キリスト教の信条とその歴史
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11.日本における信条の歴史3
日本のプロテスタント教会史3/明治~大正編/日本基督教会
1.日本基督教会の成立
明治20年代の保守反動は、キリスト教に大きな打撃を与えた。地方農村の教会は衰退し、無牧の群れが続出し、求道者の据り起こしも行き詰まる。その焦りが、臣民道徳への追従や、戦争への協力という形で現れる。
この時期の教会の課題
①教派か教会か(日本基督一致教会と日本組合基督教会の合同問題)。
②国家原理か、個人原理か(「不敬事件」「教育と宗教の衝突」論争、日清戦争)。
③福音主義か、自由主義か(新神学の問題)。
組合教会との合同運動は失敗。それが次の事をもたらす。
(1)一致教会の現状に不満をいだく者が、信条を一気に使徒信条・ニケヤ信条・福音同盟会の9ケ条にまで
簡易略式する希望が出る。
(2)合同か、教派形成かという路線問題は、一致教会内部の路線問題へと移行した。
(3)公会主義が残した信仰上、制度上の課題は、一致教会の十年間に進展していない。
1890年12月3日 一致教会の第六回大会(東京にて)
・「日本基督教会」と名称を改める。
・教会の憲法(信仰規準と教会政治規則)の改正(前後未曾有の長期大会で実質12日間となる)。
●信仰規準の改正について
経緯⇒イングランド長老教会が、1890年に採択した24ケ条の信仰規準(これはウ信条の教理体系を前提に
簡易化したもの)を一致教会は採用予定。日本側は、ウ告白などに比べて簡潔で理解しやすく、
教派的特色も緩和されていると判断した。しかし、この原案は強硬な反対論で暗礁に乗り上げる。
使徒信条採用派の見解
(1)現在の日本の教会には、精巧な神学的組織をもたない簡易なものが適している。
(2)信条は教師長老だけでなく、全信徒が告白できるものがよい。
(3)平和的・友好的な信条がよく、論争的なものは避けたい。
(4)異教的思想、流行哲学等を念頭におき、信仰の主要な題目に範囲を集中すべき。
(5)「新神学」の浸透を防ぐためにも、簡易な信条がよい。
使徒信条派と反対派は対立を続け、教会分離もやむなしという意見もでる。この不穏な形勢を見て、委員長インブリーは、使徒信条に前文をっけた草案を作り再提案した。
⇒従来の4っの信仰箇条を廃し、使徒信条に言文を付す「簡易(簡略)信条」を採択。
日本基督教会信仰の告白
我等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の子にして、人類のため、その罪の教いのために、人となりて苦(くるしみ)を受け我等が罪のために、完仝(まった)き犠牲をささげ給ヘリ。凡そ信仰に由りて、之と一休になれるものは赦されて義とせらる。基督に於ける信仰は愛により作用(はたら)きて人の心を清む。また父と子と、ともに崇められ、礼拝せらるゝ聖霊は我等が魂に耶蘇基督を顕示す。その恩(めぐみ)によるに非ざれば、罪に死したる人、神の国に入ることを得ず。古(いにしへ)の預言者使徒および聖人は聖霊に啓廸(けいてき)せられたり、新旧両約の聖書のうちに語りたまふ聖霊は宗教上のことにつきれり。我等もまた、聖徒がかつて伝へられたる、信仰の道を奉じ、讃美と感謝とを以て、その告白に同意を表す。(以下に「使徒信条」が続く)
●教会政治の改正点
(1)教会の構成員についての理解を修正。
→植村が小児洗礼の必要性に疑問をはさみ、小児洗礼は牧師と各個教会に委ねる。
(2)教会役員の任期について
→長老・執事の任期を2年とし、留任を妨げない、他。
(3)教職志願者の扱いを変更。
→旧規則の様々な名称をすべて「教師」に改め、教師候補者は「中会において認可」された神学校」の卒業生で
あることを定めた。
(4)外国宣教師の議席。
