クリスチャンのための哲学講座

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14.死に至る病/ゼーレン・キルケゴール(キェルケゴール)



 ゼーレン・キルケゴール(発音によってはセーレン・キェルケゴール)は、1813年生まれのデンマークの哲学者にして作家。"実存主義"の先駆者とも言われる。1855年に若くして亡くなる。僕は彼の「愛について」を20代の若き日に読み色々と考えさせられ、そして昨年(※2009年5月)「死に至る病」を読んだ。絶望に陥った人間の心理を、奥深くまで入って考察する歴史的著作である。実存哲学への道を拓いた「死に至る病」から、彼の説く哲学を考えてみたい。
 「死に至る病」は、正直に言うと、全体的に文章がまどろっこしい。例えば「自己とは、自己自身と自己との関係性における関係である」…って言うような具合にまどろっこしく、難解に感じられてしまう。しかし、内容自体はそう難解という訳でもない。例えばこの
まどろっこしい言葉を、僕なりにシンプルに言い変えると、「僕は、こんな僕はもう嫌だ。他の人間のようになりたい」もしくは「僕は僕自身、(理想的な)かっこいい僕になりたい」と言ったような、自分のことを自分でどうあるべきかと定めるような、自分と自分自身の関係性を言っていると考えて良いと思う。
 キルケゴールは、例外的人間として"自己の存在理由"を生涯に渡って問い続けた。彼は肉体的な棘を持ち(※研究によると彼はせむしだったと言われる)、家族(父親、兄弟から甥に至るまで)精神的な棘(※主に鬱症)も有していた。キルケゴールは7兄弟だったが、5人が早世し、長兄も精神的な病のため司教の職を辞せざるを得なかった。甥の中には精神病院に入院した者もおり、自殺を遂げた者もいたと言われる。キルケゴール自身も、自分は34歳までに死ぬものと思っていたようだ。このような余りに"例外的な人間"としての疎外感を感じていたキルケゴールにとって、自己の存在意義を問い続けるのは必然であった。
 彼はまず"死に至る病"とは、"絶望"のことであると述べる。
 「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身に関係するところの関係」である(
※一見分かりにくい表現だが、先に僕なりのシンプルな表現を記した)。絶望には二つの形態があるが、もし人間の自己が自分で自己を措定(※そてい=そう想定すること)したならば、その場合はただ絶望の一つの形態のみが言える。すなわち、絶望して自分自身であろうと欲せず、自分自身から逃れ出ようとすると言う形態についてである(※僕的な表現では「もうこんな自分でいたくない!!」と言うことである)。では、絶望して"自己自身であろうと欲する"場合は、どんな場合か?(※これは僕的な表現では「僕は(ああ言う理想的な)自分であるべきだ!そうでなければならない!」と言う事に近いと思う)。それは、自己と言う全関係がまったく依存的なものであり、自己は自己自身によって平安には到達しえない。それ故に、絶望の第二の形態(※絶望して自己自身であろうと欲する形態)は、単に絶望の一種特別なものにすぎないのでは断じてなく、その逆であらゆる絶望がその中に解消せさめられうる所以のものである。もし絶望状態にある人が、自分で自分の絶望を意識しているつもりでおり、自分ひとりの全力を尽くして自分の力だけで絶望を取り去ろうとしていることがあれば、彼は尚絶望のうちにおり、その苦闘はますます彼をより深刻な絶望の中に引きずり込むのである(※これも僕的な表現では「自分自身の力で自分を理想に近づけようとし、ますますそれは不可能になっていき、逆にどんどんと絶望の淵に落ちていく」と言う感じ)。
 自己は、無限性と有限性から形成されている。かかる総合は関係である。絶望とは、自己自身に関係する関係としての自己(総合)における分裂関係である。もし人間が総合で無かったならば、絶望すると言う事は全然有り得ないだろう。また、総合が神の手によって根源的に正しい関係においてあるものでなかったとすれば、この場合も人間が絶望すると言うことは有り得なかいだろう。つまり、
"絶望"は総合が自己自身へと関係するその関係から来るのである。人間を関係たらしめたところの神は、人間をいわば彼の手から解放するのである。かくて人間は、自己自身に関係するところの関係となる。
 キリスト教的な意味では、死でさえも死に至る病ではないが、"絶望"は別の意味で一層明確に"死に至る病"である。この病は肉体的な死をもって終わるのではなく、絶望と言う苦悩は死と言う最後の希望さえ遂げられないほど希望がすべて失われているのである。絶望者は、一時的に"何か"について絶望する。しかしそれは一瞬的なことであり、本来的な絶望ではない。"王様になれなかった"、"恋愛が成就しなかった"…自己に絶望して、自己自身を抜け出そうと欲すること、これがあらゆる絶望の定式である。絶望して自己自身であろうと欲する場合も、実は同じである。彼が、自分で見つけ出したところの自己であろうと欲し、彼が欲しているような意味で自己で有り得たら愉快であろうが、それに反した欲しない自己を強制されることは苦悩となる…自分自身を抜け出せないと言う苦悩である。
