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考察・田村直臣

3.田村直臣の人生(概略)

 さて、田村直臣牧師の人生を振り返ってみよう。彼がどのような時代背景の中、どのような事を考え、どのような人生を送ったのか。正確な年月日や事象名、団体名等は前出の年表で確認していただくとして、本ページでは、江戸時代の安政5年に生まれた田村牧師が、慶応、明治、大正、昭和と言う激動の時代をどう生きたか、彼を取り囲む人々との関わりもとらえながら、概観していきたい(時代の変遷を分かり易くとらえるため、本ページでは"あえて"西暦ではなく元号を使用しています。また、敬称などは極力省略しました)。

誕生から受洗まで(誕生~16歳)

 田村直臣は、安政5年8月9日、大阪の与力浅羽家の三男として生まれた。名は藤三郎だったが、慶応3年、9歳の時に三郎と改める。明治元年、彼は10歳にして、伏見の兵学校に入学する。彼の家は士族であったから、父の浅羽藤二は息子が立派な軍人になるのを望んでいたようである。またこの年に、藤二は旧家臣である、田村豊前守の養子となり、この時より姓は"田村"となる。兵学校に入ったと言っても、まだまだ子供で悪戯心に溢れていたようである。明治維新間もない頃であったから、世は色々と騒がしく、当時、京都の加茂川では、さらし首(生首)は毎日のようにあったそうで、家人に勇気を誉めてもらおうと、田村は番人の目を盗んで生首を持ち帰って、逆に大目玉を食らったそうである。大村益次郎の家にも度々遊びに行ったようだ。奥羽の戦争に行きたかったそうだが、10歳かそこらでは到底無理な話しで、結局兵学校には1年しかいなかった。
 この後、田村は10代にして、短い期間に、福岡、大阪の塾などを転々とする。13歳の時、養父が汽船会社の事業で失敗。田村は、旧幕府の公卿である築地の東久世家に書生として預けられることとなった。名も、14歳で"直臣"と改める(以後、死ぬまで田村直臣の名を通す)。14歳にして、田村はすでに各地を転々とし、面倒を見てくれる人も次々と変わっていた。しかし、大阪から東京へ来ることができたのはうれしかったらしい。
 明治初期は、各地にキリスト教の教会が産声を上げた時期である。慶応3年ぐらいまでは、基督教の活動は横浜、長崎、函館あたりに限られていたが、明治に入ると、基督教は各地に広がっていった。明治5年には、横浜に日本基督公会が設立された。東京に設立された最初の教会は、新栄教会である。東京は長老派宣教師の、神戸は組合教会宣教師の、大阪は監督教会宣教師の中心となった。また、各派の宣教師が続々と東京に移り、東京はキリスト教宣教師の活躍の舞台となった。
 さて、田村のいた築地であるが、カローザス宣教師夫妻が、築地入舟町の外国人居留地に男子の学校を、築地六番に女学校を開いた。日本に来た宣教師達は、初めから教育の必要を感じていたようで、宣教師達は、各地に学校を開設していた。カローザスの英語学校の築地大学もそうした学校の一つである。田村が書生をしていた東久世家は築地居留地に近かったが、東久世伯は田村に通学の許可を与え月謝も払ってくれたので、英語を学ぶことができた。彼が通学していたのは、築地六番の長屋二階の教室の英語学校で、バアク嬢(後のタムソン夫人)から教えを受けた。しかし、田村はなんとか築地大学に入学したいと思っていた。幸いに東久世伯が学費を与え、田村は築地大学へ入学できた。
 築地大学は、大学と言っても、古い工場を改装したような建物だったらしい。田村直臣は、そこで初めて聖書の言葉を聞いた。もちろん、内容についてはちんぷんかんぷんである。学生中、田村は学内で最も乱暴な者だったと自ら述懐している。いわゆる、ガキ大将である。夜中に校則を破っては、塾長を悩ます事しばしば。兵学校などで養われた気概は、こんな所で発揮された。一方で、議論好きで、屁理屈ばかり言っていたらしい。
 こんな田村が、洗礼を受けると聞いた学生は、皆驚いたようである。明治7年10月に、カローザス宣教師から洗礼を受けたのである。しかし、田村は、キリスト教に深い確信があって受洗したのではないらしい。やはり田村も士族の子、国家的な視野をもっていた。キリスト教は文明国の宗教であるから、日本が欧米のごとく文明国になるには、神道や仏教では駄目だ・・・そんな思いが強かったそうだ。明治初期の有名なキリスト教徒には、田村直臣と同様、士族の(しかも幕末、敗れた側である幕府方の士族の)出が多かった。彼らの多くは、国家的な視野をもっていて、新しい国家建設に燃えている人達だったと言える。一般庶民はなかなか大学などに通えないから、築地大学に通うような学生は皆同タイプの人間だったようだ。
 その当時の田村の、信仰の程度がうかがえる話がある。学校内で、やはりガキ大将のような青年が、田村の肩をつかんで言った。「おい、君はヤソになったか!」。田村は、「イエス」と答えた。すると、青年は田村の頬を思いきり打ちつけた。田村は「貴様、何をするか!」と言って、彼に打ち返した。その青年は、「君はヤソではない」と言って行ってしまった・・・田村が右の頬を打たれても左の頬を向けるどころか、彼を打ち返したからである。しかし、田村はもともと乱暴者だったので、そんな仕打ちにおとなしくしているような人間に急に変わるはずがなかったのである(ちなみに、その青年も後日キリスト教徒になっている)。
 明治初期、時代はキリスト教にとってはたいへん厳しい時代だった。国家的にも、一般民衆の心情的にもである。ようやく文明開化したと言っても、最近まで尊皇攘夷の言葉が踊っていた時代であり、外国人やヤソ教の立場はたいへん苦労の伴うものだった。キリスト教徒になると言うことは革命的なことで、親に捨てられ、友人にも馬鹿にされる覚悟がなければ、洗礼など受けることのできない時代だった。田村直臣、16歳の事である。