→旧規則の宣教師は二重教職権を持っていたが、新規則では長老派宣教師は正式に一致教会(日基教会)に
転籍して中会のメンバーシップを得る。
(5)大・中会代議員制度の変更。
→牧師、宣教師、神学校教師の外は投票権を有しないものとし、会員300名以上の教会の小会は
長老2名を送れる。また大会は、各個教会による構成でなく、中会選出の代議員として構成される。
日本基督教会成立の意義
①組合教会との合同失敗により、無教派主義の路線が内部的事情より不可能となる。
②明治国家の整備に伴ってナショナリズムが変質し、教会を対国家対社会的に孤立させることになった。
(教会を教派的内実の強化へ進ませる)。
③神学的には自由の余地を残しつつ、破壊的な神学思想への防御が要請された。
④日本人の自生的神学に根拠を持つ信仰箇条の確認への願望。
⑤教会制度を屈伸自在なほどに簡明にして、伝道に活力を注ぎ込む事を目指した。
⑥植村正久を中心とする新しい指導者層が台頭した。
⑦宣教師主導の教会形成から、日本人による手造りの自主的組織へ改組していくための、
大胆な制度的手直しが行われた。
2.大正のキリスト教
日露戦争に辛くも勝利をおさめた事により、日本は軍傭の増強による海外膨張という帝国主義の仲間入りをし、欧米列強と肩を並べてのアジア進出に自信を深めた。しかし国内では民衆の生活は貧しく、一部の富裕階層との貧富の差は激しくなった。普選運動や、民衆の政治行動のデモ、労働組合運動が本格化して各地の争議や、小作人の争議が頻発した。
このように、日本社会があらゆる方面で「転換期」を経過しつつあったのが、大正時代。大正は、表面的なデモクラシーが政治・社会・思想・文化の中に流れ込んで自由な社会の「雰囲気」があった時期だが、一方で明治と違い「生ける人格とし
ての」天皇が不在の期間であり、言い換えれば、新しい規範としての強力な「天皇制」への模索の時であったとも言える。
Ⅰ.キリスト教の転換期
大正期のキリスト教は、明治時代の一応の形態を整えて安定期に入った「教派」としてのあり方を受け継ぎ、その特性を更に堅固にしていく。その一方で、諸教派が一つの協同の機関に結集し、超教派的な伝道に取り組む方向も顕著になる(大正期の特徴として、この二つの方向が矛盾していなかった)。
社会からのキリスト教への風当たりも、明治期に比べてはるかに緩和された。また、明治後半から大正にかけて、中間層と呼ばれるインテリ、サラリーマン、そして学生を中心とした人々が、主な教会の構成メンバーになっていった。
明治初期と大正期の教会の相違
明治初期に青年期を過ごした第一世代のキリスト者の関心は主に「国家」あったが、明治後期後のキリスト者青年の最大の課題は、悩める自我の教いであった(自己の確立について悩みと不安を経験した「考えるホワイトカラー」)。これが、教会全体にも当然影響してくる。明治初期の教会は、外界との厳しい接点を持ちある意味で野性味があったが、明治後期以降の教会・信仰は、現実から浮き上がりがちの閉鎖的な信仰となり、微温的傾向が強くなった。
こうして、キリスト教は大正期を迎えて、信仰が個人の内面的な葛藤や煩悶への解決としてだけ機能し、社会との軋轢(あつれき)や異教的世界との対決を生みださない(自由で安全ではあるが)、社会性を失った「私事」となった。
「三教会同」について
明治以来、政府は宗教を国家権力の下に置こうとしてきたが、1912(明治45)年2月にキリスト教を含む「神・仏・基」の三教派に対し「三教会同」が斡旋され、政府と宗教側それぞれから出席して会合が持たれた。キリスト教は、この会同に進んで協力し、神仏二教と同等の待遇を受けたことを大いに喜んだのである(これに対して、はっきりと批判を行ったのは内村鑑三。植村正久は批判"的"であった)。
Ⅱ.デモクラシーとキリスト教
デモクラシーの隆盛が、キリスト教会にも色々新しい動きを生じさせた。