 かくて絶望、自己におけるこの病は、死に至る病である。死によってこの病から救われる事は不可能である。これが、絶望における人間の状態である。そして何らかの意味で、絶望していないような人間は一人もいない。
 先にも述べだが、
自己は無限性と有限性との意識的な総合関係であり、自己自身に関係するところの総合である。自己の課題は、自己自身となるにある。そして、これは神への関係を通じてのみ実現させられうる。自己を無限に自己自身から開放すると同時に、自己を有限化することによって自己を無限に自己人への帰還せしめること。自己がそう言う仕方で自己自身とならない限り、自己は絶望状態にある。なので、無限性の絶望は有限性の欠乏に在するのであり、有限性の絶望は無限性の欠乏に存するのである。キルケゴールは、他にも絶望の形態を述べる。可能性と必然性との規定のもとに見られる絶望で、可能性の絶望は必然性の欠乏に存するのであり、必然性の絶望は可能性の欠乏に存するのである。この他に、"自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望(※=自分が永遠的な自己と言うものを持っていると言う事に関する絶望的な無知)"、"自分が絶望の状態にあることを知っている絶望(※=自分が自己を持っていることを意識しているが、絶望して自己自身であろうと欲しないか、逆に自己自身であろうと欲するかのいずれか)"について述べる。 同様に、キルケゴールは、"地上的なるものに関する絶望""永遠的なるものについての絶望"について筆を進めていく。絶望者は、地上的なある物に対して絶望しているつもりでいるが、本来的にはまた永遠なるものへについての絶望である。しかし、絶望者は、彼の背後に起こっていることに気づいていない。彼は地上的なある物に大きな価値を置くが、それがすなわち永遠的なるものらについて絶望していることに他ならない。これは、絶望して自己自身であろうと欲しない場合の絶望であり、弱さの絶望である。しかし、彼は別の人間になりたいなどと考えている訳ではない。ある人の住んでいる家がストーブの煙で不快になったので一時出て行って、家が不快な状態でなくなったかどうか再び確かめに戻ってくるようなものである。
 "自分自身であろうとしない"のは"弱さ"であるが、一方で、"自分自身であろう"とするのは"強情である"。繰り返しになるが、最初に地上的なる物に関する絶望があり、次に永遠者についてのないし自己自身に関する絶望がある。そして強情が現れてくる。人間が、絶望的に自分自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。信仰への通路であるところの絶望もまた永遠者の力によって起こり、永遠者の力によって自己は自己自身を獲るために自己自身を失う勇気を持つ。けれども、強情においては、自己は自己自身を棄てることから始めることを欲しないのである。むしろ、自己自身を主張せんと欲するのである(
※=俺は、こう言う理想の人間であるべきだ!あるべきだ!
あるべきだぁ!!←これ、存在し得ない仮想の自分の姿)。彼がこれをするには無限なる自己の意識がなければならないが、これは最も抽象的な形式&可能性に過ぎない。彼は、その形式的な否定的な無限性の力で、自分の自己を自分で構成しようと欲するのである。この種の絶望を示す共通の名称を持とうとすれば、それは"ストア主義"とでも名付けられうるであろう(※ストア学派のことだけを指しているのではなく、もっと広義な意味においてである)。彼は、自己が自己自身であろうとする絶望的な努力の中で、返って反対のものの中に自己を打ち込んでいくことになる…それは本来、いかなる自己にもならない。かくて絶望せる自己は、ただ空中楼閣を築くのみである。自分がかくまでに自分を理解したと言うその巨匠的な詩的素質を誇りたいと思うが、その底は御伽噺-"無"-に過ぎないのである。彼はおのが苦悩をほとんど誇りとしながら、全存在にほとんど反抗しながらでも、彼は他人のもとに救助を乞う事はせず、あらゆる苦しみを嘗めても、彼自身であろうと欲する。彼はこの苦悩に向かって彼の全熱情を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。彼は、自分の自己をそれを措定した力から強引に引き離そうと欲するのではなく、むしろ挑戦的にその力に迫り、それに自分を押し付けようと欲するのである。すなわち、自己の苦悩を持って全存在を拒絶しうるように、苦悩をもったままの彼自身であろうと欲するのである。
 弱さに絶望している者も、強情における絶望者も、理由は異なっているが、どちらも永遠の慰藉めなどには耳を傾けようとは欲しないのである。

