キリスト教の信条とその歴史

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10.日本における信条の歴史2
   日本のプロテスタント教会史2/明治編2/日本基督一致教会

1.日本基督一致教会の成立

 「日本基督公会」の精神が、種々の条件に制約を受け、暗礁に乗り上げた。宣教師違は各々自国の教派的背景を持って来日し、その支援なしには活動は不可能だった。しかしながら、現状は次のようなものであった。
・多くの日本人信徒が、教派的路線への反発と懐疑を持っている。
・伝道者育成のため、充実した神学校を経営する必要があった。


1876年4月   在日改革派ミッションが長老派に対し、教育事業提携を申し出る。

 同年5月16日 フェリス女学院にて、第一回協議会開催。
        →「公会」の憲法改正案を検討。が、「基督公会」「長老公会」の日本人信徒の一部から、
         激しい反対(憲法が長老制であり、合同がなっても狭い教派的教会になることへの不満)。


合同への主な三つの障害

・名称。信徒が、「教派的」な名称を嫌った。最終的に「日本基督一致教会」になった。
・宣教師の所属への不満。宣教師が、本国でも日本の中会でも正議員であった(二重教職権)。
・信条の制定。ドルト、ハイデルベルク、ウェストミンスター小教理、同信仰告白の
 4つの高度な神学体系、教派的主張に対し、日本人信徒の大多数が不満で不評だった。


1877年10月3日 第一回中会(横浜の海岸教会にて)「日本基督一致教会」創立 (9教会)。

1881年     春の中会 全教会を三中会に分割(北部、東部、西部)し、大会を組織。

1885年     三中会に仙台中会を加えて、四中会となる。
        その後、西部中会から中部中会を分離(最終的に五中会となる)。


一致教会の政治

・教会規則(「政治規則」「懲戒条例」「礼拝模範」の3つを含む)

 ⇒日本の未成熟の教会に適合するかどうかは疑問。しかし、宣教師は教会の"情緒的な体質"を、
  教会が「法と規律によって運営される秩序ある団体」であることを伝えておきたいという要望を持っていた。
  しかし、日本人信徒からは、その事に対する「無理解」からの反発が生ずる。
  (教会に自由がない、押しつけだという不満)。

一致教会の信仰

・一致教会は、「信条教会」

 ⇒教派的性格の強い信仰規準によって教会宣教内容を整え、教会生活をもその信条に従わせようとする。
  (一致教会の教職は、4信条への違反は禁止)。
  植村正久によれば、それらスタンダードやプリンシプル(教道)に対して教職者らは、
  主として「原罪説」「贖罪論」「小児洗礼論」などに疑問を持った。
  (しかし、当時はまだ正統主義の神学的方法によって反対や批判が行われた可能性はない。原罪説、契約論が
   解らないという神学的未熱さは、その後も長く日本のキリスト者の信仰に大きな制約を与えていく事となる)。

一致教会の経験がその後の教会に残したもの

①教会が単に家族的な共同体の交わりでなく、法の尊重による秩序と規律を持つ団体であることを学んだ。

②教会が、信仰告白によって指導される群れであることに気づかせた。

③信徒の生活の日常的なあり方を、教会政治の原理と結合した。

④「保守的信仰の持つ意味を、教会に体験させた。


2.キリスト教教育の展開


近代日本の伝道の特徴


①宣教事業が、欧米諸国の植民地経営と直接的にも間接的にも結びつかなかった。

②儒教的教養が、社会一般に独自の水準をもつ文化を成立させている宣教地であった。

③初期人信者の多くが、士族出身の青年で独立精神に富んでいた。

 ↓
 キリスト教教育の帯びた性格は、貧民救済的・慈善事業的な教育の方向よりは、高い教養を備えた人格の育成と言う側面が要請された。また、ミッションスクールは単なる文化的価値の教育だけでなく、伝道者育成の機関を兼ねる場合も多かった(「キリスト教による教育」と「キリスト教への教育」の二つの側面)。


ヘボン塾の女子 ⇒ ミス・ギダーの学校へ委ねる(フェリス女学校の前身)。

ヘ ボ ン 塾 ⇒ ジョン・バラ(J.H.バラの弟)に管理を委ねる(築地大学となる)。


1877年 日本基督一致教会(旧日本基督公会)設立
  (米国長老教会、米国・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の合同)

   ↓
  ・日本伝道の為には、日本人教職者養成が不可欠との認識。
   ⇒各ミッションにとっての伝道者養成の為の大きな経済負担を減らし、神学的水準を整え向上させる。

