クリスチャンのための哲学講座

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2.無知の知/ソクラテス

 現在、哲学の祖と言うと"ソクラテス"が挙げられると思うが、彼は歴史の中に突如"新しい思想を発明"したと言う訳でもない。どんな分野もそうだが、歴史の中で少しずつ発展し、それを実験によって確かめたり、前にあったものを批判したりしながら発展していく。ニュートンは過去の科学の発展の上に万有引力の法則を築いたのであり、アインシュタインも同様にして相対性理論を組み上げたのである。もちろん、ニュートンやアインシュタインの功績がその事実によって低められる事はない。ソクラテスも同様に、過去の様々な哲学者達の思想の土台があって(それらへの批判も含めて)独自の哲学を構成し得たと思う。
 ソクラテスの時代から少し遡った紀元前6世紀頃、地中海貿易によって小アジアやイタリア南部のギリシャ人植民都市が栄えた。それらの都市では、市民の知的活動が活発化して宇宙や自然の原理を考える人々が現れた。例えば、イオニア人のタレスは、万物の究極の原理を"水"と考えた。それに対する批判をする人々も当然何人も現れた。一例として、ヘラクレイトスは"流転"のあり方こそ万物の原理とし、デモクリトスは"アトム(原子)"を究極の単位とした。初期哲学者達は、宇宙の原理を探求していた。
 その後、ギリシャやアテナイ(現在のアテネ)のような都市国家(ポリス)が、民主政治へと移行した(※この背景には、市民軍がペルシャとの戦争に勝利したと言う要因がある)。市民による民主政治と言う事は、一方的な君主や貴族による統治ではなく、市民の中に一定の約束事を作る必要があり、つまり合議によって法を作る必要が生じた。そのような時代に、ポリスの市民に基礎的教養を教えたり、弁論術を教えるソフィスト達が現れたのである。市民は自分の考えを人前で説得できる能力が必要で、ソフィストは市民にそれを教えた。彼等の多くは諸国を巡っていたため、国や地方によって価値観が様々である事を知っていた。例えば、プタゴラスの、物事の見方は多様で相対的であると言う考え方、つまり「人間は万物の尺度である」と言う思想は、そのような背景で生まれた。「どんな事が正しいのか、何を選ぶのが正しいのか」と言う事は、人間次第つまり自分達次第であると言う考え方である。当初"自然の原理"を追い求めていた哲学は、こうして"人間を主体とする"哲学へとシフトした。ソクラテスは、そうした相対主義的なソフィストに異議を唱えるのである。

 さて、ここで話しを一旦休止し、ソクラテスを語る歴史的資料について語っておきたい。実は、ソクラテス自身は一切著作を残していない。ソクラテスの言説が知られているのは、同時代の人々の著作の証言によってである。一つは古代ギリシャ最大の喜劇作家アリストパネスの書いた「雲」、一つはソクラテスに学んだ軍人クセノポンの著作(ソクラテスの思い出など)、一つはソクラテスの弟子プラトンの書いた著作の数々である。アリストテレスもソクラテスについて語っているが、少し後の時代の人なので彼は直接にはソクラテスの事は知らない。これだけ証言があるのに、ソクラテスがどう言う人であったかと言う実体はどうもはっきりしない。と言うのも、彼等が描くソクラテス像がバラバラで一致しないのである(笑)。アリストパネスの「雲」は喜劇作品なので面白おかしい脚色がなされているし、クセノポンは忠実な弟子として、ソクラテスがいかに信仰心に厚く、実践家であり、若者の教育者で模範であった事を語る。クセノポンの証言は歴史的・客観的資料として貴重だが、論理的にはプラトンの描くソクラテス像とは大きく食い違う。
私達が現在、ソクラテスの哲学として知っているのは、弟子プラトンの著作(もしくはプラトンの解釈したソクラテスの哲学)によってである。