 絶望の本質を説いた後、キルケゴールは
「絶望は罪である」と述べる。
 罪とは、人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないこと、ないし絶望的に自己自身であろうと欲することである。
自己は、それが神に対して自己であることによって新しい性質ないし条件を獲得する。自分が神の前に現存していることを自己が意識するに至る時、自己が神を尺度とするところの人間的自己となる時、無限の実在性を獲得する。自己が何に対して自己であるかと言うその相手方が、いつも自分を量る尺度である。無限の神との関係を否定し、神をある外的な存在のように看做した時に、罪はそれが神に対してなされたものであると言うことによって、無限にその罪が強くなるのである。我々の注目すべき点は、自己が神の観念を有しながら、しかも神の意志を己の意志となさないと言う点、すなわち神に対して不従順であると言う点である。
 古代ギリシャ的(哲学)な立場では、現実的な人間が全然問題にならない純粋な観念性においては、理解から行為への移行には困難が存せず、同様に近世哲学においても「我思う、故に我在り」、
"思惟"が存在である。しかし、キリスト教ではこうである。「汝の信ずる如くに汝になれ」(※汝の信ずる如くに、汝はある)。つまり、"信仰"が存在である。ギリシャ哲学は、人間が正しいことについての知識を持ちながら、不正を行うと言う事実を言い切るだけの勇気を持っていなかった。こう言うだけである…「誰かが不正をなすとすれば、その人は正しい事を理解していなかったのだ」と。実際その通りで、いかなる人間も罪の中にいるのであるが故に、自分の力だけでは罪の何たるかを口にすることはできない。キリスト教も、別の仕方で、神の啓示のみが罪の何たるかを人間に明らかにすることができると宣する、罪とは、人間が正しい事を理解しなかったと言うことではなく、それを理解しようとしないこと、それを欲しないことである(※"理解することができない"ことと"理解しようとしない"ことの区別をソクラテスは説明していない)。けれども、人間がキリスト教的なるものを理解しうるかと言うと、それは決してできない。だから、それは"躓き"を起こすのである。人間が理解しうるのは、人間の領域内の事である。キリスト教的なものは、信じられねばならない。神的なるものに対する人間の関係は、信仰の他にはないのである。この不可解なる事態をキリスト教は、どう説明するか。それはやはり人間には不可解な仕方である。すなわち、それは"啓示された"のである。キリスト教的に理解すれば、罪は"認識"のうちではなく"意志"のうちに存するのである、そして意志のこのような堕落は固体の意識を超越しているのである。これもまた、人間には躓きである。前述の罪の定義は、更に次のように補足される。"罪"とは、神の啓示によってどこに罪の存するかが人間に明らかにされた後に、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、ないしは絶望して自己自身であろうと欲することである。
 そして、この"罪"は"消極的"ではなしに"積極的"であるとキルケゴールは述べる。しかし、彼は観念的・概念的な"罪の積極性"は、罪の消極性であると断言する。罪は積極性であると(奇妙な誤解によって)観念的に把握しうるものと思い込んでいる、これについてはキルケゴールは否定的である。罪が積極的であると言う事は、概念的に把握されるものではなく、信ぜられねばならないものとして固持しているのである。つまり、キリスト教の全体が、それは信ぜられるべきもので概念的に把握せられるべきものではないと言う一点に、したがって
人間はそれを信ずるか、もしくはそれに躓くかのいずれかでなければならないと言う一点に懸かっているのである。キリスト教的なものを概念的に把握しうると主張する人間を、人々がどのように賞賛しようと勝手だが、キルケゴールは観念的に把握せられるべきものでもないとする。
