キリスト教の信条とその歴史

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9.日本における信条の歴史1
   日本のプロテスタント教会史1/明治編1/日本基督公会

 さて、前回までは、初期キリスト教会から中世の信仰者や教会の戦い、その中で作られてきた信条(信仰告白)の歴史や意義を見てきました。今回より、歴史の中で日本のキリスト教会がいかに形成され、そしてどのように信条がとらえられ、またどのような信条が採用されていったかを見ていきたいと思います。


 カトリック教会のイエズス会のフランシスコ・ザヴィエルが、1549年に鹿児島に来航してから、キリスト教が各地に広まることになり、大名の中にも洗礼を受ける者が現れた。神道や仏教などの従来の思想と対立しつつも、伝来してから半世紀ほどの間に、西日本を中心に広く普及した。また教会堂やコレジオ(宣教師養成学校)、セミナリオ(神学校)などが各地に建てられ、キリスト教は目ざましい発展を遂げていった。
 しかし、その後の1587年大名がキリスト教信者になるのは許可が必要となり、ついで突然バテレン追放令が出された。島原の乱をきっかけに、ますます幕府はキリスト教を恐れて、1639年ポルトガル船の来航を禁じて鎖国する。それとともに、幕府は寺請制度をはじめて、キリスト教徒の多かった九州北部で「絵踏」を行った。こうして、日本ではキリスト教の禁止が徹底された。こうした時代背景により、日本のキリスト教の夜明けは「明治」まで待つこととなる。
 日本社会でキリスト教徒と教会が置かれた状況は決して楽なものではなく、戦いと紆余曲折を得ねばならない苦しいものであった。歴史に現れた神の恵みと苦しい戦いの足跡を謙虚に学ぶことが、現在と将来に生きるキリスト教徒と教会に着実な足場と希望をもたらし、また日本におけるキリストの教会が創立されるまでの背景やその意義などが見えてくると思うのである。まずは、明治時代より概観しよう。


Ⅰ.明治編

1.プロテスタント開教と最初の教会


1837年 日本布教の準備をしていたK.ギュツラフ、S.W.ウィリアムズらが、漂流民を引き渡す為、
    オリファント会社船モリソン号(アメリカの貿易会社)が浦賀に来航。
    ⇒外国船打払令によって砲撃を受け、退去。

1844年 琉球にフランスのカトリック宣教団体T.A.フォルカードがフランスの公的権威を背景に強引に上陸。
    ⇒布教の直接の成果には、見るべきものはなし。

1846年 イギリス海軍琉球宣教会(プロテスタント)から派遣されたB.J.ベッテルハイムが、琉球伝道に就く。
    ⇒福音を公に語れず、琉球語訳の伝道冊子を夜更けに個別配布等の困難が伴った。
     (滞在8年間に数人の求道者と三人の受洗者を得たが、迫害で失われた)。

1853年 ペリー来航(圧倒的な力を誇示して、日本に開国を迫る)。

1854年 日米和親条約締結

1858年 日米修好通商条約締結 ⇒ 日本の鎖国が終わり、宣教師が来日開始する。


     改革派、長老派             聖公会、バプテスト派、会衆派


1859年 
「アメリカ長老教会」           「米国聖公会」
    →秋にJ.C.ヘッバーン夫妻       →5月にJ.リギンズを、6月にC.M.ウィリアムズを長崎に送る
                         (在留外国人の為に礼拝/1863年、小規模の礼拝堂建設)

    
「米国オランダ改革派教会」
    →11月にS.R.ブラウン、D.B.シモンズ
     ⇒神奈川に上陸

    →G.F.フルベッキ ⇒ 長崎に上陸

1860年                     
「バプテスト派」
                        →J.ゴーフルが来日

1861年 →11月にJ.H.バラ ⇒ 横浜に来日

1869年                     
「米国外国伝道会社」
                        (アメリカンボード=会衆派ミッション)
                        →D.C.グリーンが来日、阪神地方で伝道開始。

                        (
「メソジスト派」からは、1873年キリシタン禁制高札撤去直後)


宣教師の活動の一例 <宣教医・信仰の旅人J.C.ヘボン>

 1815年、ベンシルヴァニア生まれ。大学で、化学と眼科学を学ぶ。これを、医療伝道で用いる召命感を得る。26歳で中国宣教師になるが、夫人の健康悪化や、愛児の死亡で帰国。その後、ニューヨークで開業し成功。しかし、日本開国の報を聞くや否やただちに自費で日本伝道に献身したい旨、長老教会外国伝選局に申し出る。
 日本とアメリカは文化的差異が大きく、様々な病気の患者が多かった。ヘボンは、優れた医療技術で劣悪な衛生環境下に放置されていたあらゆる病者の治療にあたり、貧しい者からは治療費は取らなかった。また、彼は「ヘボン塾」を開き、前例のない男女共学で日本人青年の教育にあたった。この中から、後年、政治・社会の中枢に参与する者も育った。ヘボンは、「和英語林集成」という本格的和英辞典を完成。1867年に出版。この語学研究の目的は、聖書の日本語翻訳のためであった。


