クリスチャンのための哲学講座

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6.理性と信仰の統合/トマス・アクィナス



 アウグスティヌスと並んで、中世の高名な哲学者で神学者であるトマス・アクィナス(※以下、トマスと略す)。トマスは、「神学大全」を著したことでも知られるが、とても神学大全を読む時間的ゆとりも能力や技術も私には無い気がする。そこで、トマス研究の第一人者である稲垣良典教授の書かれた「トマス・アクィナス」(講談社学術文庫)を読んだ。しかし、この本もまた500ページを超える分厚い本で、しかも内容は難解・・・読破に、相当の労力と時間を要した。いや、難解と言うよりは、この手の本にありがちなんだけど、言っていることはそんなに難しくないんだけど、文章の言い回しとか、日常で聞かない専門用語とかが多くて、それで分かりづらくなっている気がする。何で読むのに時間がかかったのかと言うと、読み始めたのは一年以上も前なんだけれど、昨年、胃潰瘍⇒バセドウ病と立て続けの病気で、読破する気力を途中失って休止、最近ようやく再び読み始めて読み終わったところである。

 さて、まずトマスの人生を簡単にざっくりと概観してみよう。トマスは、1220~27年の間に、ローマとナポリの中間のアクィノ町近郊のロッカセッカで生まれる(トマス・アクィナスとは、アクィノ伯爵家のトマスと言う意味である)。子供の頃、ベネディクト会修道院に修道志願児童として送られ初等教育を受け、彼はそこで、学問の研究者にふさわしい生活態度を身につけた。その後、ナポリ大学に入学。アリストテレスの著作に接触し、またドミニコ会修道士との交わりも始まる。1244年には、ドミニコ会に入会。ドミニコ会修道士たちとパリへ行く途上、兄たちに捕えられてモンテサンジョバンニ城、ロッカセッカ城に監禁されてしまう。なぜそんな事になったかと言うと、当時、フリードリッヒ2世の軍が教皇軍を戦いを交えるために遠征中で、兄たちは敵方にいる弟トマスを説得が不可能と見るや、力づくで連れ去ったのである。
 監禁と解かれたのち、修練期、聖書学講師、そして司祭に叙階と続く。修道院で命題論集講師として仕事を始めた後、1256年パリ大学神学部の教授に就任。トマスの講義は「その新しさ」によって学生たちに圧倒的な印象を与えた。しかし、教授団の反対により、教授として正式な活動ができない。反対派のボスが、ドミニコ会を仲間に入れることを拒絶したのである、しかし翌年、ようたく教授団に受け入れられる。59年の冬に大学を辞めてイタリアに帰る。パリ大学におけるトマスの教授活動は、初めから終わりまで、騒然たる雰囲気の中で営まれた。
 60年、ドミニコ会ローマ管区の修道会顧問になり、翌61年ドミニコ会修道院で教授。65年には、ドミニコ会神学大学の指導を委ねられる。67年にクレメンス4世の教皇庁所在地ヴィテルポに転任。69年、再度パリ大学神学部教授に就任。「神学大全」第2部の他、アリストテレス主要著作の註解などを書いたのはこの頃。72年にパリ大教授を辞め、ナポリにドミニコ会の神学大学を創設し、指導にあたる。74年、教皇グレゴリウス十世の要請で、公会議出席のためナポリを出発。二月中旬、生地の近隣にあるマエンザ城に到着したが、死期を悟ったトマスは修道院で死を迎えることと望み、近くのシトー会修道院に運ばれる。3月7日、早朝死去。
 と、簡潔にまとめるとこんな感じ。イタリアとナポリの間を行ったり来たり…。その中で色んなすったもんだがありながらも、トマスもその学問も成長していった。しかし、トマスの哲学は、時代にすんなりと受け入れられた訳ではない。今日では、トマスがスコラ学の黄金時代をもたらした、中世を代表する思想家として評価を受けているが、中世の終わりまで圧倒的な影響力を持っていたわけではない。ドミニコ会内部では、トマスの権威は不動のものとなっていったが、カトリック教会内部では、いくつかの対立する学派の一つに過ぎなかった。
トマスは同時代人に「革新的」として受け取られ、その死後も彼の立場は危険視され続けたのである。
 トマスの死後、真の後継者と言える弟子が残念ながらいなかった。トマスは、パリ大人文学部教授達の間で信頼と尊敬を勝ち得たが、トマスの直接の弟子たちが、トマスの独自の思想に対してほぼ理解を示すことができなかった(※なので、私のような学者でもない人間が理解するには荷が重過ぎる…と言い訳してみる(笑))。トマスによって導入された哲学的「革新」は、保守的な神学者達の敵視するところとなり、トマスの死後、その学説はあからさまな攻撃にさらされた。しかし、トマスを批判・攻撃した保守的な神学者も、実は彼の「哲学的革新」の真の意味を、ついに理解できなかったのである。彼らは、彼らの目には、異教のアリストテレスの影響を受けすぎたキリスト教信仰を危機に陥れる「現世主義的哲学」としか映っていなかった。トマスの立場が含まれていた論争は、ことごとく異端宣言を下されていった。そしてトマスの学説のうちのあるものは、その死後3年のうちに公式に異端として非難された。
 しかし、批判攻撃だけでなく、弁護の反撃も行われた。結果として、トマスの没後50年たってトマスが聖人であることが宣言され、学説にかけられていた異端の嫌疑は拭い去られたが、一方でトマスによってもたらされたスコラ学の黄金時代は終わりを迎えた。。