受洗後から留学まで(16歳~24歳)

 さて、横浜に日本最初のプロテスタント教会が無宗派主義をもって横浜に設立せられたが、その2年後の明治7年には、東京において長老主義を掲げて第一長老教会が誕生した(東京においては、新栄教会についで2番目)。しかしながら、明治初期にして、既に無宗派主義と、宗派主義が小競り合いを始めていたと言う。しかし、それは深い神学知識に裏打ちされた信念があったからではない。築地学校の学生にしても、大多数は田村曰く"青二才"だったから、深い神学論争などまったくもってあり得なかった。洗礼を受けた田村直臣にしても同様で、築地大学のカローザス教師が長老主義が聖書の語る教会政治と固く信じていたので、その感化を受けたに過ぎなかった。田村自身が述べているが、もし彼が横浜に居たならば、受け売りで無宗派をそのまま受け入れていたかもしれない。逆に、植村正久や井深梶之が築地にいたならば、長老主義であったに違いないとも言っている。要は、宗派、無宗派と言っても、多くはその程度のレベルだった(もちろん、宣教師は各派の伝道局から送られていたから確固たる信念を持っていた)。新島襄のように、アメリカへ留学し、確固たる組合主義に深い信念をもっていた人は、珍しかったのである。
 当時、教会の信者が幼稚だったのは無理も無い。翻訳された聖書も無く、歌う賛美歌も滑稽千番。宣教師の説教も、日本語か英語か分からない朗読説教。聖書の言葉の訳語も、不十分。イエスの名を"ヤソ"と呼ぶか"エス"と呼ぶか、ホーリースピリッツも"聖霊"か"聖気"かで、議論が決着を見ていなかった時代のことであるから、教会内の信徒が幼稚なのも無理はなかったのである。そんな中で、盛大に最初のクリスマス祝会が開かれた。プログラムは幼稚であったが、なにしろ初めてだったので信者はたいへん満足し、またその珍しさから東京市の名物となったようである。
 こうした中、田村が学んでいた築地大学は廃校となってしまった。カローザス宣教師は、明治初期の他の宣教師ヘボンや、フルベッキ、ブラウン、タムソン達のように君子然たる風采がなく、百姓丸出しの人だったと、田村は述べている。カローザスは、頭ごなしに人に強制させることのできない性格だったらしく、また後任の宣教師も大学事業を継承できるだけの人物に熟していなかったようで、不幸にも大学は短命に終わった。ただし、ここから第一長老教会が生まれ、政治界、教育界、実業界、そして伝道界へとそうそうたる人物を排出した。
 その時代は、まだまだ外国支配への反発が強く、教会内にも反ミッション(外国の伝道局)の立場があった。ミッションから金をもらいながら、日本人が実権を握るのは無理である、日本の教会は、日本人本意でなくてはならぬ、と言う意見があった。時は明治、自主独立の意気に燃えていた人も多い。結果として第一長老教会から18名の者が離脱、日本独立長老教会を旗揚げした。明治9年のことである。田村も、その一人であった(田村は、このミッションに頼らない独立教会を、ずっと誇りに思っていたらしい)。
 さて、明治10年になると、日本基督一致教会が生まれる。横浜の海岸教会や、横浜や東京の長老教会、スコットランド・ミッションに関係ある両国教会の一派によって設立せられた。ちなみに、田村のいた独立教会も、政治と信仰が一致していると言う事で、2年後一致教会に加わっている。
 一致教会の成立と同時に、一致神学校が作られた。9月に築地において授業を開始した。25名の神学生の中には、田村もいた。田村は、神学生であったが、相変わらず分けのわからぬへ理屈屋で、芝居を見、煙草も吸い、酒も飲んだと言う(当時では、立派な不良の端くれである)。
 ところが、21歳の時に、按手礼を受け長老となった。この頃には、田村も変わり始めていて、按手を受けた日が生まれ変わった日だったと、述懐している。神の御助けにより、教会の使命を負い、命をキリストのため、教会のために献げた、と述べている。
 独立教会が一致教会に加入して間もなく、田村は按手礼を受け、銀座教会の牧師となった。明治12年12月24日、田村直臣22歳の事である(おそらく、当時の最年少牧師)。ちなみにこの日、按手を受けて、植村正久が下谷教会の牧師に、井深梶之助が麹町教会の牧師になった日でもあった。
 当時の伝道活動の一つとして、路傍演説と言うものがあった。今ではあまり見られないが、道端に立って道を行く人にキリストの教えを演説するのである。しかし、明治10年の頃はキリスト教に対する理解は無いわけで(だからこそ田村達は伝道するのだが)、伝道活動は命がけだった。路傍伝道において、石が飛んでくるのは当たり前の時代だった。よほどの物好きでなければ、立ち止まって聞くものもない。特に、冬は聴衆は皆無だったと言う。
 さて、この頃から田村は、J.S.ミルに影響されて"男女同権論"を主張していた。明治初期は、牧師ですら教会の壇上で女性蔑視のような発言をしてしまう時代だったから、田村のこのような意見は過激だった。田村が、女性の執事を選んだところ、中会から一致教会の憲法の違反者と咎められたこともあった。田村は、自由結婚論などを主張し、日本における伝統的因習を破壊したいと望んでいたようだ。
 彼の言動は、教会内に留まらなかった。もともと国家的な視野でキリスト教に足を踏み入れたせいか、いろんな所に口も出すし、実際行動したようだ。牧師になる前は、キリスト教書店の十字屋に支配人になったり、牧師になった後も英和学校(明治学院の前身)で英語を教えたり、キリスト教初の雑誌を刊行したりした。日本人の基督教青年会に尽力したのもこの頃である。日本のYMCAの誕生である。この時、設立のため相談に集まったのは、田村のほか、小崎弘道、植村正久、井深梶之助らの、明治初期キリスト教の大立者達多数だった。ただし、そこでフルベッキ宣教師が演説の中で、「パッとすぐに始めてしまうが、長続きしないのが、日本の悪いところだ」と言うようことを言って、その存続を心配している(その心配通り、しばらくして日本初の基督教青年会はあまり活動しなくなった)。この他、明治初期には、宗派を問わずキリスト教の牧師達がよく集まって色々したようだ。キリスト教信徒の大親睦会があったり、日曜学校百年祭祝賀会があったりした。キリスト教は圧倒的マイノリティであったから、こうしたことが心情的に当然だったのかもしれない。
 さて、明治15年、田村は、フルベッキ宣教師と共に、信州へ伝道旅行に出かけた。あたかも、パウロとそれに従うテモテのようであった。22日間、フルベッキと寝食を共にし、信州各地で伝道した。汽車や車が、まだ充実していない時代だったので、碓氷峠などは歩いて越えた。田村は、この旅行で色々と大きな刺激を受けたようである。田村は、そもそも理屈屋で論理学や心理学ばかりに傾倒していたので、フルベッキが休息のたびに詩や小説を面白く解説してくれるので驚いたようだ。この後、詩や小説に興味を持つようになったのは、フルベッキ宣教師の賜物である。また田村は、フルベッキの肩書きなどには頼らないその態度に(フルベッキには、勲三等などの肩書きがあった)、いたく敬服し尊敬の念をもったようだ。
 田村直臣が感激をもって信州伝道から帰ってくると、教会では予想もしなかった大事件が起こっていた。田村が留守中に、彼自身が姦通罪で疑われたのだ。相手の婦人は元芸者で、悔い改めて教会員となった人である。彼女自身が、自白によって田村を訴えたのである。恩師すら、涙を流して田村に自白を迫った。しかし、田村にはまったく身に覚えのないことだったので、中会に訴えでた。中会は、審理を進行することを決定し、原告人を選定した。ところが、原告人がその婦人を調べると、「婦人の自白は、ある人の脅迫」によるものであった事が分かった。日本基督一致教会内部の、田村の事を心良く思わない者の悪質な嫌がらせと判明した。審理の中会はお流れとなり、ワデル宣教師が田村の教会において、彼の無罪を宣言した。事件自体は田村の無実を証明できたが、当の田村自身は教会を騒がした責任を重く思い、教会に牧師の辞表を提出して、涙をもって教会を去った。武士の子である田村、自決するような決心での辞職だった。田村直臣、24歳のことである。

