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考察・田村直臣

6.田村直臣の生涯と信仰の考察

 現在日本にあるキリスト教の教会の多くが、戦後に設立せられた。戦後の日本は各地の都市が焼け野原となり、戦前日本を覆っていた体制や思想が崩壊した。そんな日本で、新たなる国家建設と教会建設に燃えていたキリスト教徒や牧師たちの志は、田村直臣が洗礼を受けた明治初期のクリスチャンの志に似ていたかもしれない。300年続いた江戸時代の体制が崩壊し、まったく新しい時代が到来しようとしていた。そんな中、多くの士族が新しい国家の建設に燃えていた。ある者は政治家として、ある者は実業家として、そして田村直臣のように宗教家として、新しい時代に立ち向かっていた。
 田村直臣と言う人間は、激動の時代を生きた標本みたいな人物である。江戸時代に生まれ、幕府方の士族であった家庭から養子に出される。人生のスタートとしては、はなはだ苦しい出来事だったろう。幼くして両親から離れる心境について、田村はまったく語らない。父や母に対する怒りや悲しみと言うものも、子供心にあったのかもしれないが。彼は暖かい家庭とは無縁で、何事も自分で決めて行動する生活をせざるをえなかった。心境はともかく、外面的には弱音を吐かない子だったようだ。幼くして、養子に出されたり、兵学校へ入れられたり、書生に出されたりする。蝶よ花よと育てられている現代の子供だったら、とても絶えられないような田村の幼年時代である。
 そんな田村に、一大転換期が訪れる。キリスト教との出会いである。彼は、16歳の若さで宣教師より洗礼を受けた。当時、キリスト教徒になると言うことは、親戚や友人達から蔑まれることであり、一大決心を要した。彼がキリスト教に踏み込んだのは、キリスト教の教えに確信があったからではない。日本が文明開化している諸外国に対等に付き合うには、元来の仏教や神道や儒教の教えでは駄目だ、と言う考えが根底にあったからだ。そもそも、日本語訳の聖書すら存在せず、宣教師の説教も日本語だかなんだか分からないような説教だったから、明治初期のキリスト者に深い聖書の知識に基づいた信仰や神学知識を求めるのは酷と言うものだろう。しかし不思議なことに、田村は長老職として按手礼を受ける頃には、聖書の教えについて揺ぎ無い確信を持つようになった。彼は、人生をイエス・キリストに捧げ、仕えることを決心した。22歳の若さで牧師となつてから、どんな障害にぶつかっても忍耐強く生き、生涯牧師職をまっとうするのである。その後の波乱の人生については、「年表」や「田村直臣の人生」のページを見ていただくとして、このページでは、田村直臣の信仰や内面について考えてみたい。

