、臨時大祭は2度しか行われず、天皇の親拝はその内一回で、鎮座50年記念祭の一回と合わせて計2回だった。大正期の
「尋常小学校修身書」には次のような記載がある。
「靖国神社は、東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。(中略)君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭りをするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません」。
 大正デモクラシー運動の中で、日本の軍国主義やその精神的支柱である靖国神社の存在に対する批判も高まっていたが、一方で靖国神社は日本の中の特別な神社として、国内外に知れ渡る存在となっていた。

 昭和に入ると、1931年に満州事変、1937年に日中戦争が始まると、皇室からの参拝も増す。昭和天皇は、1929年(昭和4年)の山東出兵による臨時大祭で天皇の立場で初めて親拝して以来、終戦まで20回親拝している。1931年(昭和6年)の例大祭では、全国から参拝する遺族に汽車や汽船の割引券を交付する特別措置が取られ、地方から上京する遺族が激増した。1926年(昭和元年)に約130万人だった年間参拝者数は、1938年(昭和13年)には約1,280万人と10倍近くに膨れ上がった。
 1938年からは、春秋2回行われるようになった臨時大祭は、ラジオで実況放送されるようになった。全国に散在した招魂社も、1939年(昭和14年)には「護国神社」と改称されて、靖国神社の末社的存在として戦死者遺族や知人が参拝した。このように敗戦までの国家神道の時代、靖国神社は軍国主義の精神的支柱として国民に強大な影響力を持った。
戦時中の「戦陣訓」の影響は大きく、「靖国の神となるまで闘わん」と言う決意によって、生きて捕虜になると言う辱めを避け、死んでお国の神になる事を選ぶ事は兵士にとって当たり前の事だった。こうして将兵達は「靖国で会おう」と口々に言いながら、故郷に家族を残して戦場へ向かったのである。国家と言う宗教への殉教者が、死後に神として祀られるのが靖国神社だった。
 太平洋戦争での合祀数は、2,133,915柱。この数には、もちろん敵国の兵士や(軍属を除けば)アジアの亡くなった人々は祀られていないのは当然として、空襲等で亡くなった日本の民間人も含まれていない。明治維新期から第二次大戦までの総合祀数は約250万柱(※2004年10月17日時点のデータで2,466,532柱)である。

・戦後の靖国神社

 現在の靖国神社(大鳥居/桜の時期に)


 1945年(昭和20年)8月15日正午過ぎ、天皇が玉音放送によって太平洋戦争終結を告げると、靖国神社境内には多くの参拝者が集った。9月に入ると、米国兵の警備が始まり、一般参拝者は激減する。1945年11月に行われた招魂祭では、昭和天皇は戦時中の大元帥の軍服でなく、海軍軍装に似た天皇服で参拝した。これが軍直轄の靖国神社としての最後の招魂祭となった。翌年1月1日に、昭和天皇はいわゆる"人間宣言"を出した。その年から1952年4月に連合国総司令部(GHQ)占領政策が廃止されるまで、天皇や皇族が靖国神社を参拝する事はなかった。
 GHQは、靖国神社を「ミリタリー・シュライン(軍国的神社)」と称して、神社存続の是非を検討した。意見には、靖国神社を焼き払う案も浮上していた。靖国神社の存続を危ぶんでいた陸・海軍省は、11月19日に招魂式を、翌20日にGHQの係官が参観する中、陸軍大将を祭典委員長とした臨時大招魂祭を虚構した。この際に、非常の措置として、降伏調印した9月2日以前の全戦没者を氏名不詳のまま、一括合祀した。
 12月1日、陸・海軍省は廃止され、靖国神社は軍の事務を受け継いだ第一、第二復員省の管轄に移された。その後GHQによって神道と国家の分離が指令され、戦前の"宗教団体法"が廃止され、新たに"宗教法人法"が公布された。このように靖国神社の存亡は厳しくなり、翌年4月29日、戦後最初の合祀祭を行ったが、秋の合祀祭はGHQにより禁止された。
 1956年に総理大臣を務めた石橋湛山(いしばしたんざん)はジャーナリストで、自らも兵役を経験し、次男を戦争で亡くした戦没者遺族の一人だったが、戦後すぐの1945年に「靖国廃止論」を唱えている。石橋が靖国神社廃止を提言したのは、国際的な環境変化もあったが、それよりも"大東亜戦争"が"汚辱の戦争"として"国家をほとんど亡国の状況の危機"に導き、それらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って"もはや「靖国」とは称し難きに至った"からである。旧陸・海軍省が靖国神社の存続に懸命になっていた一方で、石橋湛山のような意見もあった。