アメリカへの留学と世界旅行(24歳~29歳)

 田村直臣は、牧師の職を辞してから、一大決心をして米国への留学を決意した。明治初期の留学者達は皆政府の費用で留学していたが、田村は自費での留学である。所有物を全部売り払い、東久世伯やツルー夫人、その他多くの人から餞別ももらい、旅行の支度に2ヶ月を要して、8月初旬に日本を出発。ツルー夫人より、米国シラキュース市のソルバル博士への紹介状などを胸に、船に乗り込み米国へ向かった。たった5人の船客のうち、カローザス教師と同船となったのは幸運だった。
 船は、無事サンフランシスコへ着き、そこから大陸横断鉄道に120ドル払い、10日間の食料を携えて移民車両に乗り込み、無事にニューヨークへ着いた。ニューヨークで、田村は長老教会伝道局で大歓迎を受けると思っていたが、伝道局の幹事長ラウリー博士は「日本に帰れ!」と言う冷酷な態度だった(後で分かったことだが、ラウリー博士が過去数多くの中国人を米国へ連れ帰り神学校で学ばせたのにも関わらず、学を修めると皆金を稼ぐ事業の方へと行ってしまった。ラウリーは、中国人に愛想がつき始めており、田村もそうした人間の同類だと思ったとの事)。
 失望のどん底の田村は、その夜米国へ来て、初めて月を見て泣いたと言う。所持金は、残り5ドル50セント。翌日、田村はツルー夫人の紹介状をもって、シラキュース市へ行くためニューヨーク市を汽車で発った。汽車代を払うと、残金はわずか75セントだった。シラキュースのソルバル夫妻は、ツルー夫人から連絡を受けていて、田村が直接ここへ来ると思っていたので、なかなか到着しない田村をとても心配して待っていた。田村が到着すると、夫妻は歓迎を持って向かい入れた。ニューヨークでの扱いとは大違いだった。ソルバル博士は、田村のオーバーン神学校への入学の準備をしていた。また、田村は、初めて米国のキリスト者家庭に宿をもうけた(この時に、田村は日本にクリスチャン・ホームを作りたいという決心を起こしたと言う)。
 さて、オーバーン神学校は、恩師フルベッキ宣教師が卒業した神学校であった。彼は、この神学校で勉学を重ねた。神学については、築地である程度学んでいたので他の学生より優位だった。しかし英語ですらなんとかこなしている程度だったから、ヘブライ語とギリシャ語には閉口したようだ(ヘブル語やギリシャ語の日本語辞書は当然なかった)が、後ろから2番目の成績で卒業することができた。
 しかし、田村がそこで得た収穫は、勉学の実だけではなかった。当時は、日本人(しかもキリスト教徒の)がまだまだ珍しい時代だったから、あちこちに演説で呼ばれた。最初は無報酬で引き受けていたが、その後報酬を得て演説に行くようになった。時には4日続けて演説旅行に行くこともあり、金銭には困らなくなり、かなりの蓄えもできた。彼は神学校の夏期休暇(4ヶ月もあった)には、毎年あちこちの州へ旅行に出掛けた。明治17年には、北西部の州には残らず足を踏み入れただけでなく、カナダも旅行した。それらの都市で、様々な大説教者の説教を聴く機会に恵まれた。明治19年には、南部の州も歩き、北部と南部の違いを肌で味わった。これらは、すべて演説で得た金でまかなった。当時のアメリカ人でも、おそらく田村ほどアメリカ中を旅行した者は稀だったろう。
 彼は、神学校を卒業した後、プリンストン神学校に入り、同時にプリンストン大学の心理学科に入学した(同じプリンストンと言う名前は冠しているが、神学校と大学は関係ない)。プリンストン大学の総長はマッコーシ博士で、田村は博士の心理学の本を日本にいた時から読んでいた。田村は、博士の弟子となり、博士もよく田村に対して親切にもてなした。そして、田村はプリンストン大学でMA(マスター・オブ・アーツ)の学位を得た。当時の日本人にとっては、まだまだ得がたい学位であった。
 いよいよアメリカを去る日を迎えた田村直臣だが、蓄えた金を使って世界中を見てから日本へ帰国することに決めた。アイルランドやイングランド、ヨーロッパの各都市や、アフリカや地中海沿岸の国々へも寄った。明治の初期に、日本人キリスト者でパレスチナの地を踏んだのは自分が初めてではないか、と述懐している。最終的に、インドを横切ってコロンボで中国行きの汽船に乗った。この船で、田村は政友会の総裁である高橋是清と出会い、船旅を共にしている。田村は4年をアメリカで過ごし、欧州、アフリカ、インドの旅行に5ヶ月を費やして、遂に日本に帰国した。