 田村の著述は私はまだ三冊しか読んでいないので、田村の神学がいかなるものであったか深く知るところではないが、彼の信仰とは一体どのようなものであったのか。田村のキリスト教信仰で、彼が主張を譲らなかったことがいくつかある。
 まず一つ目は、日本の教会は外国ミッションに頼らない独立した教会でなければならないと言うこと。ミッションから多額の金をもらっていて、どうして自由に物が言えるか、日本人主体による教会を建て上げることができるのか。この独立思考は、教会建設・運営だけでなく、彼の自営館経営や日曜学校協会運営においても同様だった。この主義のため、ミッション関係者に田村を快く思わない者があったようで、あちこちで衝突を起こしている。こうした田村の独立主義は、彼が士族の出であることと無関係ではないかもしれない。日本人のことは、日本人自らが決めて行動するのが当然だと思っていたのだろう。また、彼の若い頃からの人生との関係も指摘できるかもしれない。小さな頃から、父に軍人となることを望まれていたが、幼き日に養子に出されてしまい、その後は養父からも書生に出されてしまった。彼は子供であるにも関わらず、自立と自律を余儀なくされた。幼き日より、常に独立独歩で歩まねばならなかったのである。彼にとって、極力他人の世話にならず生きていくと言うのは、当然のことであったのではないだろうか。
 二つ目に、田村は正統的・保守的な教義の信仰を保持していて、教会政治は長老主義を掲げていた。新神学が諸外国から流入して、聖書の確かさやキリストの神性、キリストの贖罪の意義などが攻撃され、多くの者が信仰を捨てた時、田村は心を痛めた。また田村は、教会の本当の一致と言うのは、教義や政治が一致しなければできない、と言う確信があったようだ。よって、一致教会と組合派教会の合同には初めから反対していた。アメリカなどで、各教派の実態をよく見ていた田村は、神学・主義・主張や政治形態の違う教会の合同がうまくいかない事を予測していた。これは、アメリカで学んだ組合派教会の新島襄も同様であったろうと思う。実際に教会の合同がうまく行かなかった時、(田村のせいでないにしても)合同に反対していた田村は一致教会の一部の者から恨みや反感をかなりかったようだ。そもそも、一致教会は無宗派を標榜していた横浜教会(横浜バンド系)の流れをくむ者と、東京の長老派の教会(築地バンド系)の流れをくむ者が混在していて、長老主義の筆頭株と思われていた田村への風当たりは強かった。当時の一致教会の主流な考えは、「日本にはキリスト教が入ってきて日が浅いのだから、信条もなるべく簡易なものが良く、教派にこだわらない教会の方が日本人には良い」と言うものだった。実際、最初は外国の諸信条を採用していたのだが、後に簡易信条を採用した。これらの考えは、先にも述べたように、田村の教会に対する考え方とは異なっていたようだ。
 三つ目は、彼がたいへん強くクリスチャンホーム育成にこだわった点が上げられる。キリスト者家庭を築いて、良き生活を行い、子供を教育することは、田村の信仰生活と絶対切り離せないものだった。周囲に強く反対されても覚悟を決めて「日本の花嫁」を出版したのも、こうした確信的な彼の信念が背景にある。彼は、幼少の頃、あたかも物であるかのように養子へ出されたり書生に出されたりと、振り回された。そう言った意味で、彼は本当の家庭の温かさと言うものを知らずに育った。そんな彼が、アメリカで初めてクリスチャンホームで生活し、その暖かさに触れ、素晴らしい子育ての仕方などに接した時、彼が日本の封建的な家族のあり方に大きく疑問を持ったのも、当然と言えるだろう。また彼の生きた時代は、女と男が一緒にいるのは恥だとか、女は男より卑しい者だとか、そう言う考えが子供の頃から叩き込まれていたような時代だったし、自由な恋愛結婚もままならない時代だった。また、女性の売春業が法的に公然となっていて、国家が彼女らから税金を徴収していた時代であり、女性の地位が圧倒的に低い時代だった。だから、女性の地位に関して、田村はキリスト教の良心に従い「男女の同権」を訴えざるを得ず、またキリスト教こそが「正しい男女関係を作」り、「良い家庭を作る」ことを主張せざるを得なかったのであろう。
 四つ目は、人生の後半、子供の教育の重要性を確信したことである。明治時代に二度も大きなリバイバルが起こり、数多くの受洗者を得たが、教会の信者数や教会数は伸びなかった。一時的な感情の高ぶりや周囲の勢いに乗せられて受洗する者が多くとも、その人達にキリスト教が根付いていなければ、結局教会を離れてしまうのだ、と言うことを長年の牧会経験から田村は悟っていた。これに対する唯一の方法は、訓練と教育である。田村は、若き日より学生達のために筆舌に尽くしがたい多大な労を採っていた。彼は、自営館を設立して苦学生を養ったり、日本のキリスト教の青年会の設立のためにも奔走したりした。しかし後年の田村は、幼い子供への教育の必要性を痛切に感じていたのだ。彼は、その力を幼児教育のため力を注ぎ込み、幼稚園も設立した。その幼稚園は現在も、巣鴨に残っている。
 人の信仰を一言で言い表すことは決してできないが、田村直臣牧師が教会形成と信仰生活で主にこだわったのは、「日本人による自給独立」、「保守・正統的信仰及び長老主義の保持」、「クリスチャンホーム形成とその良き生活」、「児童教育の大切さ」だったと思う。

