クリスチャンのための哲学講座

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17.生と死/アルフォンス・デーケン

 僕は、哲学書に関しては、なるべく歴史の精錬を得た物を読むようにしている。と言うのも、哲学書は玉石混交で100名の哲学者がいれば100の哲学がある、というぐらい色んな哲学があるので際限がなく、限られた人生でそれらの読書に割く時間もないからです(※※まったく読まない訳じゃなくて、近年のあの哲学者やこの哲学者の本も読んだら頭の片隅に入れておきます)。今回、久しぶりに存命中の哲学者の本を読みました。
 今回、読んだのはアルフォンス・デーケンさんの「よく生き よく笑い よき死と出会う」(新潮社)です。この本は、とあるお医者さんが貸してくれた本であると同時に、看護士である妻が看護大学生の頃に読んでいたデーケンさんの本でもあり、その妻にも勧められたので読みました(※少なくとも周囲2名の精錬は経ているww)。



 このデーケンさんは、ドイツ生まれの方で、ナチス政権下の暗黒時代に少年時代を過ごした方である。父はユーモアに満ちた人であると同時に、密かに反ナチ運動をしていた人でもありました。散歩しながら、よく会話する家族だったようです。ドイツ敗戦後に、自己の住宅に難民を受け入れるような父親でもありました。「同じ人間同士、困っている時には温かい手を差し伸べよう」・・・そう言う父でした。
 デーケン少年は、このナチ政権下の時代に二つの大きな決断を迫られます。学校のたった一人の代表として、ナチのリーダーを育てるエリート養成学校へ行くよう校長に申し出を受けます。デーケン少年は、それを拒否しました。これは、たいへん危険な意思表示です。挨拶を「ハイル・ヒトラー」で締めくくる校長ですから。学校生活は苦しいものになり、同級生からはなじられ、いじめられました。
 デーケン少年は、もう一つの決断を迫れらます。戦争が末期に近づくと、連合軍の飛行機がドイツ上空を飛び回るようになります。近所の友人の家が焼夷弾の直撃を受け、10人いた兄弟もろとも炎に包まれ亡くなりました。汽車に乗っている時に戦闘機の一隊の攻撃を受け、飛び降りて逃げる乗客に機銃掃射があり、デーケン少年も森の中に辿り着けずに倒れて、数センチ脇の所に弾丸がかすめていった経験もしました。そしていよいよ、連合軍が街にやって来た日の事です。歓迎の白旗を振って連合軍を歓迎した祖父が、連合軍兵士に打ち殺されてしまったのです。理不尽です。不条理です。反ナチ運動を遂行してきた家族です。まさか連合軍に撃たれるとは。この出来事は、デーケン少年の理解を超えていました。彼は、またもや決断を迫られます。家族を射殺した人間を許せるのか?彼は小さい頃からカトリックの教えを受け「人間が大人になる時、信仰は自分で選ばなければならない」と学んでいました。悩みぬいて、デーケン少年は決意しました。街をすっかり占領し終えた連合軍兵士の一人に「ウエルカム!」と言ったのです。これが彼の二番目の転機でした。兵士が出ていくと同時に、彼は祖父の遺体にひざまずき泣き崩れました。
 デーケンは、その後日本に来るのですが、それは「長崎の26聖人殉教者」の伝記の中のルドヴィコ・茨木の言動が根底にあるそうです。12歳のルドヴィコが、当時のデーケン少年と同じ12歳で信仰を捨てずに、十字架上で苦しみの極限を味わいながら聖歌を歌って殉教した・・・この事実が当時の苦難の中にあったデーケン少年の心に感激を与え、励まし、勇気を与えました。
 彼は、少年時代から青年時代にかけての身近な死の体験、そして文学作品などから、「生と死」の課題を感じ取っていきました。その後の過程はこのページの都合上省きますが、彼は1959年に来日し、2003年3月に上智大学を定年退官します(上智大学名誉教授)。