帰国から「日本の花嫁」事件まで(29歳~35歳)

 田村がアメリカへ留学している間、キリスト教会も様変わりしていた。田村が旅立つ明治15年には、全国の教会の数は93個、信徒数は4,367人しかいなかった。しかし、明治20年に帰国した時には、教会の数は193個、信者数は1万3千人にも増えていた。明治16年に日本初のリバイバルが起き、正にキリスト教が破竹の勢いで伸びていた時代である。キリスト教は追い風に乗っていたが、それは政治家がキリスト教を利用して、外国の歓心を買い、諸外国と対等の条約を結ぼうとしたためである。言わば、国家は打算的・功利的にキリスト教を認めたに過ぎないのであったが、キリスト教は一時の流行物となった。外国のキリスト教各派は、こぞって日本に伝道者を送り活動を開始した。また、各地にキリスト教主義の男女学校が、次々に開校した。東京では、白金に明治学院が、青山に青山学院が、築地に立教大学が敷地を移し居を構えた。仙台には、同志社の分校ができた。新島襄は、同志社を大学にしようとしていた。メソジスト派のイビー博士は、キリスト教大学の設立を主張していた。大阪には桃山学院、長崎に東山学院、神戸に関西学院、東京に東洋英和学校などなどが設立されていった。その他、キリスト教主義の幼稚園や女学校も続々と設立されていった。また、様々な社会事業も起こされたていった。キリスト教的な日刊新聞も発行された。
 新約聖書の翻訳は明治13年に完成していたが、21年には旧約聖書の翻訳も完了した。こうして、日本人が日本語で聖書全部を読む環境が整った。逆に言うと、それまで日本のキリスト教徒はろくに聖書も読むこともできなかった分けで、教会の数や信徒数こそ増えたとは言え、非常に未成熟な信徒が多かったのは否定できない・・・。
 田村は、このような時代、明治19年にに日本へ帰国し、20年には再び数寄屋橋教会の牧師となった。MA取得者としては甚だ薄給であったが、牧師職を快諾した。彼がまず手を着けたのが、大教会堂の建築であった。三階建ての立派な教会が建てられた。東京の大学生の多くが、数寄屋橋教会に籍を置いていた。
 田村は牧会の傍ら、他の事業に手を出した。"日本伝道学校"と自営館"の二つの教育事業であった。前者は伝道者育成のため、後者は苦学生のために仕事を与えるためであった。また文学事業にも勤しみ、聖書辞典(※コンコルダンス)、四福音書注解、創世記注解などを世に出した。また、キリスト教の月刊誌、児童用の週刊の雑誌などにも労を採った。明治22年には、第一回夏期学校の講師も勤めている。明治13年に彼らが設立に参加した日本のキリスト教青年会は、再び活動を開始した。委員の中の木村雄二氏が総責任を負い、銀座に家屋を借り受け、YMCA(基督教青年会)の横看板を掲げた(YMCAの功労者の木村達の写真が、YMCA内に無いのを、田村は残念がっている)。
 彼は、田村と同じくアメリカへ留学して帰国した、
峰尾と結婚した。田村は、男女同権論を早くから主張していたので、自由結婚をして、クリスチャン・ホームを作るのが希望だったのだが、その夢がかなった。順調に子供も与えられ、最終的に7人の子に恵まれ(残念ながら一人は早くに世を去る)、順風満帆な人生と生活であった。この頃は、ちょうど日本の欧化主義の絶頂期にあり、アメリカ帰りの田村達は非常に歓迎されていた。

