クリスチャンのための哲学講座

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23.論理哲学論考/ウィトゲシュタイン



 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、1889年4月26日、ウィーンにて誕生。「論理哲学論考」は1918年に完成。ウィトゲンシュタインが生前に著した唯一の哲学書である。彼は、1951年4月29日に前立腺ガンで死亡。死後には、その後の彼の著作は「哲学探求」としてまとめられる。

 「論理哲学論考」のページをめくっていくうちに覚える感覚は「なんじゃこれ!?」である。僕は哲学を専攻した人間ではないので、「何だかよく分かりません」状態・・・まずはそれが最初の正直な感想。哲学書なのに、論理、論理、論理の箇条書き。もしくは、数学の方程式のような文章の羅列。一体全体これは何なのだろうか?彼の言っていることを1項目ずつ正しく理解するのは、おそらく半年~1年ぐらいかかる気がする。学者ではなく毎日の仕事も家事もある身で、そこまで割ける時間はないし時間をかけるつもりもない。これは、バートランド・ラッセル氏や訳者の野矢茂樹さんの解説、もしくは別書「哲学」の貫成人さんの解説がなければとても理解の入口にすら立ちえない内容。少しずつ理解使用と務める。
 ただしウィトゲンシュタイン自身によると、ラッセル氏の解説もどうやら「かなり」間違っているらしい(笑)。なら、このド素人の自分に理解できる訳ないじゃないかぁ~!

 と言う訳で、さて彼は何を言っているのかと言うと(※種々の解釈からも察する)、「私(ウィトゲンシュタイン)にはどれだけのことが考えられるのか」が基本問題である。思考の限界を見通すことで、哲学問題が思考不可能な問題であることを示し、そこに終止符を打とうとすること。彼は、言語の限界を明らかにすることで思考の限界を示そうとする。言語と言うものの限界、不明瞭さを説く。特に哲学者が使用する言語の曖昧さを指摘する。
 僕なりの解釈をすると、例えば僕が「リンゴ」と呼ぶも果物を、ある人が「パイン」と呼んだりしたとしたら共通認識・理解が不可能になる。逆もまたしかりで、別の2つの物に1つの名が与えられてはならない。哲学の用語もそうで、共通言語の理解を示さずに、いくつかの意味に取れるような曖昧なまま使用したら論理が成り立たない。ウィトゲンシュタインは、単純な物に名を与えることが論理学における論理的な出発点であると説く。
 次に名をあたえるだけでは世界の記述には足りず、2つの意味を持ちえない原子的事実(=注:ウィトゲンシュタインの用いた用語では無い/マイ解釈:これ以上は分解できない最小要素と言う意味でしょう)の必要を説きます。原子的事実を主張する命題は、原子命題(=注:ウィトゲンシュタインの元本文では「要素命題」)と呼ばれる。原始的でない命題は分子命題(=マイ解釈:原子要素が絡み合った複合的な命題という意味でしょう)となる。彼(a)は彼女(b)と愛する(R)は、aRbと言う複合記号で表せる。ウィトゲンシュタインは、命題を数式で表していきながら、このような論理を「論理哲学論考」の中で展開していき、すべての命題は原子命題から構成されうると主張する。どんな感じかと言うと、以下に最も単純な式を例示しておきます。
w1=Ф
w2=p
w3=q
w4=p、q
意味は、w11はpもqも成立していない、w2はpだけが成立している、w3はqだけが成立している、w4はpもqも成立している。とまあ、こんな感じが延々と続くわけです。

 彼の定義に従えば、識別不可能なものを同一とする同一の定義は、不可識別者の同一性が倫理的に必然的な原理でないと思われると言う意味(=マイ解釈:要は「みんな物の見方や考え方がバラバラだよね?」という意味でしょう)で、却下されます。ここにおいて我々は、世界全体について何ごとかを語ることはできないと言うテーゼに向き合うこととなります。我々は現実に成立してきた世界を「事実」と呼び、将来の可能的な事実を「事態」と呼ぶ。我々は「事実」から出発するしかない。現実から可能性へ、どうやって到達するのか?事実を要素に分解し組み替えて事態を何度も構成するが、それは可能性のみであり存在するものではない。語り得るのは、ただ世界の限られた部分のみと言うこと。我々が世界を記述できるのは、世界の外に立った時のみ(=マイ解釈:我々が神になった時の視点と言う意味でしょう)。
 そこから導き出される帰結として、従来の哲学の基本的枠組みの「本質」を否定して、「家族的類似」(※乾氏の「哲学」より引用)というものを提示します。どういうことかと言うと、例えば、ゲームと言う概念の本質を理解しようとしても、オセロゲームの性質はサッカーには当てはまらないし、野球の性質はトランプには当てはまらい・・と言うように、ゲームと言う意味において類似はしているけれでも概念の本質を規定できない。それは、大家族の集合写真のようなもので、互いにどこか似ているけれども、共通の特徴がある訳ではない・・・このゆるいネットワークを「家族的類似」と、ウィトゲンシュタインは呼んだ。従来の哲学が古来より長年指向してきた、同一の本質の否定である。