 では、彼の哲学とは、どのようなものなのか?
 この本では、私の共感するキルケゴールも引用しながら語ります。「キルケゴールによれば、人生のドラマはの主人公は当然ながら自分であるべきで、だとすれば傍観者的な態度でいいはずもなく、あらゆることは自分の責任で選択しなければいけない。インテリに共通した危険性は、多くのイデオロギー、哲学などを勉強しても、頭の中のレベルで知っているだけで選択しないことだと看破しています」と書きます。その通りだと思います。例えば、テレビのコメンテーターの発言など、炎上しないように計算されたどっちつかずの曖昧な発言のオンパレードですよね。何かを語っているようで、何も語っていない。自分の責任で、選択していない。強い立場の意見に対して、はっきり「No!」の意思表示するものは表舞台から降ろされます。
 彼はドイツの詩人、リルケの言葉も用いながら語ります。「人間は自分なりの生を全うしなければならないのと同じように、自分なりの死をも全うしなければならない」。その他、マックス・シューラ―やガブリエル・マルセル(※20世紀のソクラテスとも言われた哲学者)など様々な人の影響を受けつつ、語ります。
 最初に、「問題」と「神秘」のアプローチ。「このマイクはなぜ音が聞こえなくなったか?」の問いは、原因を探って「電池が切れているから」と分かり「問題」を解決できます。一方「なぜ4歳の妹は死ななければならなかったのか?(※デーケンは少年時代に4歳の妹を病気で失っている)」と言う疑問は、どう考えても完全な解決などないのです。技術的なノウハウで解決することは不可能です。これらは「神秘」の次元に属することであり、人間のコントロール下に置くことはできないのです。神秘に対しては、支配を試みるのではなく、謙虚に開かれた心で接しなくてはならないのです。「神秘」に対しては、「問題」とは違う態度が必要なのです。「神秘」のレベルは、愛、自由、人間、出会い、苦しみ、悪、存在、誕生、そして生と死。
 そして「所有」よりも「存在」。物を持つと言う外面的な価値は相対的なものになり、人生の重点は内面的な対象へ移行していくべきであること。そして、人間は成熟するにつれて、「価値観の見直しと再評価」が必要になってきます。
 また「日常的希望」と「根源的希望」の区別。日常的希望は、我々の日々の生活に関する希望です。根源的希望は、未来に向かって希望に満ちているかどうか。永遠に対する希望も、これに含まれます。
 さて、デーケンさんが
「死生学」をライフワークとして決意したのは、東ドイツから亡命してきた30代の末期がん患者と最後の3時間を共に過ごしたことであったそうです。人間にとって、真に永続的な価値を持つものは何か、その問いには答えなど出せるはずもない。その無力感がスタートで、それが人生の宿題です。「死の哲学」が、デーケンさんの生涯の研究課題となりました。

 「死」は確実に、誰にでも訪れます。人間の死亡率は、100%です。「死」をないがしろにすれば、今の人生や今ここに生きている人間を理解することも、不可能になります。死とは将来の問題でなく、今日直視しなければならない問題です。私達は世に生を受けた瞬間から、死に向かって歩き続ける旅人です。「死」について学んでいれば、同時に「生きる」ことの尊さも発見できます。死や老いは突然に訪れるわけではありません。そこに至る危機があります。デーケンさんは、その
中年期の危機を8つに分けます。
①時間意識の危機…折り返し地点を過ぎた人生で時間意識を変革し、有意義なことの時間にためらわずに進む。
②自分の役割意識の危機…同様に、意義ある人生を送るため新しい役割意識を模索する。
③対人関係における危機…若い人は「こいつは使えない奴!」と無意識に機能的に人間を表現してしまいがちだが、中年期はもっと深い「人格的アプローチ」を目指す。人に会うのは、まさしく「その人」以外に目的は無く、会うこと自体がすべて。
④価値観の危機…あなたにとって大切なのは「家族」ですか?「仕事」ですか?何ですか?「家族が大事だ」と言いながら、「ゴルフ」や「残業」に費やす時間が「家族と過ごす時間」よりも重要なら、それは「家族」を大切にしているのでしょうか?自分の価値観を見直すこと、つまりライフスタイルを創造することは非常に有益です。
⑤思い煩う危機…昔からある希望の祈りが、これを端的に言い表している。「神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、変えられることは、すぐそれを行う勇気と、そして、それらを見分けるための知恵を、どうぞ、お与えください」。自分の力でどうにもならないことは、くよくよ悩まない。
⑥平凡な人生の危機…埋もれている自分の潜在能力を開発することが、平凡な人生の危機を乗り越える最良の応戦方法。
⑦死に直面する危機…ケガや疲労など、若い頃にはなかった不快な体験を色々するようになります。周囲の人の死に直面する機会も増えてきます。特に身近な人の死は、最大の危機であり過酷な挑戦です。簡単な対処方法はありません。現代社会では「死」はタブーとされていましたが、「死」について学ぶべきである。悲嘆のプロセスは、前もって教育を受け、心の準備を整えておくことが有益。
⑧真面目になりすぎる危機…ユーモア感覚を豊かにすること。人間らしく生きていく上でかかせない条件。