 ところが、明治23、4年頃から風向きが変わる。社会が、日本主義へと転じたのである。田村は、日本文化の破壊者と言う世人から反対される立場となった。今で言えば、「このアメリカかぶれが!」と言ったところである。またこの頃、数寄屋橋教会は分裂と言う悲しみを経験した。田村牧師に対して、二派に分かれてしまったのだ。反対者の表向きの意見は、牧師は社会事業に手を出さず牧会に専念すべしと言うもっともな意見だった。しかし、実際は個人的な田村直臣その人への不満であった。いわゆる"アメリカかぶれ"への嫌悪感もあったかもしれないが、主たる理由は彼が長老派の代表格であったことかもしれない。しかし、前にも触れたようにキリスト教に対する一般信徒の知識はまだ甚だ成熟していなかったので、神学的論争が背景にあったと言うよりは、感情論的な部分の方が大きかったようにも思う。数寄屋橋教会の有力な(金持ちの)会員達が脱会し、結局その会員達は、植村正久の派の人達と牛込に市ヶ谷教会を作った。田村は教会員と牧師の関係は、いつの世も難しいと語る。ただ一つ言えるのは、彼は金持ちの信徒を奪われたことはあっても、貧乏な信徒は一人も取られた事が無いのを誇りにしている。笑い話のようだが、当時の教会は貧乏な信徒を軽んずるところがあったようである。
 日本が日本主義化に転じる頃と時を同じくして、外国から新神学を持って新宗派が東京へ流れ込んで来た。新神学は、「聖書には誤りが多く、信を置くに足らない」、「イエス・キリストは、単に人間であり神ではない」、「キリストの復活は、精神的なものであって肉体の復活ではない」、「キリスト教の救いは、倫理的なものであって、贖罪的なものではない」と教え、今まで教えられていた保守的な信仰を否定した。未成熟な信徒の多かったキリスト教の教会は、この新神学により相当の痛手を受けた。牧師の職を捨てて政治家になったり、中には株の相場師になる者さえいた。この事において、田村は訓練されていない信徒は烏合の衆のごときなのを目の当たりにし、いかに感情的側面だけの宗教がもろくて危険かを悟った。
 また、田村が日本に帰国した頃、組合派教会と日本基督一致教会の合同の話が持ち上がっていた。明治初期の合同話しは流れてしまったが、この二回目の合同話しには一致教会は並々ならぬ熱意を示していた。アメリカで各宗派の実情をよく見ていた田村は、早くからこの合同が無理であることを見抜いて、反対していた。主義や制度の違う教会の合同は、必ず破綻すると確信していた。田村の予想通り、この合同話しは組合教会側から正式に断りがあって破綻となった。この時の一致教会の植村正久、押川方義、井深梶之助達の落胆振りと言うか、恨み節は甚だ大きかったようで、日本基督一致教会は、その後"日本基督教会"と名称を改める。これは、組合派教会に対する当て擦りの意味もあり、こっちこそが"日本の正統なキリスト教会"だと言う意味合いが含まれていたと、田村は述懐する。この名称改名に関しては反対する者も多くいたが、横浜教会の流れを組む人々の力が強かったので、名称変更は受け入れられた。名称だけでなく、信条や教会憲法も改正された。田村その人は、合同に反対していたので、完全に横浜党派の者から敵対視されることとなった。
 ちょうどその頃、教育勅語が発布された。明治23年のことである。この年には、組合派の新島襄が亡くなった。第一高等学校の内村鑑三は、天皇の写真に礼拝をしないと言うことで騒動が起こった。押川方義は、キリスト教の教師であるにも関わらず、「アメリカ人に靴を磨かせて、甚だ心地よかった」などと壇上から叫び、日本主義を吹聴し始めた。キリスト教にとって、険しい時代が到来した。先ほど述べた田村の牧会する数寄屋橋教会が分裂したのも、ちょうどこの頃だった。
 「日本の花嫁事件」が起こったのは、そんな背景の時代である。明治22年に、「米国の婦人」を出版した時は批判の声はまったくなく、欧化主義の真っ只中の日本にあって返って歓迎された。「米国の婦人」は、アメリカの女性と日本の女性の違い、また女性を取り巻く文化や社会の違いを、言文一致体で面白おかしく書いた本だった。
 ところが、その頃から反欧化主義の声が次第に大きくなっていって、「日本の花嫁」の出版は騒動の原因となって行く。「日本の花嫁」は、「米国の婦人」と同じ話しの材料も使った姉妹本であり、かつ日本の風習、文化と言うものをより詳しく述べた内容になっていた(内容については、「米国の婦人」や「日本の花嫁」の概略を記したページをご覧いただきたい)。彼がこの本を出版したのは、「自営館」の運営資金を獲得するためであった。その後、日本でも日本語版の「日本の花嫁」を出版するため、印刷と製本を完了していた。当時の出版法に従い、その本を内務省に提出したところ、なんと発禁処分に処せられてしまった。この前後に、「日本の花嫁」と"田村直臣"に関する様々な文章が、全国の新聞や雑誌に続々と載った。主には、この本が日本を卑しめるけしからん本である、と言った類のものだった。それらの記事がまた批判の声を増幅させ、田村に対する批判の声はとても大きくなった。日本基督教会の東京第一中会においても、「日本の花嫁」調査委員会ができ、著者に対する糾弾が始まった。「婦人矯風会」などは、田村の本を擁護するどころか絶版をせまった。男女同権論で活動していた田村は、「婦人強風会」の活動に同情していたが、これで田村夫妻はその会に近づけなくなった。田村にとって不幸だったのは、これらの大半の批判が彼の著書を読んだことの無い人々によってなされていることだった。日本語訳は発禁処分により世に出回っていず、外国で出版された英語版を読んでいる人は稀で(もとより一般の国民は英語を読むことすら無理だった)、批判は主に新聞の記事などを元にされていたと言う点である。多くは、ステレオタイプの批判だった(田村は心理学を学んでいたので、その群集心理をしっかり理解していた)。日本基督教会の批判者にしても、大同小異である。そんな状況だったので、田村を訴えるにも色々と苦心したようである。
 田村は、中会において「同胞讒誣罪(どうほうざんぶざい)」と言う罪名で訴えられた。告訴人は、井深梶之助、山本秀煌、熊野雄七の三名であった。議場では5対5で二つに割れ、最終的に議長表決で6対5で田村は有罪となった。田村は、これを不服として大会に上訴した。日本基督教会の条例によれば、牧師が異端や教師としてあるべからず罪を犯した時は制裁を受けるのは当然だが、今回のように日本の風俗習慣に自分の意見を発表したことに関して教会が裁判で取り扱うと言うのはまったく道理が通らない、と田村は言う。学問上の意見等を教会が裁くと言うのは、確かに教会の規則や制裁の権限から大きく外れていると言える。在日宣教師会も、この糾弾を不当とする声明を出した。
 大会においては、さすがに同胞讒誣罪で裁くのは無理であったようで、大会は、中会の「讒誣罪」は不当との判決を下した。上告は田村の勝利に終わった。ところが、別の罪で訴えられた。翌日、なんと中会の判決を変更し、押川方義が「田村の教職を剥奪すべき」との動議を提出した。日本の恥を海外にさらして、つまり国を売って金を儲けた者には、教職の資格なしとする訴えであった。「売国罪」で、彼は教職を剥奪されることとなった。2名の宣教師を除き、バラ、フルベッキ、ワデルなどの宣教師達は大反対し、「宗教法廷の殺人」とまで叫んだ。田村は、これを不服として日本基督教会を離脱した。
 一般の新聞の意見の大勢としては、田村の本の内容については正当化することはできないが、日本基督教会が彼の教職を奪ったのについては反対である旨を概ね公言していた。日本の言論界はかくも狭量であるのか、と。またこの後も、他教派の教会は、相変わらず田村を牧師として認めていた。
 田村が裁かれた原因は、いくつか挙げられる。第一に、社会が欧化主義反動により日本主義の時代に突入していて、キリスト教に対する世間からの風当たりが強くなっており、田村を断罪することでキリスト教に対する批判を弱めたかったのだろう。また、教職者の中にも、世間の日本主義に迎合する者が少なからずいたようだ。第二に、田村が組合派教会との合同話しに反対していたため、教会内の横浜教会の流れを組む主流派から敵対視されていた。長老派の筆頭株と思われていた田村は、締め出されようとしていた。第三に、田村の"自営館"は自主独立運営をしていて、"明治学院"の敵とまで公言されることがあった(田村は婉曲に言っているが、はっきり言ってしまえば、宣教師の中にはミッションから離れて自給自立している田村を嫌う人もいたと言うことである)。実際、中会で田村を訴えた三人・・・つまり井深と山本と熊野だが・・・井深は明治学院総理で、山本も熊野も同学院の理事だったから、これは間違いのない事実だと言って良いだろう。
 後日談として、田村を訴え有罪に賛成した人達のその後を、田村は語る。当時大会の議長だった藤生金六は、後に教職を去り、事業にも失敗し、田村の元に援助を求めに来た。彼を訴えた押川方義は、間もなく教職を去り、鉱山師となってしまった。前川太郎は、その後田村のところに活版印刷を買いに来た(その時、大会での内幕を前川は田村に語った)。ある牧師は、駆け落ちをしてしまった。一方、教職を剥奪された田村は、生涯牧師職をまっとうするのである。