 ここで、また話しを戻そう。ソクラテスは、紀元前469年ごろ、彫刻家の父と産婆の母との間に生まれたと伝えられる。2人の妻との間に3人の子をもうけ、ペロポンネソス戦争で三度従軍する。従軍以外は町から出ることも無く、いつも裸足で町を歩き、時には長時間立ち止まってもの思いに耽っていたと言う。町の広場で人々と問答を繰り返すが、ソフィスト達のように金銭や謝礼は受け取らなかった。ちょっと奇妙な人物であったようだ。
 彼は、ソフィスト達の
"価値や認識の相対主義"に対し、"普遍的、絶対的な知"を求めた。ソクラテスの友人は、デルポイ神殿で「ソクラテス以上の知者はいない」と言うお告げを受けた。友人からそれを聞いたソクラテスは悩む…何故なら、彼は自分をそれほど知者だとは思っていなかったから。そこで、ソクラテスはギリシャ中の賢人に知恵を求めた。しかし、将軍も政治家も詩人もソフィストも、ソクラテスの質問に答え説明できる者は一人もいなかった。どの知者も知っている風に装っているが、質問に対する"答え"を返せなかった。もしくは単に知っているつもりだっただけで、実際は知らないのである。ソクラテスも"知らない"と言う点では彼等と変わらないが、「知らないことに自分は気がついている」と言う点で彼等より勝っていると考えたのである。
 他者との対話によって、"分かっていた"つもりが"分かっていなかった"事に気がつく。自分の無知を知った者は、真の知を知りたいと思う。こうして真の知への扉が開くのである。こうした理由で、ソクラテスはひたすら知者との問答に明け暮れた。しかし、
ソクラテスは生涯において「正義とは何か」、「勇気とは何か」、「善とは何か」などを問い続けたが、それが何であるかを語ることはなかった。

 ソクラテスは、対話によってギリシャ中の知者(ほぼ権力者達)の無知を暴いてしまったため深い恨みを買ってしまい、"青年を惑わす者"として訴えられて裁判を受けることになる。ソクラテスを訴えた者達も本気で彼の死刑を望んでいなかったようだが(※判決の落とし所は国外追放)、友人達も国外脱出を勧めたが、ソクラテス自身は魂の不滅を論証していたので、"死を恐れる事はできない"と言うみずからの信念で死刑判決を受け入れ、毒杯を飲み干しこの生を終えた。ソクラテス70歳、紀元前399年の事と言われる。
 彼の自分の信念に準じた生き方は、後世の思想家達にも大きな影響を与えた。400年後に登場するストア派のセネカは自分の教え子の暴君ネロ帝から自害を命じられたが、その壮絶な最後はソクラテスを明らかに意識していた。ソクラテスの生き方は、古代の思想家が目指した人生の生き方だった。

現代に生きる我々とソクラテスの哲学の適用について

 ソクラテスは、生涯とその命を費やして"知"を愛し続けた。自己満足に陥る事無く、真の知へ近づこうとした。
 翻って現代は、古代ギリシャとは比較にならないほど、もっと言えば処理しきれないほどに情報が氾濫している。その情報に埋もれて、私達は色んな事を知っている"つもり"になっている。しかし、ひとたび「その情報の本質は何か?」と問われると答えに窮してしまう。突然「正義とは何か?」と問われて、果たして正しく答えられるだろうか?「正しい行いはどう言うものか」と言う具体例を挙げる事はできるかもしれない。例えば、「飢えている人に食べ物を送る事」とか、「倒れている人に助けの手を差し伸べること」等々…。しかし、「正義とは何か」の本質を述べることは簡単ではない。自分で頭の中で、「正義と何か」考えてみよう(※"正義"以外の"勇気"でも"善"でも何でも良いが)。思いついたままにに書き連ねてみる。「正義=人の役に立つ事」、「正義=この世から犯罪や悪を排除すること」、「正義=善い行動をする事」…。どれも不完全だ。単なる具体例の延長であったり、抽象論で何のことか曖昧だったり、そもそも概念のはっきりしない言葉を使っていたり…いずれも「正義」をすべて網羅する言葉ではない。ここでちょっと、辞書で「正義」を引いてみる。「正義/正しい道理。公正」…う~ん。じゃあ、公正ってどう言う事?公正って何?ある人に正しく感じられる事も、他者には不快に思えることも多いし、公正って漠然とした概念じゃない?辞書で「公正」を引いてみよう。「公正/公平で正しいこと」(笑)←これ、マジですよ。「正義とは公正なこと/公正とは正しいこと」…この説明じゃ駄目ですよね。明快なようで、よく分かんないでしょ?