現代に生きる我々とウィトゲンシュタインの哲学の適用について

 日本と言う国は、世界でも屈指の曖昧な言葉を使う傾向がある。もはや言葉ですらない「忖度(そんたく)」すら存在する。憲法解釈なんかもそう。政権党がある結論に持っていきたいがために、「憲法をこう解釈します」と(憲法自体は変えずに)本来持っている憲法の内容を曲げてしまい骨抜きにするとか。不正を犯して捕まったのに「謝ったのか、謝ってないのか」判然としないまま、禊(みそぎ)と称する期間を終えて職務に復帰する謎の因習とか。「前向きに検討します」=「何もやらない」というお役所答弁とか。まあ、色々ありますが、本来の意味から外れた曖昧な言葉の使用方法は、同様に外交後の場でも混乱を起こしてきました。言葉に厳密な「これ以上の解釈の余地が無い」と言う意味を敢えて持たせないようにすることで、国内外で様々な混乱が生じてきました。日本は、もう少し「言葉」と言う物に責任をもった方が良いと感じています。言葉が軽すぎます。
 また、ウィトゲンシュタインの考え方の学問への影響も考えてみましょう。プラトン以来の「ある概念は何かしら本質的な特徴を共有している」と言う本質主義を否定した点で画期的なのである。今までの哲学だと、「物事には概念上の共有の本質があるはずだ!」と考えてきた。例えば、花を見て美しい、空をみて美しいと感じる「美しい」には何かしらの「共通する本質があるはず」と探求してきたが、似てはいるが無理に同じ本質を探さなくて良い、ゆる~く「類似しているよね?ってことで良いんじゃね?」て事です。
 この哲学を具体的に展開するならば、例えば、国や地域によって異なる共同体(社会)について、共通の本質を探求すると言う無駄な努力を省ける・・・と言うことです。


クリスチャンである私とウィトゲンシュタイン哲学の関連について

 正直なところ、現時点ではのウィトゲンシュタインの適用についてはよく分からないことだらけです(笑)。自分の生活(取り分け信仰生活)にどう言う関わりや影響があるのか、今のところ明確な考えが思い浮かびません。
 少なくとも聖書に関して言えば、共通の本質があります。旧約聖書・新約聖書全66巻は、数千年の長きに渡って様々な著者によって書かれ、歴史書、詩や箴言、預言書、手紙、黙示文学など文体も様々ですが、創世記からヨハネの黙示録まで一貫したテーマで貫かれています。無駄な努力をせずとも、そこに共通の本質があることを理解できます。
 一方でまた、言葉の厳密さ=原子命題(※ウィトゲンシュタイン本文では要素命題)には、ある程度の理解ができます。「神の愛」、「バプテスマ」、「聖餐」(その他色々)と言った用語も、実は異なる解釈の内容を含んでいて原子的な命題ではなく、自分と他者ではその用語が抱合する意味合いが違っていることもあるでしょう。意味するものが違う言葉を同じように使うことで、混乱が生じることもあるでしょう。そんなことを、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考は考えさせてくれます。
 最後にもう一つ、人間の論理的思考には限界があると言うこと。人間はどんな天才であっても、完璧に神の視点に立つことは不可能です。例えば、僕が共産主義が不可能だと思うのはその一点ですし、またニーチェのような哲学者が自分を神と同等であると主張することも全否定するのはその点に他ならないからです。

 正直なところ、今まで読んだ18人の哲学者の中では、TOPレベルの難しさがこのウィトゲンシュタインでした。以前読んだパスカルの「パンセ」は辞書のように分厚く700ページ以上ありましたが、解説も含めて240ページしかない本書の方が遥かに難解でしたm(__)m・・以上です。

(2024年 9月28日記)

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