足尾鉱毒事件から日曜学校協会勇退まで(36歳~55歳)

 田村は日本基督教会の教職を剥奪された後も、彼自身の事業を続けていた。巣鴨に3,300坪の格安の土地を手に入れ、白金の地にあった自営館を巣鴨の地に移した。明治学院から離れた方が良いだろうと言う理由と、巣鴨なら帝大や早大に近いと言うのが理由でもあった。苦学生のための自営館であったが、田村直臣はこの運営のために辛酸を舐めた。運営費は相当かかって、無一文に成って高利貸しからお金を借りたこともある。田村の所有物は、何度も質屋に入れられた。フルベッキ教師やツルー夫人等の外国の人々は、田村のことを気遣い、個人的にお金を貸してくれることもあった。自営館で田村は金儲けをしているに違いないと考えている者もいたようだが、実情は正に火の車だった。ミッションに頼らない自給独立は、これほどまでに困難を極めた。事業の破産寸前に、田村はアメリカへ渡った。親友である、スタンダード石油の重役バブコック氏に相談し、自営館の大改革を条件に、事業の負債を全額負ってくれたのである。大改革とは、苦学生に働かせる事を止め、勉学に専念させること、また、学力優秀なる者のみを採ること、などであった。この際に、自営館を田村塾と名称変更した。
 その他、アメリカで個人や教会から多数の寄付をもって田村は帰国した。こうして自営館存続が可能となった。後に自営館から、帝大の教授、新聞記者、実業家、神学校教授、書家、音楽家、牧師、医師、銀行員らが輩出されていく。後の大音楽家、山田耕筰もその一人である。その後、国が裕福になり、苦学生の数が減るまで、自営館(田村塾)の事業は続けられた。
 それと時を同じくして、田村は足尾鉱毒事件と関わる。明治30年頃、東京は田中正造氏の働きにより鉱毒事件の火の手が上がっていた。この頃、田村の元を二人の人物が訪れる。一人は、先の東京第一中会で田村を有罪にした張本人の中会議長の石原保太郎、もう一人は「日本の花嫁」の絶版を迫った婦人矯風会の役員、潮田ちせ子夫人であった。二人は、ぜひ足尾の鉱毒地に足を踏み入れ、その悲惨な実情を視察して来るよう懇願した。渡良瀬川流域は、足尾銅山から流れ落ちた鉱毒により、魚は住めず、川岸の植物も硫黄に襲われており、村落では病人となる者は多数、自殺する者も少なくない、と言うことだった。田中正造達は、身を犠牲にして、被害者のために奔走していた。田中正造を、毎日新聞社社長の島田三郎が右腕となって助けていた。田村を訪れた潮田夫人も、田中氏の右腕となって働いていたのである。夫人は、現地を視察して青年会館にて演説することを田村に依頼した。田村が鉱毒事件の舞台に立つ序幕であった。
 田村は、青年会館での大演説の後に、計画を練った。鉱毒地視察隊を作り、多数の人にその惨状を見せ、世論に訴えると言う計画である。明治30年7月5日、大勢の者が視察に出発した。その中には、帝大の学生も多数加わっていた。現地の人々は、一行を大歓迎した。当日の記事は毎日新聞の記事となって、社会の大問題となった。田村は、鉱毒事件に奔走する人々と共に、演説に呼び出された。関西にも行って、演説した。被災地へ送られる多数の物品が集められた。田村は、まず鉱毒地の人々の現在の悲惨を救済することが第一の急務と考えていた。田村の教会堂は、東京に陳情に訪れた被災地民の宿泊所に提供されたりもした。
 しかし、田村は現在の活動が一時的なものであると悟り、完全に解決するためには、銅山からの水そのものが問題であると考えた。足尾銅山の事業を中止させるか、村民を他に移すしか道は無いと考えた。まず、足尾の水がどの程度の毒の汚染状態なのかを、研究する必要があった。同志の者達は、東京市民鉱毒調査隊を組織し、その方面の専門家に依頼し、研究を進めた。その会の決議により、田村が足尾銅山に登り、鉱毒水を視察する任を与えられた。田村は、旧知の仲である本多康一を同伴者として快諾させた。それは田村と違って、本多が君子然としていて冷静な人だったからだ。明治30年10月上旬、一行は足尾銅山に入った。田村が驚いたことに、外国と比べても、足尾銅山の設備は規模の大きい物だった。脱硫の設備もあり、土砂止めや砂防工事、山林の植樹も始められていた。銅山の事務所で、田村は思いがけない人物に会った。応対に出てきた社員は小田川全之で、彼はキリスト教徒で新栄教会で旧知の仲だった。田村達は、彼から銅山事業の説明を受けた。会社は鉱毒の恐ろしさを知り、政府の監督の下、毒水を清めるための設備を構築し、今では川に流す水は清水なのだと現地の設備を見せながら説明し、小川氏はみずからその処理された水を飲んで見せた。水が汚染されていたのは、すでに過去の話だった。小川は、涙を流しながら、銅山事業の困難なこと、鉱毒のために渡良瀬川流域の人々に害を与え苦しめたこと、被害地に対して会社が払った金額などについてすべて語ったと言う。田村は下山し、東京へ帰り、東京鉱毒調査委員会に報告をした。鉱毒事件には、初めは被害者に対する同情の念で関わったのだが、種々の政党間の多様な問題が含まれていることも知り、この政党色を帯びた事件から離れることを決めて鉱毒事件から足を洗った。田村が後日知ったことだが、内村鑑三や松村介石も、田村と同様に鉱毒事件に関与し、その後事件との関係を絶ったと言うことだった。視察の報告後、鉱毒事件は社会から忘れられていった。

