クリスチャンのための哲学講座

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3.永遠の真理(イデア)/プラトン

 前回のソクラテスに引き続き、その弟子のプラトンとその哲学について考えてみる。
 プラトンは、紀元前427年にアテナイ(現在のアテネ)に、貴族の子として生まれた。ソクラテスの刑死後、若い三十代のプラトンは、短編対話作品を書きながら、ソクラテスの対話問答を改めて再構成する。その中で、ソクラテスの生き方を支えていた"魂の立場"が浮かんでくる。四十~五十代の頃、プラトンはアカデメイアと言う学園を創立して、門弟達と共に研究・教育活動を進める。彼のいわゆる中期の時期には、"魂"の問題を思索する。「饗宴」「パイドン」「国家」「パイドロス」と言った作品の中に登場するソクラテスは、積極的に自説を披露する(もちろんこれはプラトンの解釈したソクラテスの言動と言うことになる)。"魂の存在"の問題と切り離せないのが、
"イデア論"と呼ばれる教説である。このイデア論の成立をもって、プラトン独自の哲学の開花とされる事が多い。

 では、このイデア論とは、どのようなものなのだろうか?前回のソクラテスの章でも題材にした、"正義"と言うものについて考えてみよう。例えば、どのような裁判官も正義を目指すだろう。だが、各人が具体的にどのような裁きを行なうかは様々だし、各人は少しずつ意識しているにせよしていないにせよ不正があるかもしれない。しかし、正義と言うものが目標とされている事実は変わりない。
 この誰もが理想とする"正義"と言うものを、プラトンは"正義のイデア"と呼ぶ。これは、"善"であれ、"勇気"であれ、同じ事が言える…"善のイデア"、"勇気のイデア"と言うものがあると、プラトンは考えた。プラトンも、その師ソクラテスと同様、正義や勇気や善のイデアが"何であるか"は語らない。しかし、最低限どのような性質を持っているかは語る。さきほどの"正義のイデア"で言えば、あらゆる時代や国を超えて普遍である。一つ一つの正義は一度行なわれれば終わりだが、目標となるイデアは常に変わらず普遍・永遠である。個々の正義は不完全でも、正義の"イデア"は完全な真理である。具体的な事象を目にする事はできても、この"イデア"を目で見ることはできない。
素晴らしいことがあってもすぐに消えてしまう不完全な現実世界とは別に、永遠で完全な真理の世界(本質の世界)"イデア界"がある、とプラトンは考えたのである。
 これを分かりやすく説明したのが、"洞窟の比喩"である。人々は暗い洞窟に繋がれた囚人のようなもので、その人々は洞窟の壁に火で照らし出された動物の影を見ているだけなのに、本物の動物を見ていると思い込んでいる(つまり"本質(イデア)"に気がつかない)。
 しかし、イデアを知る哲人が、人々を洞火の元に連れて行けば最初は人々は火の眩しさに目をそらすし、更に洞窟の外の太陽に連れ出せばもっと眩しいだろうが、この眩しい苦痛に耐えた者だけが、真実のイデアを直視する力を得る…プラトンは、そう考えた。
 また彼は、理想国家が実現するためには、権力を持つ支配者が真に哲学に励むか、哲学者が王になって統治しなければならないと考えた。国家の上に立つ者は、物事の本質を見極め、イデアを直視できる特別な才能を持ち、そのための特別な教育課程を経た者でなければならぬとしたのである。
 ちなみにイデアとは動詞「見る」(イデイン)に由来する語だそうで、目で見られる「形」や「姿」を原義とする。日本語訳では、「形相」とも訳されてきたが、意味的に普遍や本質を表す「真実性」とか「そのもの」などとも呼ばれる。

 さて、
このイデア論がプラトンの"魂不滅"の論証と結びついているのは疑いない。ソクラテスは、自然科学的方法がこの世の事物の生成消滅に妥当な説明を与えることに深刻な懐疑をいだいたとされる。「地球は球形」なのは球形が最善なあり方だからだろう、「光は密度が一定の中では直進する」のは経験的事実である。だが、「それが何故か?」と改めて問われたら、どう説明できるか?自然の中に貫徹している合理性・合目的性を抜きにしては、理解できない。ソクラテスが牢に入れられて座っている理由は、足の筋肉や神経などの生理学的な記述をいくら積み重ねても説明できない。ソクラテス自身が死刑に服することを正当と認め、「よし」としたからこそ彼はそこに座っているのである。そのものにとって何故そのような仕方で存在しているかは、何故それが一番善いのかを説明することによって、明らかにされる。そこで、ソクラテスは「何が最善であるか」以外に探求に値する課題は一つも無い、とすら考えたのである。そして彼は、言葉(ロゴス)を手かがりに考察を進めて、イデアの想定へと至る(と、プラトンは作品の中で述べる)。
 次に、魂の姿を想定する。人間の魂は、翼を持つ二頭立ての馬車に似ていると説明する。自らも翼を持つ御者(人間)が2頭の馬を御するのは、なかなか難しい。もちろんこれは寓喩であり、魂の3つの部分を指し示している。2頭の馬は人間の行動を引き起こす"欲望"と"情念"、そして御者は"理性"である。御者たる理性は、時に暴走する馬に手を焼く。このような魂は、やがて形も色も無く、触れる事もできない、ただ知性によって見ることのできるイデア、真実の世界を直観する…のだが、欲望や情念が暴れまわって、この地上の世界に転落してしまうのだ。それが、牢獄のように個々の体に閉じ込められている人間の現在の魂の姿なのだ。しかし、
人間がこの世の雑多な事象の感覚から出発して純粋な一つのものー進んでいくのは、天上の彼方で見た事のある"真実性"を思い出す過程に他ならないと考えた(…真偽定まらぬ思惑を退けて真理に殉ずる哲学者の生き方は、この世界では大衆の誤解と批判にされされるのである)。これは寓喩、つまり例え話であるが、プラトンはソクラテスの姿と口を借りながら、このように魂の存在を説明しようとした。

