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考察・田村直臣

4.「米国の婦人」の概略

 田村直臣の著した「米国の夫人」の概略を記したい。日本とアメリカの「比較文化論」と言えば聞こえは良いが、田村が米国の女性や男女交際をじっくりと観察して、日本の女性や交際の仕方との「相違を書いてみました」みたいな本である。この「米国の婦人」は文語体なので現代人にはちょっと戸惑う。しかも、江戸時代から明治時代に変わって、ちょうど文の書き方も過渡期であったので、句読点などが本来「、」であるべき部分がすべて「。」であったりする。それでも知識人層の記した"漢文体"と違い"言文一致体"で、しかも漢字にすべて振り仮名が記してあるので読みやすい。
 田村は、面白おかしくこの本を書こうとしたようで、文章は歯切れ良く、洒落っ気に飛んでいる。とても、頑固な明治の牧師が書いたとは思われない一冊である。

第一章 身体(からだ)の格好(かっこう)と衣装(よそおい)

 この章では、いかに日本の女性とアメリカの女性の装いが違うかを、滑稽とも思える描写でたんたんと描写している。現代の私達が読んでも違和感がなく、けっこう正確な描写である。日本人女性より遥かに大きな、アメリカ人女性の体付きを描写し、その後で、化粧や装身具や衣服関係の違いを描写する。アメリカでヒゲの生えた女性を見た驚きも書いているが、なんとなく笑える。また色々な道具を使って身体のラインを作っているのを見て、まるで器械的だと言う。特に、あの腰の異常な細さには、窮屈そうであると言い放つ(笑)。様々な描写の後、結局アメリカには美人が多いと言う結びになっている。

第二章 婦人(おんな)の待遇(もてなし)

 さて本章では、女性に対する待遇について言及する。日本では、妻が右手に重い荷物を持ち、左手に小さな子の手を握り、背中に赤ん坊をおぶり、ふんぞり返って歩く夫の後ろを離れて着いて行くような社会。対するアメリカでは、女性は大切に扱われ、男が帽子を取って会釈をし、女性が重い荷物を持っていようものなら男子たる者、必ず女性に変わって荷物を運び、馬車の席が満杯なら女性に席を譲る、そんな社会である、と田村は描写する。田村は、アメリカの失敗談なども面白おかしく語る。田村が女性と共に歩いていた時、「あなたは日本から来たばかりだから教えてあげるけど、男性は危険な車道側を、女性は安全な家側を歩くものなのよ」と言われ、交差点を渡る度に女性の右に立ったり、左に回ったり、ついに左右に家が無い道路に差し掛かった時には、どうしたものかと聞くわけにも行かずまごまごしてしまった、等と言う実体験も語る。具体例を挙げながら、いかにアメリカが女性優位社会であるかを語る。

第三章 男女(おとこおんな)の交際(まじわり)

 次に、男性と女性の交際の仕方を描写する。日本では、幼い頃から叩き込まれた教えで、男性は女性にたいして大きな顔をするが、一方アメリカではそう言うことはない。日本人の男性から見ると、アメリカ人の男性が始終女性に対して頭を下げているのでおかしく思える。しかし、男性が女性と付き合おうとすれば、アメリカの社会では威張っている事は到底できないのだ、と田村は説く。
 また、日本では、その装いや髪の結い方などで独身か既婚者かの区別が着くが、アメリカの婦人は年を取っても若い女性のような服装をしているので、独身か既婚者かなかなか区別が難しいと言う。また、年齢を聞くことも失礼に辺り、アメリカの男性にしても、結婚してから自分の年齢より幾つも上であることを知り、たいへん驚くと言うような例もあると述べる。また、パーティーの席や、女性の家に伺う時のマナーなどを詳しく述べ、好きな女性とお付き合いするにはどのような努力が必要か、具体例を挙げながら語っている。

第四章 婚姻(こんいん)の手続(てつづき)

 そして、いよいよ話は結婚の話へと移行する。日本では、本人の意思に関わらず、親の決めた相手と結婚させられてしまうのが、田村の時代の一般的な結婚であった。たかが一度、二度会った相手を、一生の伴侶として生活していくこととなる。一方、アメリカは自由婚である。日本人の中には、自由婚とは好きな相手とすぐに結ばれる、犬や猫の交わりのような無法な制度だと言う誤解があるので、田村はその間違いを正すため、一つ一つ事細かに述べていく。
 アメリカでは自由婚と言っても、出会ってからすぐに結婚するわけではなく、相手を良く知るため、最低1年や2年付き合ってから結婚し、中には5年、10年と付き合ってから結婚する例もある、と説く。日本のように、親が選び且つたった一回お見合いしただけの相手と結婚すると言う風習はない。田村は、アメリカの男女が結婚まで、どのような道を歩むかをコツコツと詳細に語る。また、相手を知るための婚約期間と言うものがあることも教える。この間、相手の素行が悪ければ結婚しないので、傷を大きくしないですむのだとも述べる。アメリカでも、中には金目当てに結婚する者も皆無ではないが、そういう例は極珍しい。また田村は、本章でアメリカの結婚式のやり方も詳細に述べている。結婚式の様子や牧師の式分は、現在日本の教会で挙げる結婚式のやり方とほとんど同じであったことが分かる。そして、結婚後二人で出かけるハネムーンと言う風習があるのだと教える。