 人間には、人生の3段階があって、
「第一の人生」は教育を受けて社会に出るまで、「第二の人生」はまさに社会で働く段階で、この頃から上記の中年期の危機が訪れます。そして、いよいよ中年期の危機を乗り越えると「第三の人生」を迎えます。仕事の定年を迎えたあたり。そして、第三の人生に、6つの課題を提案します。
①手放す心を持つ…過去の業績や肩書きに対する執着を捨てる。
②許しと和解…人生の締めくくりを迎えるにあたり、他者と和解する。
③感謝の表明…支えてくれた周囲の人々へ感謝を表す。
④さよならを告げる…旅立ちには挨拶がつきものです。
⑤遺言状の作成…争い事が起こらないよう配慮。
⑥自分なりの葬儀方法を考える…残された人々への思いやり。

 そして、デーケンさんは、「死ぬ瞬間」を著したエリザベス・キューブラー・ロスの、死を前にした患者がたどる(かの有名な)5段階のプロセスに、自身の提唱する6段階目を加える。ちなみに、デーケンさんもガンの体験と闘病生活をしており、それが皮肉にも自己の研究に深い示唆を与えたことを告白している。
①否認…告知された患者の、自分が死ぬと言う事実の拒否。
②怒り…「なぜ死なねばならないのか!」と言う怒り。これは「私は生きている!」と言う自己主張でもある。
③取り引き…怒りが収まると、医師、運命、神などに対して、死の先延ばしの交渉を試みます。
④抑鬱…近いうちにすべてを失うと言う自覚が、深い抑鬱状態を引き起こす。
⑤受容…患者は死が避けられないと言う事実を素直に受け入れようとする態度に至る。
⑥期待と希望…死後の生命を信じる患者は、さらに進んで永遠性への「期待と希望」の段階に達することが多い。

 本人の死と同じように、「大切な人を失った時、遺された人はどう生きるのか」と言うテーマが重要になります。身近な者の死に対する「悲嘆のプロセス」にも12段階あると言います。デーケンさんも、少年時代に病気で妹を失い、また連合軍の銃弾により祖父が不条理な死を迎えています。
①精神的打撃と麻痺状態…愛する人の死と言う衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。
②否認…死と言う事実を認めることを否定します。
③パニック…身近な人の死に直面した恐怖から、極度のパニック状態になります。
④怒りと不当惑…「なぜ私がこんな目に!」と言う不当な仕打ちを受けたと言う感情が湧き上がる。加害者、運命、神、自分に対する強い怒りを感じる。
⑤敵意とうらみ(ルサンチマン)…周囲の人々や故人に対して、敵意と言う形でやり場のない感情をぶつける。スケープゴートを探しているのです。
⑥罪悪感…過去の行いを悔やんで自分を責めます。
⑦空想形成、幻想…空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞います。
⑧孤独と抑鬱…周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってきます。
⑨精神的混乱とアパシー(無関心)…日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしたら良いか分からなくなり、あらゆることに関心を失う。
⑩あきらめ―受容…つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。
⑪新しい希望―ユーモアと笑いの再発見…いつかは必ず希望の光が射し込んできます。
⑫立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生…そして立ち直りの段階を迎えます。愛する人を失う以前の自分に戻ると言う事ではなく、悲嘆のプロセスを経て、より成熟した人格者として生まれ変わることができます。