19世紀アメリカの大規模な海外伝道

 当時のアメリカで海外宣教の神学的背景になったのは、カルヴィニズムであり、広がっていく反倫理的・世俗的な社会を再び神中心の世界へ引き戻そうとする厳格な倫理的要求が、海外への熱心な伝道の形で実を結んだ。
 送りだされた宣教師たちの信仰には、一定の特色・傾向があった。
①個人的な回心の強調
②聖書に対する絶対的な信仰
③道徳的な厳格さ
④伝道心の強調

 こうした信仰態度は、初期にキリスト教に入信した日本人青年たちの育った環境や心情とうまく適合した。宣教師たちは、日本語の学習、聖書翻訳の試み、医療や教育に従事する傍ら、日本人に福音を語った。日本伝道の初穂として数えられる受洗者が現れた(しかし、幕末で洗礼を受けることは容易なことではなく、浦上(長崎)では、1867年以来600名もの殉教者を出した)。


日本最初のプロテスタント教会

1871年末より  横浜で祈禱会を開く(多い時は30~40名)。

1872年3月10日 最初のプロテスタント教会が、横浜に設立される。
        押川方義ら9名がバラ宣教師より洗礼を受ける。
        (うち一人は大政官府の報者(スパイ)で元来本願寺僧侶。集会には他の報者も潜入していた)。

        当初11名の日本人会員は、夏頃には会員20余名、礼拝出席30~50名になった。
        この教会を
「日本基督公会」と呼んだ(時期は不明)。

日本基督公会の政治と信仰

政  治=教師・長老・執事の三職による会議制。
     (これを長老主義と呼ぶかは議論のあるところ。横浜公会の政治は長老主義の簡易な運用)。

信仰規準=「公会定規」・・・使徒信条の漢訳文。
     「公会規則」・・・神学的論理性(ニカヤ、カルケドンからも引用)。
     「公会条例」・・・万国福音同盟会の9項目の教理基礎。
            (The Doctrina1 Bases of the Evangelica1 A11iance


9項目の教理基礎

①聖書の霊感、権威、十分性
②聖書解釈の原則
③神の三一性とユニティ
④始祖の現在と人類の堕落
⑤神の子の受肉、壇い、仲保者、教会統治
⑥信仰義認
⑦聖霊による再生、聖化
⑧霊魂の不死、復活、審判、永遠の浄福と滅び
⑨教会制度の神的起源と二礼典の制定

 しかし、この9項目は元々、各自の信仰内容を拘束せず、加盟者の信仰の表示にすぎない。また、この9項目が排他的に重要な項目というのでもなく、主題の選択も、差し替えも自由と言える。信条と教会の緊張関係は意識されておらず、教会への無関心が支配的だった。
 公会は、これを前文と後書きを削除し、信仰告白(教理的作文)として作成した。
 しかし、信仰告白の規範性と拘束性がそれなりの意味と重さをもって初期の信徒に提示されなかった事が、以後の日本の教会史に様々な課題を生じる一因となった。


公会「信仰諸規則」九箇条

 日本国に立る所の耶蘇キリストの公会に於て信ずべき事左(下)の如し。

第一則 聖書は、神霊の示す所又権能と某信ずべき事を充実せる事。

第二則 聖書を読み且伝ふるとき自己の決心に任ずべきは正確なる事。

第三則 神は唯一にして三位なる事。

第四則 始祖の原罪に因て人皆罪を犯す者となれる事。

第五則 神の子肉叢となりて降生し、人類の罪を噴い又中保となりて信者を天父に顕はし、
    又之が為に祈り且公会の首となりて之を統一する事。

第六則 罪人は唯信に由て教を受け義とせらるる事。

第七則 罪人を更生し之を清潔に帰せしむるは聖霊の感能に由れる事。

第八則 霊魂の死せざる事と身叢の復活すること及我らの主耶蘇キリストは、世界を審判し、
    並に義者に永福を与へ悪者に永刑を与ふる事。

第九則 キリストの司職は神の設立する事。又洗礼と聖晩餐の式は公会の大礼にして永く守るべき事。


1872年   公会設立後6ヶ月、横浜で第一回宣教師会議開催
      (長老派、改革派、組合派、聖公会、ユニオン・チャーチ、ミッションホーム、横浜公会の宣教師、代議員)

      議題-①聖書翻訳 ②伝道方策、政府の離散策への対処
         ③日本人教会の設立目的研究→この件については主張激突。
           前 段:超教派主義の理想。
           最後段:教会形成の具体的プランは極めてあいまい。

1872年9月 東京に、横浜教会の支会誕生
      (また2名の長老が、日本人による最初の伝道旅行を試みる)

*しかし、長老派宣教師内部の分裂。
 改革派…本国より「宗派ヲ分夕」ないことの通知が届く。
 長老派…シナ(中国)の大会に所属するよう訓令(ヘボンはこれに賛意)。
  