海老名弾正 ⇒ デモクラシーの確立の為には、キリスト教が不可欠である(政治上のデモクラシーの根拠が、
精神的デモクラシー=クリスチャンデモクラシーである)。
→政治意識に芽生えた青年や、教会の知識人達に受け入れられる。特に吉野作造は、海老名に師事して、
デモクラシー(彼は民本主義と訳す)の政治思想を普及させた
(※彼の基本思想は主権の所在は天皇にあり、政治の運用面で民衆を重視した)。
植村 正久 ⇒ キリスト教的価値とデモクラシーの原理は、直結できないとする。社会問題はとらえているが、
福音とその伝道の持つ固有の目的を、社会問題や政治改革の目的と区別し、
福音の目的をそれ自身独自の領域に確立していかねばならない=独自の国家と独自の教会。
(一方、キリスト教が現実の社会や政治とどの様に関わり参加していくかは植村からは聞けない)。
この「海老名→吉野」の福音理解と「植村→高倉(*後述)」の福音理解が、「大正デモクラシー」を機に大きく二極分離していく。これが、「昭和ファシズム」の段階で決定的な現れ方を示すのである。
Ⅲ.再臨運動
世界大戦を直接のきっかけとして、「再臨運動」が起こる。歴史の近い将来に、キリスト再臨を熱烈に待望する運動が、内村鑑三、中田重治、木村清松らによって起こされる。 内村は、「キリスト教世界」を舞台とした未曾有の戦争を見せつけられ、平和の実現はキリスト再臨による世界の終末のみだと考える。アメリカ参戦は、キリスト教世界に対する 内村の失望を決定的にした(また、内村の娘ルツの死が"再臨信仰"を確信させた)。
この様な再臨信仰は、日本のキリスト教会の多数には受入れがたかった。この運動はうやむやの内に消滅し、直接の収穫といえるものを残さなかった。これはキリスト教神学の問題であり、キリスト教徒の歴史観・社会観とも深い関わりを待つ問題であったが、大正期のキリスト教には荷の重い課題であった。
Ⅳ.大正期のおけるキリスト教教育(および学問)
明治後期
文部省が、訓令によって教育と宗教の分離をミッションスクールに要求
(※実質的にはキリスト教教育と礼拝活動の禁止)。
⇒青山学院、東洋英和、立教、明治学院、名古屋学院、同志社の各学校、及び関係を持つ宣教師が集まり協議。
→訓令撤廃を求めるが、文部省応ぜず。ねばり強い交渉と諸外国との平等条約の成立という条件も手伝い、
1903(明治36)年頃までに、訓令の実質的効力失われる。
明治末期~大正期
中学・高等教育への要望が高まり、進学率向上。各ミッションスクールは、大学成立へ向けて努力。
その後、次々と設立認可へ(同志社大、立教大、関西学院大など)。
女子の高等教育機関
→東京女子大学設立(1918年)
「福音の真理にささえられた高い見識と、真理の前における自由を体得した人格の育成」
キリスト教的な人間観に基づく教育
→自由学園創立(1921年)
「神から賜った人生を創意工夫をこらして生き、神にある自由と可能性を追求すること」
*創立者の羽仁もと子(植村より信仰を学ぶ)は、月間誌での家庭生活の改善を教育の上でも実践。
大正の文化は、一方では「民衆文化運動」、一方では「知識生活者の高度な教養としての文化」。このエリート文化主義の方に、キリスト教からも足も踏み入れる人々が現れた。
・波多野精一 → キリスト教の歴史研究と宗教哲学(詳細略)。
・石原 謙 → 日本のキリスト教学の指導的存在(詳細略)。
V.大正期における日本基督教会の動向
大正期は教派形成が進み、それぞれのよって立つ教派的な標識が、信条・教会政治・教職制・礼典の理解・礼拝・神学・信仰生活・伝道方法・ミッション協力などの諸分野で、その独自性を確立していった。
1907(明治40)年 メソジスト系三派が合同 ⇒ 日本メソジスト教会成立
(※「メソジスト」「聖公会」「日基」「組合」の主要4教派が日本のプロテスタントの8割を占める)
・大正期の特色の一つ → 信仰生活に、規律と統一を求めていく傾向。