 こうした状況下、靖国神社は、一宗教法人への道を選択さぜるを得なくなっていく。1946年2月、GHQが神社関係の法令を改廃したのに伴い、明治政府によって定められた官弊社、国弊社等の社格は廃止された。そして、新たに民間の宗教団体として「神社本庁」が設立された。全国の神社は、6ヶ月以内に地方長官に宗教法人の届出をしなければ、解散したものとみなされる事となった。この措置で、当時約10万あった神社の約9割が宗教法人となり、大半がこの神社本庁に所属した。しかし、靖国神社はこれに属さず、単立で宗教法人となる道を選んだ。
 靖国神社は1946年4月に、「国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰籍、平和醇厚なる民風を奨励するのを目的とし、事業を行う」とする靖国神社規則を定め、9月1日に東京都知事の認証を得て、7日に宗教法人靖国神社の登記を完了した。その後も、靖国神社は一般の神社と区別されGHQ管理下に置かれたが、例大祭や新たな行事も取り入れて再出発した。余談だが、この時期靖国神社は、社地に映画館や娯楽施設を作る事も考えた事もある。
 1947年4月にには「社地等に無償で貸付してある国有財産の処分に関する法律」が制定され、一般の神社は申請により、国有地だった社地を(一部を除き)無償で譲与された。靖国神社の国有地譲渡は、1947年4月27日に神社側から申請がなされ、1952年11月15日に約3万坪の境内敷地が無償譲与された。その年の8月1日、靖国神社は宗教法人の設立を公告。9月30日に「靖国神社規則」と「靖国神社社憲」を制定した。

・靖国神社と日本遺族会

 1951年9月8日、サンフランシスコで、連合国と日本の戦争状態を終結させる平和条約が調印され、翌年4月28日に発効した。二日後の30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布・施行され、軍人及び軍属(軍隊に所属して働いてい人々)とその遺族に、年金・弔慰金が支払われる事となった。
 
全国の戦没者遺族代表が、1947年11月に「日本遺族厚生連盟」を結成した。これに先立って、実は様々な組織づくりが追求されていた。戦争犠牲者遺家族同盟、戦争犠牲者救援会、戦争犠牲者遺族同盟等いくつもの団体が登場している。一方、靖国神社の嘱託で元海軍中佐の大谷藤之助が、全国の遺族を訪ねて、その結成を働きかけている。1946年、1947年、同胞援護会や全国平和連盟東京都本部等の組織の協力や働きかけで戦争犠牲者遺族大会が開かれたり、遺族代表が集まったりした。
 こうした経過を経て、日本遺族連盟が結成されたのである。この時の連盟は、GHQの指導によって「戦没者遺族だけでなく、社会に貢献して亡くなった遺族も加える」、「遺族の相互扶助を目的とする」、「元職業軍人等は役員にしない」と言う条件がついていた。したがって、当初の組織には「英霊の顕彰」思想は見られず、戦没者遺族の経済的困窮を救う施策の実施が日本遺族厚生連盟の最大の目的だった。しかし、この連盟の性格は徐々に変質していく。
 遺族援護法が制定された直後の1952年6月、日本遺族厚生連盟理事会・評議会では、「戦犯処刑者の遺族を遺族会に入れる」、「戦犯処刑者、学徒、国民義勇隊の霊を出切れば靖国神社に、少なくとも各地方の護国神社に祭るように努力する」、「戦没者に対し国民感謝の日を設けるように努むる」等の運動方針の大綱を決定した。そして同連盟は1952年11月に、第4回全国戦没者遺族大会を開き、宣言・決議文の中で遺族年金や弔霊金の増額改正等の実現を決議する。それとともに、靖国神社に関しては「慰霊行為はその本質にかんがみ国費又は地方費をもって支弁するよう措置すること」を明文化した。これを機に、靖国神社を国家護持化する動きが表面化していく。