 田村は自分自身でも認めているように、頑固で、論争好きで、負けず嫌いであると言う、自分の欠点をきちんと理解していたようだ。主張は曲げないのだが、当時の有名なキリスト者であった内村鑑三、松村介石とは、まったく立場も主義・主張が違うにも関わらず、深い交友関係を結んでいた。彼ら三名をもって、「三村会」と言うのを作って、時折集まっては食べて、語り合っていたと言う。ご存知の通り、内村鑑三は無教会主義や再臨説、そして天皇に対する不敬罪などで、キリスト教界から異端視されていた。松村介石も同様に、青年会の講師を辞めさせられていた。一方、田村は「日本の花嫁」での売国罪で日本基督教会から締め出されていた。三人に共通するのは、やはり頑固で、自分の主義・主張を曲げない、負けず嫌いの性格であったと思う。これは、田村らが士族出と言う出自と、国家的な視野をもって生きていたことと関係あるかもしれない。今では、当時の三村と言うと、内村鑑三と田村直臣と植村正久を指すことが多いようだが、三村会のメンバーは、植村でなく松村だった。当時、もう一人加えて四村会ではどうかと言う世間の票もあったようだが、田村はもうひとりの「村」(暗に植村正久を指していると思われる)を加えると「四村(し損)ずる」になるから嫌だと屁理屈を言って、三村のままでいた。面白いことに、田村にとって、植村の方が遥かに内村達より教義の上では近かったはずなのに、彼は植村とは一定の距離を取っていた。田村と植村は、共に一致神学校に学び、共に「六号雑誌」を創刊し、牧師になったのも同日であったが、後に田村は月刊誌「いのち」を刊行して、植村の「福音新報」との間に論戦を展開するようになった。両雄並び立たずと言うか、反りが会わない田村と植村の両名であったが、二人の決別を決定付けたのは、「日本の花嫁」事件で田村は追放され、植村が日本基督教会の主導権を握った時である(田村は、植村がなくなった翌年に日本基督教会に復帰している…いかに二人が犬猿の仲だったが伺われる)。田村と植村は、終生ライバルであった。不思議なことに、むしろ主義主張において真っ向から対立するような内村鑑三とは何でも語り合える友人となった。田村は主義・主張のはっきりした人で、例え嫌われ反目されることが分かっていても信念のために闘うタイプの人であった。しかし、その一方で相手の人間性そのものを認めてしまうと、例え主義主張を異にしていても、友人となってしまうのだ。その辺が田村の面白いところで、例えば(一致教会と組合教会の合同には反対していたが)組合派教会の新島襄に対しても尊敬の念を持っていたようだ。田村は、例え行く道が違っても、迎合せずに自分の信念を貫き通す人や、自給独立でかんばっている人の事は、きちんと認める傾向があったようだ。
 彼自身、頑固で負けず嫌いと言っているように、自給独立を貫き通しただけでなく、何でも最初にやりたがった。ことさらに、彼は自分が「初めて」の者であることを強調する。「22歳の牧師は当時最も若かったのではないか」、「日本で創作童話を刊行したのは、自分が最初だ」、「オーバーン神学校を卒業した日本人は自分が第一号」、「プリンストン大学でM・A学位を取った日本人は自分が最初」、「六号雑誌の"創刊"に参画」、「明治にパレスチナを訪れた日本人は私が最初ではないか」、「日本基督教青年会(現Y.M.C.A.)の"設立"のため労をとった」、「日本日曜学校協会"設立"に奔走した」などなど枚挙にいとまが無いほど、彼はことさら自分が"最初"に行動した者であることを強調する。そして、その事実に敬意を払わない人に対しては、「無礼千万」と言って怒ったりする。はっきり言って、子供のような面も持っており、「お山の大将」的な感じがしないでもない。