→京浜の2公会の日本人信徒達は、「公会主義」を援助・促進するように懇願。


2.明治初期の教会と信仰

第一期 明治初年~15年 成長への準備期、助走期

第二期   15年~24年 欧化主義とリバイバルを背景にした急増期

第三期   24年~34年 国家権力の確立と社会の反動による低迷期

第四期   34年以後  各教派が特に大都市で挽回し、安定成長期に入る

日本初期の各派の状況

長老派・改革派

 1877年までに、京浜二公会に続き、東京・横浜近辺に7教会設立
 (1875年に、青森県弘前にも「日本基督公会」設立。初代長老に本多康一)

パプテスト派
 1873年 横浜第一浸礼教会を設立(N.ブラウン、ゴープルら)

カナダメソジスト派
 1874年 静岡メソジスト教会を設立

アメリカンボード
 1875年 阪神二会に続き、三田公会(摂津第三公会)設立
     1877年末までに、全部で9公会設立。
 1878年1月 日本伝道会社設立、組織的伝道に入る。


当時は、教会設立まで、「キリスト教講義所」の看板をかかげるものが多かった(一種の演説会)。初期の頃より、家庭集会が伝道の発端になったり、伝道にトラクト(伝道用小冊子)を用いた(日本最初のトラクトはヘボンの「十字架ものがたり」)。


教会の立地条件

・大都市部…例:横浜基督公会は、通商条約によって開港された町という有利な立地条件で、教会の発展も順調。
        多くの受洗者、教会、牧師、伝道者を生む。

・地方中小都市…士族の入信者が多く、教会の知的水準を高め自主独立精神旺盛な反面、
        ①エリート意識、②平民層の加わりの困難、③士族は土地との結びつきが弱く、
        大都市へ移動してしまうなどの為、教会成長の阻害要因も作った。

・農  村…純農村の場合は、事態は深刻。明治10年代に多数の教会、講義所が生まれたが、
      明治中期以降の反動期の中で、大部分が衰退し、あるものは全く崩壊。
      また、衰退の一因として、日本農村の貧窮化も挙げられる。


明治維新は、同時に王政復占であり、明治政府は神道による国民教化運動の展開などをはじめ、行政、教育の両面から新国家の精神的な統忿に乗り出す。しかし、西欧諸国よりキリスト教に対する政策の非や野蛮性を責められ、祭政分離の方向に向かい、近代国家の装いを帯びる苦肉の策として、神道を一般宗教と区別し、神道非宗教化政策をとった(国家神道の成立)。キリスト教は、政治権力からの圧迫はなくなったが、一般庶民の長年に渡って培われた「ヤソぎらい」は容易に消えなかった。仏教勢力の強い地域ほど激しく東北・北陸では、村八分はもとより殺傷事件や会堂破壊の例も少なくなかった。


明治のキリスト教の三つの源流

横浜バンド…横浜に生まれた最初の教会(前項まで参照)。

熊本バンド…1871年、熊本洋学校設立。
      アメリカ人教師L.L.ジョーンズの信仰と熱心が青年たちを動かし人信者が増える。
      彼は、道義的国家確立の為、神への信仰に生きる自主的な個人の形成を目標とした。
      それは、藩制解体後の士族の子らに新しい目標をもたらした
      (しかし、保守的な社会であったため、生徒への説得や脅迫、哀願が行われた)。
      1876年 熊本城外花岡山で集会。「奉教趣意書」に誓約した。この年、洋学校閉鎖。
      青年の多くは、創立間もない同志社英学校へ転じる。

札幌バンド…W.S.クラークが、官立の札幌農学校に教員として招聘される。
      在日わずか8ヶ月の間に第一期生に大きな感化を残す。
      「イエスを信ずる者の誓約」を作って、生徒に署名を求める


3つのバンドの比較

 横浜の青年たちは、「入信→教会の形成」という以降が速やかだったが、熊本・札幌の場合は、教育的効果を持つことがあっても、ただちに教会形成へとは結びつかなかった。
 札幌では「独立教会」を営むこととなる。新渡戸稲造は、個人の内なる光を重んじ、聖職者による教会指導を認めない。内村鑑三は、「無教会主義」の創始者として、教会的キリスト教への批判者となっていく。


明治前期キリスト教の特質

明治前期のキリスト教には、いくつかの基本的な性格があった。

⇒「倫理的性格」…信仰は何よりも新しい生き方の問題であった。
        キリスト教をもって、国家の基礎・新しい個人・家庭・社会の改革の指標とした。
このキリスト教理解が、倫理から信仰への筋道をたどっていく。

タイプ1.「宗教を一種の修養と考える」
      …超越者(神)の実在があいまい。国家主義や儒教道徳と癒着しやすい。
タイプ2.「神命としての倫理」
      …超越者(神)に対して「考」「忠」という儒教道徳をあてはめる。
       そこには贈罪的意義を説かないという限界がある。
タイプ3.「宗教による倫理の再解釈」
      …生命ある実在者とのリアルな関係。


(2008年 5月18日記載)



 

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