・大正期の伝道拡大 → 諸教会の教勢は、組合教会を除きほぼ堅実に進展。
*日基の伝道 ⇒ ・大正元年以来、特別伝道推進(日本の他、台湾、満州、朝鮮含む)。
・第27回大会で「婦人伝道会社」創立(婦人長老の道を開くきっかけ)。
・超教派の全国協同伝道後も、日基は独自の運動を継続。
日本基督教会の憲法の改正(第34回大会で大幅な改正)
①信仰告白と憲法・規則の間に関連がつけられた。
②教会は「キリスト」に源泉を持つ「権能」を行使する団体。
③中会・小会という会議制度に立脚した教会であるという自覚。
④「礼拝 交わり 信仰 健徳」という霊的目的を持っ機関としての性質の自覚。
(他、婦人長老への道を開く、日曜学校局設置など)。
1922(大正11)年 日本基督教会創立50周年(日本基督公会設立より)
→記念礼拝、祝会が催された。
教会としての形成が一つの頂点に達した。
1923(大正12)年 関東大震災
9月1日 →この大地震により、請教会も甚大な彼害披る。植村は、信徒達を慰めることに心を砕く一方、
様々な雑事に追われ心身の活力を消耗。
1925年1月8日 植村 正久死亡
植村正久から高倉徳太郎へ
高倉徳太郎は、1885(明治18)年に京都で生れる(父はキリスト信者)。高等学校時代「自我」の問題に本格的に取り組む。1906年、東京帝国大学法科入学。同年、富士見町教会で、植村より受洗。しかし、その後信仰への懐疑を体験。大学を中退し、東京神学社に転じる。植村より直接伝道や牧会の指導を受けるが、師への反抗と批判の思いは抑えがたかった。彼は恩寵を信じると言いながら、直接の関心は自我。
その後高倉は英国滞在によって、ウ告白が果たした役割を評価することとなった。また、スコットランド教会への理解が、高倉の教会観に大きな打撃を与えた。帰国後、植村よりの富士見町教会後任の件を断る。その後の植村亡き後の富士見町教会は(その後任の南も病没し)、三好が後任牧師に決まる。しかし、高倉を擁立しようとした人々は納得せず離脱し、戸山教会へ転籍。この百人にのぼる有力な会員の一斉離脱は日基教会内外に衝撃を与えた。戸山教会は信濃町教会となり教会形成は充実するが、それらの活動は高倉の心身に負担と重荷を与え、回復しがたい衰弱をもたらした(心労を決定的にしたのが、神学社の合同とその後の経営、福音同盟会の指導の破綻)。
*下記のものは(やや枝葉末節的だが)、参考として記載。
高倉の神学 ⇒ 彼の神学は「恩寵の問題を神学的に明確」にした。一方、彼の神学には限界もあったが、
日本のキリス卜教史に果たした意義は大きい。
高倉の聖書観 ⇒ 彼の聖書観は、ある程度聖書批評学を受け入れっつ、聖書の歴史的研究を「聖霊解釈」
によって統合していくもの(要点=聖書は神の言を含むゆえに権威があり、宗教的使信に
関しては謬りを持たないが、その他の点では誤りうる-とする)。
高倉の教会観 ⇒ 教会は、たとえそれが文化や社会より狭いとされ、「個人による福音の徹底から見てあいまい」
だと評されようとも、教会こそが「神の国」を地上で担う機関である。
高倉の文化観 ⇒ 教会を中心とせよという主張は、文化に対する高倉の理解と盾の両面をなす。
文化は福音によって聖められなければ、それ自身としては、罪と滅びの中にある。
福音は文化の精神と戦い、これに打ち勝って神の栄光のために文化を捧げねばならない。
(しかし教会形成が最大の関心事であり、文化形成能力は後退し、倫理的意志的な敬虔が
失われる結果を招いた)。
*「福音と文化」、「信仰と倫理」、「教会と神の国」は、明治期のキリスト教では無邪気で粗野な調和を示し、
大正期においては繊細で内向的な分離へと変じ、昭和前期に至って危機的な混乱を露呈していくことになる。
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