 次に、彼は"罪は継続的である"と論証する。罪に留まっている状態は、新しい罪である。罪そのものである。人間は新たな罪だけを罪として承認するかもしれないが、しかし彼の罪の勘定書を作るところの永遠はそうではない。(
※僕も思うのだが、人間の世界でも多くの犯罪を犯した犯罪者は、彼の最新の犯罪だけ裁かれるのではなく、過去の犯したすべての犯罪を問われ、かつ犯罪者の現在の心的反省すら裁かれるのと同様だと思う)。永遠は、人が罪の内にとどまっている状態を新しい罪として罪の勘定書に記帳していくに違いない。人間は自分が意識したときにのみ罪を感じるが(個々の人間は個々の断片的な罪しか見ることができない)、本質的な連続性である永遠は、人間にこのような連続性を、したがって人間が精神として自己を自覚し信仰を持つべき事を要求する。ところが罪人はまったく罪の下にあるので、罪の全体的な性格を意識するに至らない、彼は滅びへと連れ去られる途上にあるのである。罪の内に留まっている状態は、更にその中でその罪の度を一層深化して、やがて罪の中に止まっていると言う意識を持って罪の状態の中に止まっていると言う状態に達する。
 罪とは、絶望である。それの度の強まったものが、自己の罪に絶望すると言う新しい罪である。実生活においては、人々は罪に関するこの絶望を大抵は"見誤って"評価している。
人が自分の罪を「もう決して自分を赦しはしない!」と言った時、それは神に赦しを乞い求める砕かれた心の懺悔とは程遠い、逆のものである。
 自己意識の"度"の一層の強化は、キリストを知ることによって起る、すなわち人間がキリストに対して自己となることによって起る。絶望は、自己が自己自身に対して自己であろうと欲しないこと、もしくは強情に自己であろうと欲することであるのを見てきた。キリストに対してある自己は、神が実にこの自己のために誕生し、人間となり、悩みかつ死んだと言う事実による神の側からの巨大な歩み寄りと、更にこの事実の故に自己の上に負わされた巨大な重みとによって、その度の強められた自己である。キリストが尺度であると言う事は、神の側から言えば人間の自己がいかに巨大な実在性を持っているかと言うことの力強い保証である。絶望は罪であった、その度の強まったものが罪に関する絶望であった。今や神は、罪の赦しにおいて和解を提供する。罪人がこの罪の赦しに絶望している場合、ほとんどそれは彼が神に向かって肉薄しているかのように見えるが、彼は神から遠く離れて質的に隔たっているのである。
罪の赦しに絶望するところの罪は、躓きである。躓きは、個体的人間の主体性の最高決定的な最高の規定である。躓きは、個体と関係する。それと共にキリスト教が始まる、すなわち各人を個体に、個体的な罪人になすことによってキリスト教が始まるのである。だからキリスト教は各個体に向かって話しかける。「汝は信ずべきである」…すなわち「汝は躓くか、信ずるかいずれかをなすべきである」と。永遠に到る人生の旅路において罪を犯す者は、ちょうど自分の犯行現場から汽車に乗って逃れ去ろうとする殺人者に似ている。"次の駅で彼を逮捕せよ"と言う指令が、電信で走っているのだ。
 罪よりも更に大いなる悲惨は、人間がキリストに躓いて躓きの状態に止まっていることである。そして、この事だけはキリストも、「愛」も如何ともすることができない。躓きの中でも、神と人の間を取り持つ聖霊を冒涜する、逆らう罪は重い。キリスト教を虚偽なり、ないし欺瞞とし、廃棄するところの罪は攻撃的な戦いである。この種の躓きは、罪がその極限にまで強められたものである。
 キルケゴールは、「死に至る病」の冒頭で、「自己は自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力の中に自覚的に自己自身を基礎づける」と書いたが、この定式は、同時に信仰の定義でもあるのである。