 さて、トマスは、信じがたいほどの大量の著作を残している。もちろん、私はそれらの読んでいないし、正直なところ読む気もない。今回読んだ本の、トマスの神学大全のエッセンスだけでも、全体的な理解は私にはできない。しかし、その世界理解はキリスト中心的であり、救済史的であるのは理解できる。第一部は神論、第二部は神へと向かう理性的被造物の運動、第三部は(人間である)私たちが神に向かう際の道であるキリスト、について論じられる。
 また、
トマスは、アリストテレスの精神(※古代ギリシャ哲学)とキリスト教の信仰(※神学)と言う二つの相反した要素、言い換えれば、人間中心主義と神中心主義と言う相反した要素を、相互に矛盾するものではなく、相互に相手を要求するものとして受け取り、不可能と思える統一を果たした。トマスは、それまでは神中心の中に吸収されていた人間中心主義に、正当な位置を与えた(※しかし、トマス以降の人間中心主義哲学は、神を排除していく方向へと発展していく…)。

 この短いページに、トマスの哲学のすべてを書くのは無理なので、トマスの哲学の核心である
「存在」(esse)の形而上学を見てみよう。麒麟の"本質"は「霊獣」だが"存在"しているわけではない。一方、シロナガスクジラは「世界一大きい哺乳類」と言う"本質"を持つと同時に"存在"している。トマスは、「本質」と「存在」との関係で、神について考える枠組みを考えた。本来、無限・永遠の神を規定などできない。しかし、何の規定も示さないと神と言う言葉の意味が分からない。旧約聖書では、神が神自身を「わたしはある(私は有って有るもの)」と存在規定以外もたないものとされた。そこで、トマスは、通常の物質では、「本質」と「存在」は区別されるが、神においてはその両方が一体化すると考えた。「存在することを本質とするもの」が神。しかし、本来は区別される本質と存在が一体化しているから、神の本質としての存在は、通常と異なる意味で理解されなければならない。我々は、人間に当てはまる(人間が理解できる)「存在」と言う言葉を類比的に神に当てはめているに過ぎない(真相は人間には決して分からない=存在の類比)。
トマスは、解答でこう答えている。「神においては存在と彼の実体は別のものではない、と言わなければならない(以下、略)」。「ところで、「神は存在する」と言う命題は、それ自身においては自明的である。なぜなら、主語と述語において同一のものが表示されているからである。しかし、われわれは神が何であるか知らないから、われわれに対しては自明的ではない。」
 ざっくりとだが、こんな感じです。トマスの哲学体系を全体的に知るには、各自自分で読んで研究してもらうしかないですね~。今の僕の能力では、とうてい無理です。
 


