キリスト教の信条とその歴史
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12.日本における信条の歴史4
日本のプロテスタント教会史4/昭和編/日本基督教団
1930年代は、デモクラシーからファシズムヘの転換期にあたっている。1929年の世界金融恐慌は、日本国内の経済にも重大な打撃を与え、国民生活は破綻した。農村や漁村生活は、惨状を極めた。無産者運動、共産主義運動も激化し、政府は治安維持法で取締り・弾圧を強化した。特高警察が全国に設置され、社会主義者が大量に検挙された。思想・言論の統制は厳しくなり、国民精神は非常時に即応したものに統合されていく。
対外戦争と侵略の方針は軍部を中心に強化され、政府も財界も国内の矛盾を海外進出によって打開する帝国主義路線を歩み、軍部と一体となって戦争遂行へ進んでいった。キリスト教会とキリスト者たちも、混乱を味わい、その本来の生命と証しを実らせることが著しく困難になっていく。
SCM(Student Christian Movement=キリスト者学生運動)
1930年代に、本格的な「社会的キリスト教」が発生する。
YMCAの学生に、社会的関心が増大。
⇒キリスト教が、社会と民衆に対し指導力を失っていることを問題にし、SCM運動が起こる。
目標=「預言者及び改革者の魂」を持って「搾取なき人類なる共同体」を形成する。
↓
SCMの消滅
原因〔①国家のプレッシャー増大、②教会内からのプレッシャー、③運動自体の遠心力〕
「教会的キリスト教」の理論
同志社大 中島 重 教授(理論的支柱を提供した一人)
社会学者、社会哲学者で、神学の伝統にこだわらない白由さでプロテスタント宗教を批判。神の賄罪愛を人が実践して、社会を愛による連帯に導くことによって、神の国が実現すると説く。
→ただしこれは神学としては粗野で未熟な面があり、教会の信仰を説得できなかった。
神の国運動
賀川豊彦の主唱によって、日本基督教連盟を母体として行われた組織的伝道(1930年から計5年)。その実践はたぐい稀な熱情をもってなされ、貧乏と社会悪への激しい憎悪、抑圧された者への同情と共感を行動に移した。
しかし組合運動が社会主義化し、賀川の解放理論に指導力を失う。
基督教連盟の社会信条(人権尊重、労働者の生活保障、軍備縮小など)も、国家の戦争政策、思想取締りが露骨になってくると有名無実化した。
日本的キリスト教
明治以来、キリスト教を日本の精神的伝統と関連させ、信仰の土着をはかる試みが行われてきた。特に1930年に入って、急速な軍国主義・国体明徴などの運動が起こり、キリスト教徒の意識の中でも日本精神とキリスト教の調整が行われた。
①日本古来の宗教思想とキリスト教を折衷するもの。
→天之御中主(アメノミナカヌシ)を800万神の主宰神と考え、キリスト教の神観と古神道を
同一宗教に帰そうとした(海老名弾正ら)。
⇒もはや、正統的信仰とは言えない混合宗教。
②キリスト教信仰は従来のまま保持しながら、キリスト者の国民的自覚を促し、西洋キリスト教国との戦いに
全面的に賛同するもの。
→日本のキリスト教こそキリスト教の宗教的発展を完成に導き、ピリオドをうつ使命を持っている。
日本のキリスト教徒の中から「国体」をわきまえ、神道の本質を理解する者が出るべきとした(比屋根安定)。
→キリスト者であるに先だって日本臣民であったのだから、臣民の「分」を全うすることは、神の創造秩序に
従うに等しい(藤原藤男) ・・・など。
⇒キリスト教が血肉化していない「敬虔主義」的傾向。
③キリスト教に種々の形態があり、ギリシャ型、ラテン型、アングロ・サクソン型と並び
「日本類型」を位置づけようとするもの。