 田村の業績として注目される活動に、文書活動、社会活動がある。詳細については、彼の年表と人生のページに譲るが、人が一生のうちこれだけのことをやれるのか、と言うぐらい活動している。書いた文章もものすごい量である。キリスト教の伝道文書や雑誌はもとより、子供の権利や、女性の権利を守るための書物、児童文学や、日曜学校の教科書まで幅広い。社会活動も、色々と行っている。苦学生のために自営館を自給独立で運営し、足尾鉱毒事件において、各地で演説を行ったり、現地視察隊を募ったり、現地の調査をしたりした。その他、首相を始め時の為政者との関わりは年表にある通りである。
 彼は、晩年同胞のことと世界の成り行き、取り分け米国の将来についても、思い悩み、祈っていた。第一次大戦は、キリスト教国なる欧米社会が始めた戦争だったから、そもそも欧米のキリスト教教育は不十分であると感じていたようだ。その大戦後には、米国の日系移民に制限が加えられるようになった。米国の移民たちは、日本政府がまったく頼りにならないのを悟り自分達だけでなんとかしようとしていた(最近の拉致問題などに対する現在の日本政府の対応とあまり変わりない気がする)。田村は、やはり初めから大和民族と言うか、国家的な視野を持っている人だったから、この同胞の陥った事態を愁いていた。日本国政府のその場しのぎの対応に、田村は不満を持っていたようだ。同様に、たいへん世話になったアメリカのことも愁いていた。(日本人も含む)有色人種にたいする差別が厳然としてあり、キリスト教国であるアメリカ合衆国の議員達がキリスト教の真理に背いていることを怒った(これはイラク戦争等に見られる現在のアメリカ政府の対応にも見られる気がする)。実際、アメリカのキリスト教会は、田村が留学した頃より遥かに勢いが衰えていた。大都市から名物説教者はいなくなり、学生は神学よりは実業の道を選ぶような時代になった。国は、南北戦争時よりは物質的には豊かになったが、キリスト教は衰退しているように田村には感じられた。
 人類は権利を一つ獲得するために戦い争ってきたから、この人種差別撤廃のためにも、また大きな戦争が起こらざるを得ないかも知れないと、田村は思っていた(この辺りは大日本帝国のプロパガンダの受け売り的な部分もあり、若干迎合的な感じがする)。常に闘い続きの人生を送ってきた田村だが、国家のこととなると非常に日本びいきの発言になるのは、時代の背景と彼の出自・性格・心情からすると仕方のないところかもしれない。田村直臣は1934年に世を去っているので、幸いな事に太平洋戦争の勃発を見ることはなかった。

 田村直臣の人生を振り返ると、欠点も多い人であったように思うが、色々と成した事も多かった。学究肌と言うよりは、どちらかと言うと行動派の人であった(もちろん学問上の研鑚も積んだが)。机上でただ思考・勉強しているよりは、物事の実現のために活動をした人であったと思う。人のことに心底尽力し、多くの苦学生の面倒も見た。だからこそ、田村のもとから多くの偉人達が輩出されていったのだろう。洋画家の大家・岸田劉生や、音楽界の巨匠・山田耕筰も、そうした田村直臣の元から巣立っていったのである(作家であり詩人でもあった、北村透谷に洗礼を授けたのも田村である)。後年、彼は自営館の"田村塾生"達から、中国旅行をプレゼントされている。また、田村直臣の葬儀においてオルガン奏楽をしたのは、山田耕筰その人であった。いかに彼が塾生に敬われていたかが分かる逸話である。