現代に生きる我々とトマスの哲学の適用について

 現代都市社会でに生きる多く人々は、「神中心主義」とは相いれない「人間中心主義」の支配の中で生きている。"信仰"と"理性"が分離した社会だ。神の存在しない人間中心主義は、現代のグローバリゼーションと無縁ではないように感じる。一部の企業や人々がよりお金を儲けるシステムが構築され、残りの9割以上の人々が喘ぎ苦しみながら奴隷のように従う社会である。つまり、それは底なしの「貪欲」「強欲」であり、自分以外の他人を道具やパーツにしか見られない社会である。
 アウグスチヌスの章でも見たが、罪ある人間の貪欲さは留まるところを知らず拡大していく。イナゴの大群が、畑を食い荒らし何一つ作物を残さぬように、人間の貪欲さは世界の大半の人々の生活を根こそぎ壊していく。アメリカや世界の国々、そしてここ日本でもそうなりつつある。そうなる前に、現代の政治や経済活動の背景にある貪欲さに目を向け、貪欲な人々に対してNoを突き付けねばならない。
 この現代と違い、トマスは信仰の時代と言われる中世に生き、神学者として活躍した。この思想に、現代の我々にどうような意味があるのか?今回読んだこの「トマス・アクィナス」によれば、トマスの仕事全体は、特定の分野での活躍よりも、信仰に奉仕する学問としてのスコラ学の建設であった。
近代思想は、人間理性が自らを信仰から解放するところから出発した。そして、人間は「自然の所有者・支配者」となり、言わば「人間自身がそれの創造主である」ような世界に君臨した。
 これが、すなわち
「世俗主義」の本質であり、神に代わって創造主の地位についた人間の、自信に満ちた態度を反映するものである。しかし、どのように創造主として振る舞っても、それは幻影の世界に取りつかれた病人の境遇でしかない。人間理性を「第一の原因」に求めて押し進めた創造の業は、人間自身を欺いているだけで虚無化ないし砂上の楼閣に他ならない。そうではなく、人間精神は、事物の第一原因・究極目的である神を認識するまでは、満足しないのである。人間は、あれやこれやの世俗的・直接的な対象よりも、目に見えない根源的な物に引き付けられ秩序付けられていることを、トマスは洞察・確信していた。「信仰からの解放が、果たして真の"解放"であったのか?」を、現代人はもう一度振り返る必要があると思う。

クリスチャンである私とトマス哲学の関連について

 聖書は
「神を愛すること」「人を愛すること」を同時に求めておられる。片翼飛行は、必ず墜落する。相対的な横の関係である人間関係のみだと、正義は時々に恣意的に変化する。いつしか人が正義と思っていた事は徐々に曲げられ、行き過ぎた貪欲も許容するようになる。絶対的な縦の関係である「神と私」の関係がなければ、人はいつも貪欲へと向かう危険がある…と言うことを覚えていなければならないと思う。旧約聖書において、神に遣わされた預言者達は、王や高官達に神の言葉を伝えて、悔い改めるように警告したが、彼らはその言葉に聞き従わず、人間の助言のみに耳を傾けて罪を犯し続け、ついには滅びたのです。
 フォレストガンプの台詞ではないが、人間が自分の意志で一生懸命生きることと、神が人の運命を定められていることは、一見矛盾しているようですが、それは実は統合されているのである。同様に、
「神中心」と「人中心」は矛盾ではなく、表裏一体の真理。現代は、「信仰」と「理性」が分離させられ、「経験主義」と「形而上学」は分極化されています。しかし、今回読んだこの本によれば、13世紀にトマスが形成した「存在」の形而上学は、真の意味での経験主義を徹底させることによって到達されたものであった。それは、「経験を超える事柄についての空しい思弁」ではなく、すべての経験の根底に見られる「存在」の経験を振り返り、解明をしようとする試みであった。「経験主義か形而上学か」や「理性か信仰か」の2者択一ではないのである。人間には、両方が必要である。私は、その事をもう少し考えても良いのではないかと思うのです。

(2014年 6月27日記載)


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