第五章 家族(かぞく)の内幕(うちまく)

 最後に、この章で結婚後の夫婦の家庭形成について語る。
 アメリカでは、東西南北に鉄道が発達し、十数階もあるような大きな建物が並ぶ。そこには、蒸気機関で動くエレベーターなるものがあり、箱に入ると上階まで連れて行ってくれる。また商売もよく出来ていて、店にいくと売り場にいけばすぐに必要な物が買える。しかし田村は、このような立派な鉄道や建築物、うまい事業方法などが、アメリカを文明国家にしているわけではない、と説く。アメリカが文明国家として成り立っているのは、国の根幹をなす家庭が素晴らしいからなのだ、と言う。アメリカの家庭では、朝家族みんなが起きた後、揃って食事をする。そのように、非常に規則正しく生活する。食事も、30分や1時間かけ会話をしながら楽しむ。家庭において、主人と妻の役回りも決まっていて、主人は重いものを運んだり、食事時には肉を切り分けたりし、妻は食事の用意をしたり、力仕事以外のしごとをしたり。一方日本では、主人がふんぞり返っていて、何時に起きようが勝手で、食事は茶漬けのように5分位で流し込み、食事時に話すのは無礼と言って怒る始末(田村は、日本人にして、しかも士族の出なので、その辺の描写はさすが正確である)。
 夫婦の関係も、日米では大きく違う。日本では、主人が妻に対して「おい」など言って呼びつけ、色々用事を指図する。また、主人が外で妾を何人作ろうと、妻はそれを咎めることもできない。逆に、孔子の教えに従い、妻に少しでも不備があると離縁させられる。日本の夫婦は親との同居なので、舅、姑、小姑にも耐えねばならない。夫は、妻を生存中はかくも過酷に待遇していたのに、死んでしまうとお寺のお坊さんを呼んで、たいそう立派な葬式を行い、一周忌、三周忌と行い、いかにも妻を愛していたかのような体裁を整える。対するアメリカでは、夫婦をお互い名前で呼び合い、結婚後も独身時代と同様、女性を丁寧に扱う。また、妻と夫の双方に離縁の権利がある点も、田村は指摘する。もし、主人に不貞のことあらば離縁も当然で、社会や教会からも締め出されてしまうのだと言う。また、伴侶が亡くなってしまうととても深い悲しみを現し、後々までも相手方を愛していたことを言い表すのがアメリカの夫婦だと語る。。
 子供の教育も、また叱り。日本では、子供が駄々をこねると、母親はすぐに菓子を上げてなだめたりするので子供がどんどんつけあがっていく。アメリカでは、母親がたいそう厳しく、しかししっかりと子供を育てる。アメリカの実業家や政治家、また人格の素晴らしい人達に話を聞くと、母親のおかげであると、素直に話すと言う。
 こういった事を、田村は具体例を挙げながら、辛抱強くコツコツと語る。そして、それらのベースになっているものは、キリスト教なのだ、と説く。これからの日本が、いくら鉄道を引き、電気燈が立ち、立派な煉瓦の建物が建設され、商売が盛んになり、大きな学校がたくさんできようが、清く正しい家庭が出来なければ、日本は決して文明開花の国と呼ばれ、外国と対等の権利を持つことはできないのだ、それを築くには、神道でも儒教でも仏教でも駄目で、キリスト教でなければ駄目なのだ、と語ってこの本を締めくくる



 以上、「米国の婦人」の概略でした。ここに記してあることは概ね正確で、昔の時代を描いたハリウッド映画を見るように、その情景が思い浮かんでくる。その観察力というか、アメリカでの田村の奮闘努力の跡が窺い知れる一冊。読みやすい文章で、数々の体験や失敗談はこの本に笑いを添える。しかし、田村は最も良い時代のアメリカに留学したためか、若干アメリカの家庭を美化しすぎたきらいもあるように思われる。田村は別の本でも書いているように、その後アメリカは物質的に豊かになっていくが、キリスト教の社会や政治に対する影響力が明らかに失われていく・・・有色人種に対する差別的政策のことなどは、その良い例であろう。また、現代のアメリカを見ると、夫婦の二組に一組が分かれる現状であり、アメリカの現在の家庭は真似すべき模範でもなくなっている。欧米の暮らしを真似た日本の結婚や家庭も、アメリカと似たような傾向を示し始め、全体的にやや崩壊の方向に傾きかけている観がある。結局のところ、アメリカにしても日本にしても、形だけ体裁を整えても、その根幹をなす精神的なベースが根付いていないとうまく機能しないと言うことだろう。日本的な言い方をすると、「仏を作って魂いれず」と言うことになろうか。現在のアメリカの家庭も、日本の家庭も、共にキリスト教の精神的基礎が元々無いか、もしくは薄くなったのは明白である。文明国家の基礎は家庭にある、と言う田村直臣の主張はもっともで、夫婦や家庭の基盤を見直すことは益のあることであると思う。


(2004年 5月23日記載)


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