現代に生きる我々とキェルケゴールの哲学の適用について

 彼は、絶望と言うものを"自己"の"自分自身"との関係から論考していく。現代の日本は、暗い絶望で覆われている。事実、年間3万人以上の人々が自らの命を絶っている。しかし、政治も教育もマスコミもその状況を変えられず、ただ傍観しているようにしか見えない。キルケゴールは人間の内面を深く掘り下げ、絶望について見つめた。彼自身も、その人生において"地上の困難"と対峙しつつ自分の中の"永遠性"を見つめた人である。日本人の中には、多くの諦めの雰囲気が漂っている。彼は、著作の中で諦めも絶望の一形態であり、罪であると指摘する。日本人は、周囲から"こう言うひとであれ"と求められる。実際の自己とは関係なく、自分のあるべき姿を彼の生きる"村社会"に合わせねばならないのである。自己が本来あるべき自己とは大きくかけ離れた自分。一方で、マスメディアでは「君はなりたいものになれる!」とか「本当の自分」とか「自分探し」とか言う言葉が踊る。若者は、あるべき今の自分と理想化した自分の姿とのギャップを埋められずに悩む。自己と自分自身との関係性をどう構築していったら良いか分からない、そんな日本社会で生きる人々の姿が垣間見える。キルケゴールのこの論述こそ、現代日本に必要な問いかけである。


クリスチャンである私とキェルケゴールの哲学の関連について

 キルケゴールは、徹底的に神と人間の関係性を説く。人間は、どのような自分自身との関係において本当の自分となれるのか。人間の絶望はどこから来るのか。そして絶望は罪であること。罪によって、神と人が大きく隔てられていること。神の側の巨大な歩み寄りによって、神の独り子"イエス・キリスト"を人として遣わしてくださったこと。これを受け入れることによってしか、神の赦しがないこと。しかし、人はそれに"躓く"のである。人間は人間の知識の範囲内で理解できることしか、受け入れない。しかし、キリスト教の福音は人間の有限性を超えているで、人間の観念では理解できない。観念的理解ではなく、信ずることが必要なのである。キルケゴールの言葉を借りれば、神は人に「汝は躓くか、信ずるかいずれかをなすべきである」と求めておられるのである。キルケゴールは、罪の重大さや人間の有限性、神の永遠性・無限性を繰り返し説く。私達は罪の重さを過小評価してはならないし、神の歩み寄りの巨大さも軽視してはならない。ましてや、(アリストテレスの章でも述べたが)有限な人間の力で神に到れるかのような高慢にも注意を払わねばならない。キルケゴールは、「死に至る病」 でその事を私達に伝えようとしているのだ。

(2010年 9月26日記載)


