クリスチャンのための哲学講座

入口 >トップメニュー >キリスト教研究 >諸宗教 >哲学入門 >現ページ

11.人間は考える葦である/ブーレーズ・パスカル

 哲学者であり、数学者でもあり、物理学者でもあり、神学者でもあるパスカル。彼の哲学を著書「パンセ」から探っていきたいと思います。下の本の厚みを見て・・・700ページ超え(汗)。そもそもこの著作が未完成なこともあり、久々に700ページ読破はマジでちょいときつかったです(笑)。



 ブーレーズ・パスカル(以下パスカルとする)は、1623年(※日本は江戸時代で、徳川家光が3代目征夷大将軍になった年)にフランスの中部山岳地方の都市クレルモンと言う町で生まれました。父は裁判官であり優れた科学者で、パスカルは学校に行ったことがなく、父から教育を受けました。早くから数学的な才能を発揮し、16歳で最先端の円錐曲線論を著し、19歳で計算機を発明し、23歳より真空に関する実験と研究を行い、その後、有名なパスカルの定理を初め、多くの物理学上の偉業を成し遂げました。
 他方で、23歳の頃より厳格なキリスト教のポール・ロワイヤル派(※ローマカトリック教会のシトー会に起源を持つ学派)に心を惹かれましたが、父の死後は世俗的な生活を送り社交界にもデビュー。しかし31歳の時に、深い宗教的体験を経て熱心な信仰生活に入りました。キリスト教弁証論の著述に情熱と時間を注ぎ、神を疑っている人達を信仰に導くために働く決心をしました。当時はカトリック教会の権威が絶大で正統を外れると異端として糾弾される時代でしたが、伝統的信仰に懐疑的になっている者が少なくなかったのです。(※パスカルは、教権と国権とを笠に着るイエズス会の強圧に抗して書簡も書いています)。
 彼が、著述に情熱と時間を注いだ弁証論(※未完成)をまとめたパンセの内容を見てみましょう。

<パンセ>
 まず最初に断っておかなければならないのは、パンセ(※"パンセ"は"思想"と言う意味)としてまとめられた元原稿は、未完成でバラバラな原稿を、後に各編集社の編集者達が読者が読みやすいように配列し直すなどの長い歴史的過程を経て、現在の形になっているものです。集められた当時の原稿の順番通りに配列しただけだと、現代の我々には更に読解が困難だったでしょう。
 パンセの冒頭では、精神と文体についての思想を書きます。著述する場合に気を付けねばならないこととか、表現の基準とか、そんな事を徒然に書いています。ただし原稿を配列しているだけなので、断片的な感じで正に徒然で、著述の核心部分や柱がよく分かりませんでした(汗)。

 さてパンセ前半では、
「神なき人間の描写」「人間の悲惨と偉大さの両面」を指摘する。このような人間性の矛盾に真の解決を与え、その矛盾の原因である罪からの解放によって「神と共なる人間の至福」に導くものは、キリスト教に他ならないと説きます。
徒然に書かれ、並べられ、文章量があまりに多いので、分かりやすいと判断した一部を抜粋させていただきます。

「無限の中において、人間とはいったい何なのであろう。(中略)人間は、事物の原理をも究極をも知ることができないと言う永遠の絶望のなかにあって、ただ事物の外観を見る以外に、いったい何ができるのであろう」。
「人間は、恩恵なしには消しがたい、生来の誤謬に満ちた存在でしかない。何者も彼に真理を示さない。すべてが彼を欺く。真理の二つの原理である理性と感覚は、それぞれが誠実性を欠く上に、相互に欺き合っている」。
「彼(※人間のこと)には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨に満ちているのを妨げるわけにはいかない。彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る」。
「無神論は精神力のしるしである。しかしある程度までだけである」。
「我々は無限が存在することを知っているが、その性質を知らない。(中略)人は神がなんであるかを知らないでも、神があることは知ることができる」。
「信仰は証拠とは違う。後者は人間的であるが前者は神の賜物である」。
「もし神が心を傾けてくださらなければ、人は決して有益な信頼と信仰をもって信じはしないだろう」。
「彼らは真理のないところに真理があると考えているからである」。
「自分の悲惨を知らず神を知ることは、高慢を生みだす。神を知らずに自分の悲惨を知ることは、絶望を生みだす」。


 パンセ後半は、主に
「キリスト教の歴史的弁証」に関する記述。ここに、パスカルの思想の根本が示されています。聖書を読んでいる人には分かりやすですが(と言いますか旧新約聖書の要約みたいな内容です)、聖書の予備知識の無い人には分かりづらいかもしれません。聖句(聖書の言葉)が多いので、聖句以外の彼の言葉を抜粋します。

