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7.田村直臣牧師の縁の地を訪ねる (2004年8月記載)
さて、最終回となりました。過去六回に渡って、故田村直臣牧師の人生を振り返ってきました。私が取材を重ねる中で撮影した縁の地の写真や、資料写真を見ながら、田村牧師の生涯を振り返ってみましょう(年表などと付き合わせながら写真を見ると、より一層分かりやすくなります)。
築地の外国人居留地を描いた絵(巣鴨教会所蔵)
東京最初の築地のユニオン・チャーチの写真(巣鴨教会所蔵)
田村直臣は、15歳の時に築地に開設された築地大学に通いました。彼は、そこで後の人生を決定づけるキリスト教に出会います。しかし、キリスト教の真髄を味わったわけではなく、まだまだやんちゃな少年でした。
カローザス宣教師夫妻写真(巣鴨教会所蔵)
この築地大学を開いたのがカローザス(※表記によってはカラゾルス)宣教師で、田村に洗礼を授けたのもこのカローザス宣教師です。田村直臣、16歳の時のことでした。
現在の明石町の聖路加看護大学
築地の外国人居留地は、残念ながら残っていません。居留地があった場所は、現在、聖路加国際病院や聖路加看護大学、明石小学校などがある一帯です(ちなみに聖路加大学は僕の妻が学んだ大学で、聖路加病院にも勤めていました…余談ですが)。
銀座の十字屋の写真(巣鴨教会所蔵)
田村は、20歳と言う若さでキリスト教書籍の十字屋の支配人に就任します。地方出の苦学生のために、宿泊等の面倒も見ていました。
数寄屋橋教会の写真(巣鴨教会所蔵)
田村は、21歳の時に按手礼を受けて銀座教会の牧師に就任します。その後、22歳で京橋教会(銀座教会の後身)の牧師になり、29歳の時に数寄屋橋教会の牧師に就任しました。上の写真の前列中央に座っているのが、田村牧師です。
現在の銀座数寄屋橋
数寄屋橋教会のあった場所は、現在では最も地価の高い場所である銀座にありました。現在、(日本基督教団の)銀座教会の対面当たりの場所にあったそうです。銀座の数寄屋橋交差点から、そう遠くない場所ですね。
植林など治山事業中の足尾の山
田村牧師は、足尾鉱毒事件などの社会問題にも関わったことでも知られています。彼は、鉱毒被害者救済などの目的で、何度かこの足尾の地に足を踏み入れました。銅山も、視察のため訪れました。
酸性雨により禿山となってしまった足尾の山々
僕も、学生時代に環境問題を調べていて足尾銅山を訪れたましたが、昔の酸性雨の影響で未だに山全体が禿山と化していました。昔のような緑の山に戻るには、1世紀以上かかるのかもしれませんね。
東京YMCA発会の地の辺り(現在)
さて田村牧師は、明治13年に小崎弘道、植村正久、井深梶之助らと共に、銀座の地で日本基督教青年会を設立しました。「パッとすぐに始めてしまうが、長続きしないのが日本の悪いところだ」と言う宣教師の心配通りに、この後の活動はあまりパッとしません。この発会の地は、現在銀座の並木通りに面する東京電力銀座支店別館から隣りの喫茶店の辺りだったそうです。
東京YMCA会館のあった辺り(現在)
活動の少ない初期の日本のキリスト教青年会でしたが、明治38年に再び活動を開始しました。田村牧師、47歳の事です。委員の中の木村雄二氏が総責任を負い、銀座に家屋を借り受け、YMCA(基督教青年会)の横看板を掲げました。重い責務を負った功労者である木村達の写真がYMCA内に無いのを、田村は残念がっていたようです。東京YMCA会館のあった場所は、現在の銀座2丁目7番地から8番地の辺りだそうです。伊東屋のすぐ近くですね(※YMCAの場所に関する情報は、いずれもYMCAのホームページの記事を参照)。
田村牧師が立てた巣鴨教会堂(部分)の写真(巣鴨教会所蔵)
田村牧師は、数寄屋橋教会を巣鴨の地に移転します。巣鴨にはすでに土地があり、自営館(田村塾)もありました。銀座は商業地で騒がしくなり始め、また教会堂の破損が激しくなり始めたため等の要因により移転を決めました。田村牧師は、今までの教会のように西洋の物真似をした教会堂ではなく、純日本風の教会を建てたいと考えました。こうしてできたのが、上の写真の珍しい和風の教会です(写真はその一部分です)。
現在の巣鴨教会
巣鴨教会の礼拝堂
日本のキリスト教会の教会堂建築に一石を投じた和風の教会堂ですが、残念ながら戦争の空襲で焼けてしまいました。現在の巣鴨教会は、戦後建て直されたものです。
巣鴨教会敷地にある山田耕作の歌の碑
田村直臣牧師は、山田耕作や岸田劉生らの若き日に彼らの世話をしましたので、彼らと深い親交がありました。巣鴨教会内には、山田耕作の童謡"からたちの花・発祥の地"の碑が建っていて、楽譜と詩が刻んであります。ここは、豊島区内の散策スポットの一つ。
巣鴨教会の敷地にある幼稚園
田村牧師が、晩年力を注いだのが幼児教育です。田村が数寄屋橋から巣鴨に教会を移したのも、子供達の教育の充実を図ると言う目的も一つにありました。巣鴨に教会を立てると、同敷地内に大正幼稚園も開きました。これが、現在の巣鴨幼稚園に続いていきます。
"田村直臣終焉の地"の石碑
巣鴨教会(ならびに幼稚園)近くの通りの角に、"田村直臣終焉の地"の石碑が建てられています。
東京国際近代美術館(千代田区)
岸田劉生によって描かれた「田村直臣七十歳記念之像」
田村直臣は七十歳の時に、日本絵画界の巨匠である岸田劉生によって"田村直臣七十歳記念之像"を描かれています。現在、この絵は東京国際近代美術館に所蔵されています(巣鴨教会でもコピーを見させていただきました)。ただし、近代美術館の所蔵絵画はすべてが常時展示されているわけではありませんので、いつでもこの絵が見られるわけではありません(最初に私が行った時には、岸田劉生の作品は"麗子像"が展示されていました)。展示されている内容を確認してから、美術館に行った方が良いでしょう。
桜が満開時の都立染井霊園(豊島区)
田村直臣は、76歳でその生涯を閉じました。葬儀の際にオルガンを演奏したのが、前出の日本音楽界の巨匠、山田耕作でした。田村牧師のお墓は、豊島区内の染井霊園にあります(この霊園は、高村光太郎や二葉亭四迷を初め、有名人の墓が多数あることでも有名な霊園です。園内のお墓案内地図には、有名人のお墓のポイントと名前が載っていますが、僕が行った時には田村牧師のお墓の位置もきちんと記載されていました)。
田村直臣の墓(染井霊園内)
これで僕の田村直臣牧師の縁の地を訪ねる小さな旅は、すべておしまいです。
(2004年 8月22日記載)
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