「日本的キリスト教」の主張は、国家権力の強権をキリスト教に加えた結果生じてきたとは言えず、むしろ多分に「自発的」な「転身」としてこの主張が出てきた。
「陛下の臣民」たることに日本人としての自己同一性を求め、「安堵したい(=社会から疎外されたくない)」と求めた為だと推測される。またキリスト教は、天皇制に集約されてくる基層文化への批判が欠如していた。
1930年代の日本基督教会
1930年代は、"教会中心の建前"の中で平穏な信仰を守ることはもはや許されず、日基教会は、教会的安定を喪失する方向に急速に傾く。
この時代の日基教会の問題
①教会的な統率力、指導性の衰退
→日基の肥大化した組織と「無統制(内部的不統一)」。長老政治の空洞化により、結果として権力的統制の
方向へ向かう。
②信仰生活の弛緩
→「日基の側に卵と牛乳を持ってきたら、アイスクリームができる(*冷たい教会という意味)」と当時言われた程。
また日常的な戦争協力が、教会にも浸透。これがキリスト者の礼拝生活、祈祷生活に困惑と混乱を与えた。
(例=礼拝に「国民儀礼」が取り入れられる。神の「義」と国家の「正義」、「皇天」と「父なる神」の間の混乱による
苦悩は"個々のキリスト者"に負わせられ、信仰生活の活力を減退させた。
③牧会及び牧師像の限界
→教会を教会たらしめる基本的なわざとしての牧会が、確実な曲がり角に来た。
④時代認識についての自信喪失
→(無比判に是認したとまでは言わないが)教会はまぎれもなく、戦争とその国策への積極的な協力者となった。
⑤神学的視野の拡散、不統一 → 主にバルト神学をめぐって(詳細省略)。
⑥伝道方策のゆきづまり
→著しい伝道不振。キリスト教に対する社会全体の目が、険しくなった。
(1)農村伝道
⇒教勢低調打開の為、「農村伝道」に力を注ぐ。主要教派の伝道が都市の中間層に集中されていたが、
30年代は中間層には過酷な時代であり、その教会の基礎体力の脆弱を埋め、安定させる為農村伝道に
着眼。また、キリスト教が都市化思想化していることへの批判もあった。
(2)海外伝道
⇒満州、朝鮮での日本支配が拡大・安定するに従い、日基教会は(日本による統治にほとんど疑問も抱かず)
教会数を増やした。「新領土」の拡張は教会の活躍の舞台の拡大であり、無条件に歓迎した。
"海外伝道という大義名分"の一方、日本の植民地政策に従い、天皇の思し召しに応えようとした。
政治権力の宗教利用は露骨になり、自由・主体的伝道は喪失していった。
日本キリスト教団の成立
l941年6月 日本基督教団の成立
・第一の要因 = 日本基督教連盟が推進してきた諸教派合同運動。
・第二の要因 = 宗数団体法の成立による国家の強い働きかけ(※強制である)。
第一の要因(内的要因)
1923年11月 日本基督教連盟発足(以下連盟と略す)。
目的=「日本に於ける基督教諸団体の親和協同を計り、全世界の基督教会と一体の実を挙げること」。
1929年9月 「日本基督教諸派合同案」公表。
内容:名 称=日本合同基督教会
信 条=使徒信条を更に簡略にした四信条
政 治=「自治」を原則とした「立憲代議機関」を設置
合同案の内的動機
①諸外国での教派合同運動が日本にもその気運を伝える。
(カナダやインドでの、合同教会の成立など)。
②1928年春にエルサレムで開かれた第二回世界宣教会議が、伝道地における諸派会の協力一致を激励し、
エキュメニカル運動の意義が若い教会にむけて強調された。
③それらを受けて、伝道活動の面での実際的な協力がある程度実績をもたらし、諸教会に自信を与えた。
⇒しかしこれは、一層真実にキリストの教会とする方向は見失われ、包みえないものを包もうとする強引さが目立った。 結局どの立場も満足させないものとなった。