 日本基督教会の教職剥奪以来、足尾鉱毒事件以外は、田村は巣鴨の地で忘れられた人になっていた。その頃、福音同盟会は、20世紀初年を期して大学伝道を行うことを決め、10名の実行委員に託した。ところが、一向に事は進まない。委員は、巣鴨の地の田村を呼び出し、運動の組織の草案作成を依頼した。こうして、再び田村は表舞台へと担ぎ出された。かくして、明治34年、20世紀大学伝道は開始された。この大学伝道は成功し、悔い改めた者や求道者の数は東京だけで五千名を超えた。明治16年に起こった第一回目の大リヴァイバルに続く、第二回目の大リヴァイバルとも考えられた。日本主義時代の反動に耐え、キリスト教の教会は元気を回復しつつあった。海老名弾三(※彼は後に福音同盟会から放逐されてしまうが・・・)や植村正久は三位一体論で新聞紙上を賑わせ、アメリカ青年会幹事のモットは東京に来て福音主義を宣伝した。各教派で、自給独立教会が増加したのもこの時代である。
 20世紀大学伝道を終えた田村の心情に、一大変化が訪れていた。キリスト教信仰ならびにキリスト教の信者は、一夜でできるものではないと言うことを常々感じていた。ある時は、大勢の人が信じたと言ってキリスト教を受け入れるが、しばらくすると去ってしまう。実際、50人、80人と信者が増加したと言う報告を受けても、その教会が増築せられたと言う話しは聞かない・・・。彼は心理学を学んでいたから、人の心理の移ろい易さを理解していた。一時の感情や感動だけでは、深い信仰は得難い。真に教会の成長のためには、幼児の頃からの教育が非常に大切であることを痛感する。その後、田村は残りの生涯を児童の教育に献げるのである。しかし、教会堂は大人のものであり、礼拝のプログラムも大人向けだった。幼児、小児、青年、大人、それぞれ別の礼拝を持っている教会が、果たしてあるか?田村は、ただちに改革を開始した。まず、教会堂も児童本意に改築した。幼稚科室と八室を造り、椅子も子供用のものを作り、黒板を設け、オルガンの他に、ピアノも備え付けた。日曜学校は、単なる教会の付属物ではなくなった。当時、大人のために大金を出す者はいたが、幼児のために大金を投ずる者は皆無だった時代に、このような改革を行ったのだ。
 田村は児童文学も色々と世に出していたが、例えば「幼年教育」と言う雑誌は色々な人が買い手となってくれた。ライオン歯磨き店主の小林富次郎氏などは、地方発送用のライオン歯磨の箱の中に必ずその冊子を入れてくれたと言う。「幼年教育」は、百巻まで続いた。
 明治39年に、有志の者が集って、日本日曜学校協会を組織した。会長、幹事が選ばれ、協会の憲法を印刷した。会長は田村だった。翌年、世界日曜学校協会からブラウン博士が日本に使わされ、日本福音同盟会の代表を招き相談した。田村は、あくまで日本の日曜学校協会は、日本人本位たるべきだと主張した。この主張が認められ、日本日曜学校協会は、日本人の手で運営されることとなった。ハインヅ(世界日曜学校協会のために百万ドルを残した人)の名をもって、毎年1000ドルを協会に寄付する約束も結ばれた。最初の幹事は、新井正平、鵜飼猛、森田大喜の三名だった。
 話しは再び明治39年に戻るが、5月10日に、日本日曜学校教会が設立された後、芝教会において第一回日本日曜学校大会が開かれた時に、田村は文学委員長となった。彼は6年間、この事業のため尽くした。毎週、児童のための「子供の友」、家庭用の「ホーム」を発行した。また13年継続のクラス毎の日曜学校教科書も編集した。田村自身認めているように、この教科書はまだま十分な物ではなかったが、協会設立直後の大事業であった。
 田村は、明治43年に第六回世界日曜学校大会に日本代表として出席した。その後、ロンドンのエジンバラ市で世界宣教大会に行くため、三百名の宣教師達と共にイギリス行きの船に乗った。この際、米国の親友に一等船室を取ってもらったのに、船員は田村の部屋を勝手に二等船室に移して、彼の一等船室を白人乗客に譲った。これは、宣教師団体の団長の指示だったと言うので、田村と宣教団長はもめた。ここで出てきたのは、再び冷静なる本多康一(足尾鉱毒事件参照)で田村を鎮め、本多と千葉勇五郎の船室に連れて行った。船内で、千葉、本多、田村の三名は、それぞれ講演したが、田村の講演が騒動を起こした。「例え立派な宣教師が何人来ようとも、日本人の立派な教師が出てこないと、日本伝道は望みが無い」と言う内容の部分であった。メソジスト教会のある宣教師が「君はその(洗礼を授けた)宣教師に対して恩義を感じないのか!」と詰め寄ったが、田村は「私は宣教師から受けた恩は一生忘れないが、それと今回の独立論は関係ないことだ」と応酬して、一大論戦となってしまった。船が港に着くと、一通の電報が田村に手渡された。田村は、どの派の外国伝道局とも関係ないから、宣教師大会に出席する権利はないと言うものだった。井深梶之助も、本多も、千葉も、それぞれの教派を代表して来ていた。田村は、日本基督教会の教職を剥奪された身だった。田村は彼らを見送って、日本に帰った。
 さて、話しは日本の日曜学校の話に、再び戻る。メソジスト教会のスペンサー宣教師の一派が、田村の教科書を攻撃してきた。田村は応戦した。しかし、ついに日本日曜学校協会に宣教師の幹事を置くこととなり、日本人本位の協会維持の初志は崩れた。もちろん、宣教師の幹事は日曜学校協会本部が選ぶのではなく、宣教師達が選ぶのである。協会の自主独立運営は、不可能になった。田村は協会の職を辞し、勇退した。先のブラウン博士は、日本の日曜学校協会が田村を失ったことを、心から残念がる書状を送った。また、先に述べたハインヅ氏が世界日曜学校協会のために残してくれた百万ドルもの大金の恩恵に、日本日曜学校協会は浴することができなくなってしまったのも痛手である。
 話しはそれだけに留まらず、田村の苦心して編纂したクラス毎の13年連続の日曜学校の教科書は、不適当とされて別の教科書を編纂することとなった。これには、田村も心底怒ったようだ。彼の教科書は確かに十分ではなかったが、これからそう言う部分を直していくと言う大会の議決もあったからだ。そして、新しく出てきた教科書に二度びっくり。教案と教科書の区別もできない者が編纂したことは、明らかだったからだ。また、外国の本の翻訳であることも明らかで、その翻訳があまりに酷かったからである。また、聖書のストーリーにも誤りがあった。これが、新しい教科書とは・・・田村は、心から残念がった。