 日本遺族会本部(九段会館)

 
1953年3月、日本遺族厚生連盟は「財団法人日本遺族会」に改組し、靖国神社近くの旧軍人会館(現九段会館)が、国の特例で無償無期限で貸しけられた。日本遺族会になると、遺族運動の目標が大きく変質した。「寄付行為」の目的を謳った中から「戦争防止」、「世界恒久平和」、「人類福祉」がそっくり消え、代わって「慰霊救済の道を開く」事が登場した。さらに10月、「寄付行為」の変更で初めて「英霊の顕彰」が会の目的の冒頭に規程された。
 日本遺族会は、当時約800万人いた遺族の巨大な組織力と団結力をバックに、政府や国会議員への働きかけを強化する。遺族援護法制定運動を通じて政権政党へのパイプを作り、巨大な組織を集票マシーンとして使い、利益代表を国会に送り込んだ。また、日本遺族会の意向を代弁する遺家族議員連盟が、衆参両院に1950年代初めに生まれる。日本遺族会は、遺族への国家補償を求めるだけでなく、「英霊の顕彰」を掲げて国の代表者の靖国神社参拝を呼びかけていく(以来、日本遺族会の巨大な影響力の下、政権与党の多くの閣僚や総理大臣が、物議を醸しながらも靖国参拝を行っていく道筋が醸成されていく)。
 1955年3月29日には、約8,000名の全国遺族代表が靖国神社の大村益次郎像前に集まって、鳩山一郎首相(日本民主党)、緒方竹虎自由党総裁らの出席の下、第7回全国戦没者遺族大会を開催した。翌年1月の第8回全国戦没者遺族大会では、「靖国神社・護国神社は、国又は地方公共団体で護持すること」と決議し、靖国神社への国家補助の必要性を説いた。
 こうした状況下で、靖国神社国家護持のための法制化の動きや、公式参拝等の動きが進んでいく。次回以降は、こうした諸問題を考えていきたい。

・靖国神社の本質

 駆け足で靖国神社の歴史を振り返ってみたが、ここで今一度靖国神社の本質(※存在意義)をまとめてみたい。
 歴史で振り返った通り、靖国神社(※創建時は東京招魂社)は、
明治の新政府の意向・政策に沿って創建された神社である。政府軍のために戦って命を失った兵士を"顕彰(功績を称えて世に知らしめる事)"するために作られた。つまりお国のために喜んで命を捧げてもらうために、政府の政策によって創建された神社である。ここで言う"お国のために"とは、正確には"時の政権政府の政策(主に戦争)のために"と言い変える事が可能だろう。よって、他国の敵軍兵士やアジアの民衆は元より、日本人であっても爆撃等で亡くなった一般民間人や賊軍(江戸幕府軍や反政府軍)の兵士は一切祀られていない。また、合祀の際には本人や遺族の意思や思想はまったく加味されない。そして一度神として合祀したものを、靖国神社側が取り下げる事もありえない。それは現代に至るまで、原則は変わっていない。「国のために戦って死んだ英霊を顕彰をする」…これが靖国神社が存在する最大の存在理由であり、靖国神社の本質である。そして、私の祖父もそこに祭神として祀られているのである。


(2006年 6月 4日記載)


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