1930年 「日本基督教諸派合同修正案」(五大綱領)
*連盟に正式加入した日本聖公会との協議をふまえて、聖公会の教派的主張に耳を傾けよう
としてできた修正案。
⇒しかし、これも聖公会の重要な主張である歴史的主教制(使徒継承)については、5年間の協議でも折り合い
がつかず、結局合同運動から離脱(1936年)。
1935年11月 第13回連盟総会で合同問題の協議
*参加者75%が、連盟加入の全教会が合同することに賛成。
⇒現実的には、請教派の特性と主張を調停することは難しく、合同の論議は停滞。
連盟はなおも事態の打開のため、立案、信条、制度、財政の4委員会を設ける。
1936年11月 「合同に関する予備的申合せ」発表
⇒政治上の合同一致の困難を際立って印象づける内容。
1937年 第15回連盟総会にて「試案」
・教会制度としては、「自治」と「会議制」の二大原理。
しかし、自治の範囲も、会議制の拘束力も極めて不明瞭。
・合同教会の目的を福音宣の宣伝・神の国拡張とするも、教会の本質と使命を十分に把握したもの
とはいえない。信条との本質的な結びつきへの無理解。
・また「附則」での会議制はほとんど有名無実化し、「統理制」という権力的統制になっていく。
合同に関する日基教会の立場
教派存立に信仰上の意義があるとすれば、諸教派の合同にも信仰上の理由がなければならない-とする。日基教会は、合同運動の中で絶えず信仰的な基礎づけを求め、その立場から便宜的な論議や無原則な取引を牽制し続けた。この態度は、1930年代を通じて一貫している。
第二の要因(外的要因)
「宗教団体法」…この法律の施行が教会に及ぼした影響は、極めて大きい。
1898(明治32)年「宗教法案」提出から「宗教団体法」成立まで約40年、日本のキリスト教は、国家に対しておおむね従属的であったが、この法案については、例外的に強い抵抗を示した(この法案は、宗教の内容そのものに国家の意思が介入しようとするものであった)。
1898年 第一次「宗教法案」→ キリスト教界はほぼ一致して反対。
1927年 第二次「宗教法案」→ 日基教会は、この法案にも強く反対。
しかし、メソジストをはじめとしてキリスト教界の足並みが乱れる。
(法案自体は、貴族院審議後廃案)。
1929年 「宗教団体法」(宗教活動や信仰内容そのものの取締りに重点を置いた)
→ 前回以上に、キリスト教界の足並みが乱れる。連盟が態度保留(中立)し、
各派に任せる。メソジスト教会は、前回の連盟の反対運動を非難。
日基教会は今回も反対。
(1935年岡田内閣下で「宗教団体法案要綱」「宗数団体法草案」諮問。議会提出ならず)
⇒次第に日基教会も、積極的な反対論とならなくなっていく。また、「宗教制度調査会」(文部大臣の諮問機関)
の委員の富田満が「条件付き」賛成を表明(これが、キリスト教界全体を宗数団体法賛成へと導くきっかけとなる。
しかしそうなる背景には、もっと根本的な原因があった)。
宗教団体法成立の根本要因
①すでに見たように、当時の教会は伝道・牧会に行き詰っており教会は孤立化の方向をたどっていた(国際的にも)。
そうした状況を少しでも緩和する手段として、国家的認知を取り付けたかった。
②民衆の宗教意識の中で、「キリスト教邪宗観」が再び頭をもたげようとしていた。対外戦争という国家的な危機は、
国家との自然な同一化を阻害する要因を激しく排除する反応を呼び起こした(長期的な徹底的な臣民教育の結果)。
「宗教法案」の根本的な意図に迎合して、キリスト教への周囲の誤解を解消したかった。
③左翼運動や労働運動への弾圧は徹底した成果をおさめており、一般世論からの支援は期待できなくなっていた。
キリスト教徒は、孤立無援・無防備の戦いを強いられる可能性があった。この危険を予防しようという配慮が、