一致神学校設立 ⇒ 専門的な伝道者育成を目的とし、聖書と神学の講義が主だった。
          (しかし、神学一科だけの体制では不備の声が上がる)。

1877年 
明治学院の創立(一致神学校、東京一致英和学校、東京英和予備校が統合され、一般教育学科と神学科を併設)

    ⇒しかし、私立学校の認可を得る為、神学部の位置づけがあいまい。

1875年 
同志社の開校   ※1

    ⇒当初よりキリスト教主義に基づく総合大学設立を目標としていたが、仏教寺院の多い京都の地で、
     仏教側の反対は激しく学校内では「聖書」の講義をしないこと(個人宅は除く)との妥協案でようやく開校。

1870年 A六番女子学校開校(長老派の宣教師夫人ジュリアによる)
    (1877年 新栄女学校と改称、更に桜井女学校と合併し、1889年女子学院となる)

1878年 梅花女学校(沢山保羅らによる)

    ⇒厳密に日本人自身の手による自立自給の経営
     (教育の目標は、キリストにつらなる人格を基礎として、堅実で有用な生活者となること)。


※1 新島襄について

 1843年、上州安中藩の下級武士の子として生まれる。青年期を、江戸幕府倒壊に至る動乱期に過ごす。その後、アメリカの帆船でボストン上陸を果たし、生涯の支後者となるハーディー夫妻に出会い学校教育を受ける。
 1866年12月、アンドーヴァー神学校付属のチャペルで洗礼を受ける。新島の信仰と人格を形成した三要素「デモクラシー」「ピューリタニズム」「コングリゲーショナリズム(会衆主義)」は、ほぼ同志社の設立と経営の理念になる。
 神学校を卒業するにあたり、アメリカンボード(会衆派ミッション)からの、日本での宣教への従事の件について受諾。帰国後、学校(同志社)設立の為、奔走した。


3.聖書の翻訳


禁教下の聖書和訳⇒宣教師は公の伝道が許されず、他の活動・事業をしている間も聖書翻訳の準備を始めていた。


例)マカオでのジュッラフによるヨハネ福音書の和訳(冒頭部分)

 ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。

例2)ヘボンブラウン共訳本(1872年)(同福音書同部分)

 元始(はじめに)言霊(ことだま)あり 言霊は神とともにあり言霊は神なり この言霊は はじめに神とともにあり

聖書和訳の困難の原因

・漢字かな混じり文であること。
・口語文(会話体)が学者の軽蔑を受けていたこと。
 (口語体の模範とすべき文体が確立していない)。
・日本語全体が当時流動的(漢文調と口語調)だった。


 キリスト教黙認の時代に入ると、聖書“試訳”から、本格的な全聖書出版へ動く。諸教派宣教師達による「翻訳委員社中」結成。しかし、様々な問題・困難が湧き出る。

1880年 
新約全巻の完成・出版。「翻訳委員社中」は「東京翻訳委員会」になる。

1887年 
旧約全巻訳了・出版。


15年におよぶ苦労をしたヘボンの言葉

 こうして新旧約全書の翻訳事業は完成し、聖書は今や日本語で日本人の手にわたるようになりました。他国語のものと比べて見劣りのない立派な忠実な翻訳であると、わたしは信じています。あまり多く漢文がまじっていないで、国語を愛する日本人の学者たちから文学的作品として称賛されていることを知っています。容易に民衆に読まれ、理解されましょう。


4.賛美歌


1872年   プロテスタントで最初の日本語讃美歌は、第一回宣教会議で発表された。

1874年   一挙に7種類の小冊の讃美歌が刊行される。

1882~92年 各教派が独自の讃美歌を質量ともに完成に近づける。

各教派の賛美歌の特徴

①長老派・改革派・組合派  → カルヴァン主義の基盤に立ち、信仰表現にも堅実な客観性がある。

②メソジスト派       → 叙情性が高く、大衆の情感にうったえる傾向。

③聖公会系         → 典礼を重視するための儀式的傾向。

④バプテスト教会      → 伝道的要素が強く、訳文も口語的な傾向。

⑤中田重治らによる伝道協力 → 福音聖歌やリバイバル調の伝道的・情緒的傾向の強い歌。

1903年 ①~③の教派共通讃美歌へ実っていく。
特にメソジスト派中心で、②の傾向が色濃く、美文調で情緒的な傾向が強い)。



5.天皇制とキリスト教


*この問題は、現代の私達にも深く係わる課題で、本質的な状況は今もその多くが変わっていない。

 明治政府は1889年に「大日本帝国憲法」を発布し、天皇の絶対的な権威を頂点として、官僚による国政の掌握、資本の育成、軍備の強化等の中央集権的な国家の完成を急いだ。キリスト教に対し、その国家が厚い壁で有り続ける。