 もちろん、これらの段階はすべて通過するわけでもないし、順番通りに起こるとも限らない。デーケンさんは、この他にも「死」の4つの側面や「ホスピスケア」のアプローチについても書いていますが、ここでは割愛します。


現代に生きる我々とデーケンの哲学の適用について

 最近の風潮として、デーケンさんは次のような比喩を語ります。最寄り駅で「グリーン車をお願いします」と頼んだとします。すると係員は、「行く先はどちらですか?」と聞くでしょう。それに対する答えは、「行く先はまだ分かりませんが、とにかくグリーン車に乗りたいのです」。駅の係員は困ってしまうでしょう。
 確かに、近年の傾向を上手く言い表している例えだと思います。「とりあえず有名な高い大学に入りたい。」⇒「何のため?」⇒「目的は入ってから考えます」的な。「とりあえず大企業や官公庁に就職したい。」⇒「そこで何をしたいのですか?」⇒「それは入ってから考えます」的な。そういう人生は、希望した企業に就職できないとか、リストラで仕事を失ったりしたらすぐに絶望してしまいます。それでいいのでしょうか?
 デーケンさんは言います。自分はどこに向かって旅をするのか、いわゆる「生きがい」や「人生の意義」について深く考えながら、旅は計画されなばならないのです。はっきりしたゴールを持つことが大切なのは、当たり前のことです。現代の日本人では、この当たり前の前提が事実は当たり前で無かったりしますよね。若い人はもとより、高齢者については尚更で、旅人としての自己発見、新たな生きがいを見出すことは重要なのです。いつも新たな冒険に立ち向かう若々しい精神を持って、毎日の生活に取り組んでいただきたい、とデーケンさんは言います。
 そして人生におけるユーモアの重要性を説きます。ユーモアとは、ジョークや笑いのテクニックのことではなく、もっと根源的なことです。ユーモアと笑いは、自分の心の安全弁としての機能を果たすと共に、周囲の人たちにやさしい愛と思いやりを示すのに、優れた効果があります。自分の健康を保つのに役立つだけでなく、人と人とのコミュニケーションをスムースにします。ユーモアの定義は、「『にもかかわらず』笑う事である」。「自分は今苦しんでいます。しかし、それ『にもかかわらず』、相手に対する思いやりとして笑顔を示します」と言う意味です。
 我々が、より良い生を生きることに対して、デーケンさんは様々な示唆を与えます。

クリスチャンである私とデーケンの哲学の関連について

 
私たちは皆、神からタラント(※才能の語源)をいただいています。有意義な人生を送ることは、この授かっているタラントを十分に活かすこと。我々は、授かっているその価値に気がつかないで過ごしていることが多いのです。
 また、人間、自然、音楽、美術、文学などとの出会いを通して、そして何よりも神との出会いによって、精神的に一段高い境地に進むことができます。その至高体験を通して、その後の人生は更に深く豊かになっていくでしょう。
 もう一つ、重要なのは死後に関することです。死後の生命の存在を厳密に証明することは不可能です(逆に言えば、死ですべてが終わると言う事も証明不可能です)。ソクラテスやプラトンの時代からパスカルのような科学者・思想家達まで、多くの哲学者には、死後の生命に関する長い伝統があります。
 キリスト教では、永遠の生命は既にこの世から始まっているとされます。イエス・キリストは、天国を様々な例えを用いながら、我々の想像を遥かに凌ぐ素晴らしい国であると教えます。私たちは、どんなイメージを使っても「永遠の命に預かる幸福」を完全に表現することはできず、今は「天国の永遠の生命」に関して子供のようにしか理解できませんが、キリスト教では、死後に天国で復活して、先に亡くなった愛する人々と再会し、神の無限の愛に包まれて生き続けるという希望が、信仰の根底を支えているのです。クリスチャンにとって、「死」は「終わり」を意味しない、希望なのです。

(2016年3月8日記載)


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