田村僕の後半生から晩年まで(56歳~76歳)

 田村の牧会していた数寄屋橋教会は、巣鴨へ移ることとなった。34年間も住み慣れた地を離れる理由は、教会堂の破損が激しかったのと、有楽座と言う芝居小屋が裏に出来てうるさくなったのと、隣には西洋料理屋が出来て匂いが漂ってくるなどの弊害が出てきたためだ。銀座はそもそも商業地であるので、将来もっと繁栄して騒がしくなると、田村は考えていた(実際その通りとなった)。教会をこの地に維持していくのは不適当と言う判断を下して、住宅地への移転を決定したのである。日本の商業は日の出の勢いだったので、銀座にある教会堂は高い値で売れた。もちろん反対の声もあったが、大英断を下した。巣鴨の地には、すでに土地も教会堂もあった。
 田村は、新しい教会を建築するに当たって、仏教や神道の建築物のような独特の教会を建てたいと言う希望を持っていた。当時の教会堂はすべて外国の教会堂の模倣だったので、ぜひ純日本風のものを建てたかったのである。そして遂に新教会堂は完成した。大正8年、田村は巣鴨教会の牧師に就任した。
 また新教会堂は、(数寄屋橋では中途半端だった)児童本位の建築を目指していた。数寄屋橋は敷地が狭いので、幼児用の庭もなかったのだ。巣鴨の地には広い土地があり、田村の理想とする幼稚園設立が可能となった。30年間経営した自営館(田村塾)を廃して、大正幼稚園を起こし、自営館に使っていた金と能力をこれに充てた。もちろん、初めは設備も不十分で経験も無かったが、その後かなりの進歩をし、地域住民に認められるところとなった。教育法も改良を加えつ続けて、悪いところは改め、設備も良い物にしていった。この幼稚園を出たものは、既に日曜学校の小学科、中学科、大学科ときちんと進んでいる。巣鴨教会は、正に児童を本位とする教会となっていった。

 田村は、60歳の時には、田村塾(自営館)の塾生から中国旅行をプレゼントされた。61歳の時には、ベルサイユ講和会議に出席する原敬首相らの出発に合わせて、欧州視察旅行に発っている。この時の思い出などは、後に「わが見たる原首相の面影」と言う本で詳しく書いている。その他、キリスト教の書物、児童や女性の人権に関する書物など、様々な本を精力的に書いた。
 彼は、主義主張を超えて内村鑑三や松村介石と三村会を作って親交を結んでいた。集まっては、食べ、飲み、語り、笑ったと言う。
 植村正久が亡くなった翌年、68歳の時に、田村は日本基督教会に復帰した。
 70歳の時に、洋画界の巨匠、岸田劉生(田村は彼の若き日に世話をし、また画家になることを勧めた)によって、「田村直臣七十歳記念之像」が描かれている(これは現在東京国立近代美術館に所蔵されている)。
 昭和9年1月7日、脳溢血のため自宅にて死亡。巣鴨教会の葬儀の際、オルガン奏者を日本音楽界の巨匠、山田耕筰(彼は自営館の塾生だった)が担当した。納骨式は2月11日、東京府立染井霊園にて行われた。田村直臣の波乱の人生は、こうして幕を閉じた。


(2004年 4月25日記載)


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