2012年4月22日追記:「愛について」を再読しました。



 キルケゴールの「死に至る病」を読み終えたので、学生時代に読んだ「愛について」も再読してみました。
 キルケゴールは、一般的に私たちの社会で使われる"愛"と、聖書が説く"愛"の間に明確な一線を引きます。私たちの周囲で使われる"恋愛"や"友情"等の愛(…つまりこれらは、詩人によって謳われる愛)ですが、これは一体どういう愛なのかをキルケゴールは考察します。友人同士が真実の友情を誓い、恋人同士が永遠の愛を囁く時、これらの愛は詩人の称賛の的となります。しかし、人の想いは残念ながら移ろいます。あれだけ愛を捧げていたはずなのに、恋人から愛を拒絶された途端にそれは嫉妬や憎悪へと変わり、相手を傷つけたり、時には命をさえ奪います。キルケゴールは、人が恋人との恋愛や友人との友情を深められたらそれは人生においてとても幸福なことだけれども、詩人が説くような永遠・絶対の物ではないのだと語ります。これらの世の自然な"愛"は、自己愛に他ならないのです。利己的な愛=自己愛は、自分が愛したいものを愛します。「彼女は美人だから」「彼は金払いが良いから」「あいつといると楽しいから」愛します。自己愛は、代価を求めます。「私があなたを愛したら、あなたも私を愛すべきだ」。そうならないと、その愛はあっと言う間に"嫉妬"や"憎悪"へ変わるです。
 一方の聖書の語る愛とは、いかなるものでしょうか?「己のごとく汝の隣人を愛すべし」…これが聖書の語る愛なのです。この言葉に、キルケゴールは驚愕します。「愛すべきだ」とか「愛した方が良いよね」ではないのです。「愛すべし」。命令形なのです。「愛せよ!」「愛しなさい!」なのです。"愛"と"命令"は最も対極にあるもののようにも思えます。そして愛すべき対象は、「あなたが愛したい人」ではなく「隣人」なのです。「隣人」とは、あなたが情熱的な偏愛を抱く恋人でもなく、あなたが情熱的な偏愛を傾ける友人でもなく、あなたと教養や趣味を同じくする教養人でもありません。隣人とあなたを結ぶものは、神の前に出たとき全ての人間の持つ平等のみです。「隣人」とは、一歩外へ出たすべての人、すなわち全人類の事です。人は「誰が隣人に値するのか?そこの人か?あっちの人か?」と言い訳をして"愛さなくて良い理由"を百個も生み出します。イエス・キリストのたとえ話に、強盗に襲われて傷ついた旅人を見てみぬふりをして通り過ぎるユダヤの祭司やレビ人の話があります。彼らこそ身を持って愛の実践を行うべき者なのですが、旅人を介抱したのはユダヤ人に嫌われていたサマリヤ人でした。現代でも同様です。今日を生きる人々も、自分に不利益となる者には極力近づかないように日々を過ごします。しかし聖書は「自分のように隣人を愛しなさい」と命じているのです。
 日々の自分を振り返ってみても、そこにあるのは"良きサマリア人"の姿ではなく、関わりたくない人を見てみぬふりをするたとえ話の"祭司やレビ人"と同じ姿です。「美人とは付きあいたい」、「趣味が合うなら遊びたい」、「楽しい奴とは友達になりたい」、しかし一方で「煩くて面倒なあいつとは話したくない」、「嫌味なあいつはできるだけ避けたい」、「口の臭いあの男には近づきたくもない」…etc.。これが自分の姿です。条件付きの愛なのです。しかし"聖書の語る愛"は条件は一切なく、「自分のように隣人を愛しなさい」なのです。だからこそ、キルケゴールは驚きをもってこの言葉に耳を傾けるのです。
 この聖書の説く愛の実践は、とても人間には実行不可能のように思えます。人には不可能なことでも、神には可能です。この地上に来られたイエス・キリストは、金持ちや議員などの権力者のところに来られたのではありません。彼らとも話されましたが、むしろ民衆から嫌われていた人々、貧しい人々、病に苦しむ人々のところに来られました。その無償の愛の到達点が、十字架上の死です。全ての人々のために自分の命を捧げたのです。
 「愛しなさい」と言う命令は、"人間は利己心なく愛すことのできない"と言う人の弱さを神が知っておられることの裏返しです。だからこそ命令なのです。「愛しなさい」、「愛しなさい」、「愛しなさい」…そうでないと、人は"無条件の愛"から離れてしまうのです。「私は無償でなんか他人を愛せない」…その私に対して「あなたの弱さは分かっている。あなたの一生をかけて隣人を愛すように尽くしなさい」…そう私の胸に突き刺さるのです。キルケゴールの「愛について」は、私にそのような"愛"について改めて考えさせてくれました。


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