宗数団体法を支援する立場へと教会を追い込んだ。
1939年3月 第二次宗教団体法成立(37条より成る)4月8日公布
宗数団体法の主な内容=教団認可の為には、様々な事を詳細に報告しなければならない。
また教団は「統理者」を置く(関係当局の監督を受ける)。その統理者の就任にも、
文部大臣の認可を必要とする。また臣民としての義務に背く場合など、
最終的には団体の認可を取り消せる。
⇒各教派は、独自の認可をめざして準備を開始。
1939年4月11日 連盟が新たに諸教派選出の合同委員会の活動を開始、「第一回会合」を行なう。
1940年6月 文部省が教団の認可規準として教会数50、信徒数5,000人以上の方針を出す。
(これは連盟加入23教会中、7教派のみしか条件が当てはまらない)
⇒単独の認可を得られない小教派の合同が、急速に進められる。
1940年7月 憲兵隊による救世軍取り調べ事件(スパイ容疑)。
(軍や警察はかねてから、軍隊式の呼称や組織に反感を持っていた)。
→無実だが、文部省を通じて救世軍に対し強い行政措置が取られる。
・ロンドンの万国本営離脱。
・救世団と改称し、「国体の本義」にもとづき教義を改訂させる。
⇒この事件がキリスト教徒に与えた衝撃は極めて深刻であった。キリスト教界全体に危機感。
全教派合同による難局の打開こそ不可欠、という方向へ急速に向かう。
各派有志の非公式会合が次々開かれ、連盟も合同促進に奔走。
1940年9月2日 120名からなる協議会
*「教会的な合同一致路線」は放棄され、「状況即応だけを動機とした無原則な合同」へ移行した。
⇒各教派は、それぞれ合同に参加するための内部の体勢づくりに入った。歴史的経緯を異にし、
教義、信条、組織、職制、敬虔など、信仰生活のあらゆる点で、異質の伝統に立つ諸教派が一教団に
合同することは、不可能に近い難事であった。
1940年10月17日 「皇紀二千六百年奉祝全国基督数信徒大会」
「皇紀二千六百年」の奉祝行事は、皇国史観に彩られた国家的祝祭として、あらゆる機関、組織、人員を動員し、年間を通じ実施された。翌年の太平洋戦争へ向けての「国民精神総動員」の最終的な点検と総仕上げの祭典であった。
また、これを祝う「全国基督教信徒大会」におびただしい数のクリスチャンが参集した。青山学院校庭に用意された二万人分のベンチが満席になった。
(皇紀二千六百年奉祝全国基督数信徒大会/プログラム)
富田満の開会の辞
「国策の根本原理たる滅私奉公こそ『キリストの精神』だから、キリスト教徒は世人に先んじて滅私奉公の誠をいたすべき。」
(プログラム中略)
教会合同への決意を表明する「宣言」
(→言い逃れのすべがない、"神道の軍門に下った降伏文書"であった。天皇を現人神とする神道的イデオロギーに
覆われる。すでに見たように「皇国」と「神の国」の意識的なすり替えが行われた)。
1940年10月~41年3月末 (各教派選出の合同準備委員による)8回の総委員会開く。
⇒信仰告白の制定は不可能となる。単一組織で信条を持つ教会としての合同は無理となり、ブロック制(部制)
へと進む(34の教派が11のブロックヘ便宜的に分けられる。日基教会は第一ブロックになった)。
*参考/教団規則案に反対した岡田稔の悔い2点
①社会情勢の荒波に強いられたこと。
②部制によって、一応日基教会の信仰が残っており、部制解消前に統一信仰告白を必ず作るという約束への
「あわいいたみ」があったこと。
「それは確かに頼りにもならぬ男の口車に引かれてずるずる身を委せている弱い女の心理にも似たもので、同情に価すると言うよりも、決断力の欠けたあわれなものでした。」(自責の弁)
1941年6月24、25日 教団創立総会が富士見町教会で開催される