 イデア論に対しては、その後、様々な反論、提案、修正が巻き起こっていくが(※それらはまた別の機会に…)、プラトンの想定したこのイデアは、その後の哲学に大きな影響を与えたのは間違いない。

現代に生きる我々とプラトンの哲学の適用について

 我々は、正にこの雑多な欲望と情念に縛られた人生を生きている。日々、次から次へと発売される新商品に心を奪われ、日々増産される新しい楽曲に飛びつき、右から左へ流れていく情報に右往左往させられている。新しい曲を聴くたびに"ああ、美しい曲だ!"と思ったり、新しい映画を見る度に"ああ、感動した!"と思うのは、決して無駄な事だとは思わないし、そう言うことは素敵なことだと思う。ただそこで感動した先に、「何かもっと本質的なものがあるのかなぁ?」と考える時間を持っても良いのかもしれない。
 戦場で人々を救うために勇気を発揮した主人公の映画に感動したら、「何故、この主人公の行動が皆の心を打つのだろう?」、「勇気って何だろう?」、「正義って何だろう?」、「愛って何だろう?」と考えても、決して無駄にはならない。
 最近、よく思うのだが、マスコミが誰か特定人物を批判すると、大衆も迎合的に一気にその人物を叩く…と言った現象が頻繁に繰り返されている。"倫理"とか"正義"とか言う問題を超えて、一方的かつ感情的な"憂さ晴らし"的な虐めに近い袋叩きに感じられる。本人とは別人格で法的に関係の無い家族にまで、謝罪を求めるマスコミの姿は醜悪に感じる。特に「イラク人質事件」の頃からその傾向が強く感じられるようになってきたのだが、犯罪が立証されていないのに特定人物を叩いたり、一方的な情報のみがリークされて世論を形成しようとしたり、マスコミを含む社会全体が"思考停止気味"になりつつあるように思える。社会に生きる一人一人が哲人になれとは言わないが、自らの考えで情報を篩いにかけ、自ら物事の"本質"を究める努力をし、自分の意見を持つべく努めても良いと思う。

クリスチャンである私とプラトン哲学の関連について

 プラトンのイデア論は、その後の哲学はもとより、キリスト教にも多大な影響を与えた。善のイデアがあるなら悪のイデアもあるのか?つまり永遠不変の"醜悪"もあるのか?これを肯定すれば、その先に"光と闇"、"善と悪"と言った"価値と反価値"の二元論へ至る。これは、古代グノーシス主義やマニ教への源泉になる。
 あるいは、"闇"と言うのは"光"が欠けた状態と考えるべきか?"醜"は"美"の欠けた状態で、"不公正"とは"正義"の欠けた状態と考えるべきなのか?この考え方は、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経てカントに至り、西欧形而上学の主流を成してきた。

 イエス・キリストは、旧約聖書は新約聖書の雛型だと語る。旧約の預言は、イエスの到来した新約の時代に成就したのだと語る。旧約の預言者達は、この新約の時代に起こったことを鏡で見るように(※昔の鏡は銅などを磨いたものではっきりとは映らなかった)、おぼろげに見ていたのである。また、イエスは民衆には分かりやすく例え話を使って話されたが、弟子達には例えを使わずに直接、真理を話された。私達は、もしかしたら洞窟に生きる人々のように真理を知らずに影だけを見ながらこの世を生きている、もしくは生きてきたのかもしれないが、イエスははっきりと"真理"を示された。プラトンは、永遠の真理(イデア)なるものを想定したが、真理そのものを提示したわけではない。しかし、イエスは"真理そのもの"を示した。イエスは「あななたちは真理を知り、真理はあなたを自由にする」と言われ、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた。私は、この"真理そのもの"であるイエス・キリストの言葉に聞き、そして従うのである

(2010年 7月25日記載)


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