「歴代の人々が4千年にわたって、たえず変わらずつぎつぎに現われ、この同じ出来事を預言するのである」。
「預言者たちは預言したが、預言されなかった。次に聖徒たちは預言されたが、預言しなかった。イエス・キリストは預言されると共に、預言した」。
(※アルキメデスの学問や発明の業績や世の賞賛と比較しての記述)「イエス・キリストは、財産もなく、学問の対外的な業績もなく、その清浄な秩序のなかにおられる。彼は発明も授けず、支配もしなかった。だが、謙虚で忍耐づよく清浄で、神に対しては清く、悪魔に対しては恐るべく、少しの罪もなかった。」
「人は、神が或る人々は盲(※私的注:心の目のこと)にし、ある人々の目は開けたと言う事を、原則として認めない限り、神の業について何事も解らぬ」。
「『全ての人の贖い主イエス・キリスト』―そのとおりである、なぜなら、彼はそのもとに来ることを望むすべての人をあがなう人として、贖いを提供されたからである」。
「われわれは、ただイエス・キリストによってのみ神を知るばかりでなく、またイエス・キリストによってのみわれわれ自身を知る。われわれはイエス・キリストによってのみ生と死を知る。イエス・キリストを離れて、われわれは、われわれの生、われわれの死、神、われわれ自身が何であるかを知らない。
ゆえに、イエス・キリストを主題とする聖書がなけれれば、われわれは何も知らず、神の性質についてもわれわれ自身の本性についても、曖昧と混乱を見るだけである」。


ざっとですが、こんな感じです。そもそも700ページ以上の本を、このページに収まるように書くのは無理がありますので、そこはご了承ください。


現代に生きる我々とパスカルの哲学の適用について


 パスカルの有名な言葉に
「人間は考える葦である」と言うのがあります。
※注:正確には、パンセでこう書かれています。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」。
この言葉の本質的な意味は、人間は動物ではありますが、動物と大きく異なる点がある、と言う点です。人間には「真理や正義や平安」を望む偉大な面がある一方で、「真理や正義や平安」を実現できないと言う悲惨さもあります。これらは、動物にはない点です。宇宙では矮小な存在の人間だけれども、その自分の在り方を意識し、より高い次元を求める姿勢と言うのは偉大である。この事をパスカルは「人間は一本の葦に過ぎない、しかし、それは考える葦である」」と言う言葉で表現したのです。
 現代のおいても、私たちの周りには、差別、暴力、貧困などののたくさんの不幸や不条理があります。私たちは人間である限り、それらの問題を解決すべく考え続けて実行することができるのです。


クリスチャンである私とパスカルの哲学の関連について


 パンセには「賭け」の章があります。人生に何を賭けるか?と言うような文脈で書かれています。長いので要約すると、「神が存在する方に人生を賭けることに何の不利益がありますか?」と言う事になりますでしょうか。この哲学のコーナーで以前デカルトを取り上げましたが、パスカルはデカルトを批判します。デカルトは同時代の同じフランス人で、27歳先輩の哲学者です。
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つの爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ」と、はっきり言っています。(※注:パスカルは、デカルトの成果を全て否定している訳ではない)。
 パスカルは、デカルトや他の哲学者達のような「神の存在証明」をしません。神の存在は、人間の知恵(哲学)によって証明できる次元のものではないと考えました。人間に神の存在は証明できなくとも、それよりも神を信仰することの方が優れていると主張しているのです。
 信仰とは、「目に見える証拠」と正反対の「目に見えない事」「まだ見ていない事」を「真実」と確信して受け入れることです。例えば、科学で証明できない「復活」を信じることは、人知を超えた「不可解なこと」を「確かなこと」として受け入れることです。パスカルはそう主張していて、クリスチャンも同じように信じているのです。
 パスカルは「考える葦」としての思考する人間精神の偉大さを語っておりますが、それ以上に大きなものは「愛」であると説きます。その愛の最大級のものが、十字架で人間のために命をささげたイエス・キリストなのだ、とパスカルは訴えているのです。

※個人的注:パスカルは(カトリックのシトー会女子修道院に起源を持つ)ポール・ロワイヤル派の教えに傾倒していたので=基本的にローマカトリックの教えを奉じているので、(ローマカトリック教会の)イエズス会だけでなく、ローマカトリック教会の堕落に対して起きたプロテスタント運動を快く思っていなかったのは明らかで、カルヴィニスト(=私が属する改革派教会)をパンセ内で度々批判対象にしています。実際に具体的な教義については種々異なる部分がありますが、その内容に及ぶと詳述が必要になり本筋から離れるため、その記述については本ページでは触れないことにしました。

(2021年 8月16日記載)


パンセ (中公文庫プレミアム)

新品価格
¥1,540から
(2021/8/16 14:07時点)

パンセ (中公文庫)

新品価格
¥7,980から
(2021/8/16 14:08時点)

パンセ(上) (岩波文庫)

新品価格
¥1,254から
(2021/8/16 14:09時点)

パンセ(中) (岩波文庫)

新品価格
¥1,650から
(2021/8/16 14:10時点)

パンセ(下) (岩波文庫)

新品価格
¥1,386から
(2021/8/16 14:11時点)