 私は、田村直臣の生きた時代と、現在私達が生きる時代は、非常に似ていると思う点がいくつもある。
 田村は、江戸時代から明治時代への変わり目を経験しているが、そんな大変革の時代に教会が各地に建てられていった。新時代を作ろうと、明治初期のキリスト教徒たちは燃えて外へ外へと向かい伝道し、信者数も教会数も増えていった。
 第二次大戦後の日本の教会も似ている。多くの日本のキリスト教会が、第二次大戦後に設立され、新国家・新時代を築くため、キリスト教徒は大いに燃えて外へ外へと伝道活動をし、教勢も教会数も伸びていった。
 ところが、伸びていた教勢がいつしか止まってしまう。明治時代中期になると、欧米化反動の時代となり、キリスト教に対する逆風が強くなっていく。大正時代から明治初期にかけては、教会の姿勢はどんどん内向きになり、外への伝道よりは、個人の救いの充実などを重視する方向へと移って行く。外へ向かう姿勢が無くなれば、当然教会の教勢は衰退せざるを得ない。遂には、全体国家の政策に逆らうよりは、全体主義化の流れに飲まれて世間に対し荒波を立てない道を選んでしまう。国家の指導の下の、日本基督教団の設立である。日本中のキリスト教の教会の合同である一教団化は、欠点・長所ともあるが、欠点の方がはるかに大きかったように思う。田村的な言葉で言えば、制度や主義・主張の違う教会が合同するのが無理であるのは"当然の理"である。教団設立をもって、「日本のキリスト教会の合同のための祈りが、遂に神に聞かれた」と考えるのは、やはり私も間違いであると思う。
 戦後の日本の教会も、現在、破竹の勢いを辞め、次第に伸び悩んでいくようになってしまった。外への伝道よりも、姿勢は内側へ向かい、やはり個人の救いや個人の信仰生活の充実を強調するようになっている。更に大不況に陥ると、一人一人の"癒し"を強調するようになった。もちろん、それはそれで決して悪いことではないが、姿勢が内へ向かえば向かうほど、外へ向かう教会の勢いが衰退していくのは、"当然の理"である。同様に、高度成長期からこの大不況期にかけて、政府が戦前の思想や主張を髣髴とさせるような法案を成立させ、また社会においても全体主義的思考が復活しつつあるように思う。"建国記念の日"、"元号"、"君が代"、"平和を祈念する日"、そして首相や閣僚の"靖国参拝"など、政教分離が崩されつつあるような状況となっている。教科書も、次第に戦前教育美化的なものが出始めている。時代がもっと右へ右へと傾いていった時に、果たして現代の日本のキリストの教会が、昭和初期の教会のように荒波を立てないで沈黙してしまうのか、それとも韓国の教会のようにその圧力に抗って闘うのか、とても疑問かつ心配に思っている。

 田村直臣の人生を考察して、色々と考えさせられることがあった。確かに、田村は欠点も多い人だった。周りともっとうまく調和できなかったのかなぁ・・・とも思う。しかし現在周りを見回すと、皆荒波を立てないように主義主張を控えたり、主張をオブラートに包みすぎて結局何を言っているんだか分からない人が多いように思う。上司には愛想良く迎合し、友達とも口論せず柔軟な友達付き合い。しかし、それで本当に良い信頼関係や友人関係を築けるのかなぁ・・・とも思う。田村は元来武士の出と言うかはっきり言う気性の人だったから、言いたいことを言い、敵をたくさん作りすぎてしまったが、一方私達現代人は、あまりに村社会の"日本"で穏当に生きることに終始してはいないか?田村直臣のような自分の道を貫き通すような人生は、実際にやっていくには筆舌に尽くしがたい苦労があるとは思うのだが、一生を終えた時、悔いは残らないのではないかとも思うのである。
 私が、田村直臣と言う一人の人間に心を揺り動かされるのは、彼が"行動の人"だったからである。確かに、心理学や神学と言った学問も一般人よりは多く学び、知識もあったかもしれない。本もたくさん書いたかもしれない。しかし、彼は単に机上の人ではなく、行動の人だった。初めから国全体のことを思い、貧しい学生や、公害で被害にあった人々のため、具体的に行動した。現代、高名な学者や政治家やタレントがテレビの討論会などでご大層な理屈を述べている。では、実際に彼らのうち何人が、世の中の本当に苦しんでいる人の懐に飛び込んで、共にもがき苦しみ悩んだことがあるのか?これは、何も政治家や学者だけに対する批判ではない。現代のキリスト教の牧師達や教会にも言える・・・本当に苦しんでいる人や、貧しい人のところに飛び込んでいますか?と。それは他でもない、自分自身に対する問いかけでもあるのだ。


(2004年 7月25日記載)


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