国家「君が代」を歌い、宮城を遥拝し、出征兵士、戦死者のための黙祷を持って礼拝が
始められた。
報告・説明・議論の後、教団規則草案が全会拍手、採択される。
(ここには、論議も検討ももはや不要にする教会会議とは異質の原理と精神が働いている)。
1942年11月24、25日 第一回日本基督教団総会開かれる。
課題 ①部制の解消(部制はあくまで例外的である)
②日本基督戦樹立(日本精神に立脚すること)
③戦時体制確立強化
⇒部制解消へ抗議をする人々も多数存在したが、結局、教団に参加したという意味で信条なき教会の一翼を担った。
しかしこれらの人々が牧師・教職として仕えつつ、教会の本質とそのあり方を誠実に問い続けた思索と実践は、
今なお意味を失っていない。
さて、明治から昭和初期までの日本のプロテスタント教会の変遷をたどってきました。
昭和期に、キリスト教が戦争や天皇制、国家とどう関わったか、アジアの人達にどう対したのか、戦後に教会はどう反省し、教会をどう形成しようとしたのか、多くのことに目を向けなければならないと思いますが、このシリーズでは、教団合同までの経緯を見て終わりにさせていただきました。
明治・大正期のキリスト教が身につけた特質のうち、昭和期に脆弱な体質を露呈したのが、「①キリスト教理解の不安定」と「②国家に対する姿勢」です。①は福音主義・教会中心主義の路線に関わり、②は教会の自立性に関わっています。この二つは、同じ事柄の両面です。
つまり「キリスト教会の生命的営みとしての神学と信仰告白のわざが、教会の自律形成の内的不可欠の要因」であるとともに「国家等の共同体からいかなる介入もなく、信仰内容と教会形成の原理を選びとる事が、神学と信仰告白の福音主義的形成にとって外的不可欠の要因」なのです。
昭和期においてキリスト教が直面した最も緊急の問いが、ことごとくこの問題を巡っています。そして昭和のキリスト教会がぶつかり、敗北を喫した種々の課題は、今日に至るまで未解決の壁であリ続けています。戦後いかなる思いで、キリスト教徒は戦後の教会形成に努めてきたのか、いかなる思いで新しい教会(教派)を創立したのか。日本にあるキリストの教会は、この戦後60年間に何をなしてきたのか。そしてこれから先どう進むのか。それは、現在この日本にあるキリストの教会が関わっていく未来です。
さて、この12回に渡るシリーズで、信条(信仰告白)の意義や歴史を中心に、世界ないし日本の教会がどのような歴史を歩んできたかを、見てきました。何故、信条が生み出されたのか、また生み出させていくのかは、聖書が求める必然的な背景と理由がある事も見てきました。
戦前の日本のキリストの教会が、国家の力の前に自らの信仰を屈服させられ、無残に降伏したのは何故か。その解答が、そこにあると思います。キリストの教会は何を訴え、何を守り、何に対して戦わなければならなかったのか・・・それが理解されていない・・・不安定に揺れ動く信仰理解。教会が屈服したのは、根本的な"聖書に対する理解"つまりは"教会の信条"が欠如していたからではないでしょうか?最終的に、"聖書の言葉"ではなく世の評判や周囲の目を気にする事を"第一の信条"とした教会の姿勢が、残念ながらそこに見出されます。
聖書は、明確に伝えようとしている事柄を持っています。聖書は何を伝えているのか、キリストの教会がそれを「信仰告白」しないのなら、いったい誰がそれを告白する事ができるのでしょうか?いったい誰がそれを知る事ができるのでしょうか?教会が信仰を告白し続ける(※信条を作り続ける)意義がそこにある・・・この12回のシリーズによって、それを考える事ができました。
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