1891年  
内村鑑三「不敬」事件
     ⇒中学校での「教育勅語」奉載式にて、学校長・教職員・生徒らが天皇の署名入り勅語に敬礼。
      嘱託教員の内村鑑三は、少し頭を下げただけで大問題となる。最終的に、内村は辞職。

これを機に全国的なキリスト教攻撃
と反キリスト教宣伝「キリスト教は日本国の異端」という考えが叫ばれる。
  ↓
それに対するキリスト教側の立場

①組合教会の金森通倫、横井時雄らの立場

 →天皇の署名入りの勅語に敬礼することは、外的な形式にすぎない。
  キリスト者の信仰上の主義には支障ない。
  (
外的儀礼と宗数的礼拝を分離して、信者の良心と福音の門戸を広く解放しようと試みる)

②押川方義、植村正久、厳本善治、普及福音教会の三並、丸山らの「共同声明」
 →勅語への礼拝が宗教的意味を含み、天皇は神であるからこれを礼拝せよと求めるなら、キリスト者は死をもって
  抵抗せざるを得ない。勅語への礼拝や靖国神社への参拝が宗数的礼拝を意味するかどうか、明瞭な規準を示す
  ように当局者に要請(
事態の本質を自分で判断することを避け、相手に下駄をあずけた玉虫色の態度)。

③植村正久個人の態度
 →
人類の影像である御真影や天皇の勅語に礼拝する理由はどこにもない。


明治の思想史を代表する論議

1893年、井上哲治郎が「教育と宗教の衝突」の冊子を出す。内容は、
・キリスト教は非国家主義。
・キリスト教は忠義を重んじない、平等主義。
・キリスト教は未来を重んじて、現在をいやしむ超世間的宗教。
・キリスト教は無差別な博愛主義で、自国・自民族への愛(忠君愛国)に反する。
 (※井上の人間観は、個人の権威は国家と天皇の中に吸収され、国家や民族の一分肢としてだけ人間としての
   価値が認められる。この臣民としての人間像とキリスト教の持つ人間観の相違が、キリスト教と国家との間に
   摩擦を生じさせるのは当然)。
 ↓
キリスト教側の反応(一様でなく、様々な立場)
・キリスト教徒も忠君愛国の点で、他に遅れをとるものではない。
・キリスト教は、忠孝といった君臣道徳に矛盾せずこれを完成する。
・国民教育の真の基礎として徳育を論じ、その方面でのキリスト教の使命を強調する。


 国家とその最高権威である天皇のために自己を放棄して仕えることが、個体を超越して自己実現に至る道。この倫理にある限り、この国家は「殉教者」を要求し、靖国神社はその「殉国」による自己実現という国家観・人間観を具体化するための施設となる。

⇒明治期のキリスト者は、いずれも皇室への敬愛を持つ愛国者であった。


植村正久の言う愛国心

①国家の栄光を手放しで讃美する愛国心(心酔的)。
②国家の現状を憂える愛国心(慷概的)。
③国家の罪、民族の罪を感得して、その罪に泣く愛国心(預言者的)。
 (日本では、③の愛国心は国賊呼ばわりされる)。


⇒今後、キリスト教は、具体的な問題(例えば戦争)に直面すると、ことごとく国家の意向に沿ってしまう。
 またその一方で、正面きって国家の要請を受け止め、キリスト教を国家に従属させようという考え方も現れた。

1893年 
「日本の花嫁」事件
     ⇒日本基督教会の牧師田村直臣がニューヨークで出版した本に端を発する。
      日本人の結婚観が女性の人格軽視を当然としている-という批判の内容。
 ↓
 一般新聞のみならず、キリスト教界からも田村批判が巻き起こる。田村は自説を譲らずに、様々な困難に遭遇の上、結局は日本基督教会を脱会せざるを得なかった。
 田村の反論には正当性があり、宣教師も田村を擁護したが、キリスト教を日本社会からより一層孤立させ、キリスト教反対勢力に口実を与えるのを防じる為、
田村牧師を教会から"葬る"こととなった。田村牧師を教会から葬り去ることによって身の証しをたて、キリスト教会を国家社会の一員として印象づけようとしたのである。

→私の個人的な"田村直臣牧師研究"についてはこちらをクリック!




 いよいよ日清戦争となる。この戦争は、近代日本が行った最初の対外戦争である。

⇒国民的な昂揚と共に、キリスト教界もすすんでこれに協力し、全国各地の協力の為の組織が作られた。


当時のキリスト者知識人の主な共通の視点

「戦争は、文明が野蛮を征服することであり、日本がアジアでその“天職”に任ぜられているのである。」



⇒キリスト教界も、戦争による対外への膨張政策に無批判に追随していく事となる。


(2008年 6月15日記載)



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