 まあ、ちょっと屁理屈っぽくなりましたけれど、実は私達が日頃"知っている"と思っている言葉も、実は"何となく"使っている事がよく分かる。成長していく中で、言葉を覚え、色んな経験をし、学習もし、知識を獲得していく。しかし、日頃から"知に対する愛"が無いと、社会に流され、意義ある人生を損なう事にもなるかもしれない。例えば、総理大臣の煽動演説の背後にある本質を見極めないで、大衆の意見に迎合&流されて投票した結果、冷たい社会になってしまうかもしれない。例えば、バブル経済の背景で働く欺瞞的金融システムを見極めないで投資をした結果、財産をすべて失ってしまうかもしれない。例えば、詐欺的な霊感商法宗教団体の実体を見極めずに入信し、人生を棒に振ってしまうかもしれない。"知らない"事や"知っているつもり"は、自分の有意義な人生を破壊するかもしれない。知らないなら、まず"知らない事"をしっかり受け止める必要があるのだろう。
 対して"知に対する愛"は、薬になる事はあっても毒にならないだろう。真理を探究しようとする欲求と努力は、無駄にならないと思う。科学者、文学者、美術家、音楽家、多くの人々が各分野での真理を探究した結果、新たなる世界を切り拓く。科学者は、真理への飽くなき挑戦によって新たなる世界へ到達する。一流のスポーツ選手も同様。フォークボールはどう投げたらもっと鋭く落ちるのか、どうスイングしたらボールはより遠くへ飛ぶのか、日々の探求と訓練を重ねた結果、素晴らしい成果を残すのである。
 ソクラテスは、私達に"真理"そのものを提供した訳ではないが、私達に"知る"と言う事の意義を伝えようとしている。

クリスチャンである私とソクラテス哲学の関連について

 さて、このシリーズの本題。ソクラテスの哲学は、「クリスチャンの私にとってどう言う意義があるのか?」である。ソクラテスの問いは、哲学であって宗教ではない。"真理そのもの"を提供したわけではない。しかしその哲学の方法論は、真理を探求する事に応用でき有益である。
 例えば、私が「神の一人子・イエスキリストの救いを信ずる」と言った時、「神とは何か?」、「神の一人子とはどう言う意味か?」、「イエス・キリストとは誰なのか」、「救いとは何か、何から救うのか?」、「どう言う意味で信じるのか」…と言った自明と思われていた事が、問い詰められると実はよく分かっていなかったりするかもしれない。また、クリスチャンAの私が考える「福音」の内容と、クリスチャンBの他者が考える「福音」の内容にはズレがあったりするかもしれない。
 「聖書を神の言葉として信ずる」と言う時、「どう言う意味で神の言葉なのか」、「何故、神の言葉と断言できるのか」と問われた時、果たして整然と答えることができるだろうか。自明と思われていた事柄を一つ一つ問われた時、果たして確信をもつて答える事ができるだろうか。"答え"が具体例の羅列ではなく、万人にとって真理となるような答えを提供できるだろうか。逆に、"答え"が抽象的で誰の心にも響かないものだったりしないだろうか。自分がそれを理解していない限り、他者にそれを正しく伝える事は難しいだろう。
 このように"知"を愛する事は、決してキリストを信ずる者にとっても決して無益ではない。神が私に送られた聖霊を通して聖書を神の言葉と確信し、その聖霊の働きによって聖書の内容を理解し、その聖書を読む事で神の意思を理解しこの世を生きる道が示されると信ずるクリスチャンの私が、聖書をより深く知ろうとするのは、正にこの"知"を探求する姿勢に他ならないと思うのである。

 次回は、プラトンの哲学について考えてみたい。ただしこれらの原稿を記述するに当たり、「"読書&思考"→"整理&まとめ"→"記述の超簡潔化"」と長い時間を費やして、私なりに"哲学"しているので、HPへのアップにはそれなりの時間がかかろうかと思います(笑)。

(2009年 4月12日記載)


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