キリスト教の信条とその歴史

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8.ウェストミンスター信仰告白の要約

 分量的に、全編を載せる訳には行かないので、独自に私的に要約したウェストミンスター信仰告白を載せます。きちんと学びたい方は、ウェストミンスター信仰告白を買ってお読みください。


Ⅰ.聖 書

第1章 聖書について

 聖書は、しるされた神のみ言葉であって、これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準であり、ほかの人間的な文書と違った神的権威を持つ。
*中世カトリック教会の時代には、
聖書の権威が教会の権威の下に置かれてしまったのを、宗教改革者たちが再び正しい位置に返した。聖書論から出発することが、改革派信条の特色の一つである(※聖書観がはっきりしている)。


Ⅱ.神

第2章 神について、また三位一体について

 聖書的な正しい神知識を持つことが重要。この2章は、聖書の神観を最高の確実さと簡潔さにおいて表現している。

第3章 神の永遠の聖定について
 改革派教会以外の教会では、はっきりと聖定や予定についての教理を教えないが、
改革派教会が特殊な案を創出したのではない
 聖書自身がはっきり教えている聖定ないし予定の教理を明確に把握し、確信し、心から告白している。この章は、「み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげている人々が、彼らの有効召命の確かさから
自分の永遠の選びを確信するように」(8節)読むことが大切。

第4章 創造について
 聖書の第1ページがまず「はじめに神は天と地とを創造された」というみ言葉で始まり、使徒言条が「われらは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まるように、神を創造者として認識することは、キリスト教信仰にとって重要である。

5章 摂理について
 キリスト教的有神論的世界観の基礎は、まず「無よりの創造」におかれているが、続けて支えたもう神の摂理にまで行くのでなければ、神が創造主であることの意味を正しくとらえていない。
この創造と摂理によって、聖書的・キリスト数的有神論的世界観は、汎神論(神と世界との同一化)、理神論(神と世界の分離→時計仕掛けのような世界)と区別し、または神を認めない世界観と対立する


Ⅲ.キリスト

第6章 人間の堕落と罪、およびその罰について

 罪を正しく把握し、罪の深い自覚がないと、キリストとその教いのみわざ、その救いの恵みについて正しい信仰が確立しない。

第7章 人間との神の契約について
 神と人間の関係は、創造者-被造者の関係を基礎として、アダムをかしらとするわざの契約か、キリストをかしらとする恵みの契約か、のどちらかの契約関係にある。

第8章 仲保者キリストについて
 キリスト教の中心点。キリストについては、歴史上様々な間違った解釈が出た(※信条の歴史参照)。


Ⅳ.聖 霊

第9章 自由意志について

 人間は自分で考え、欲求し、意志し、行動する。しかし、罪の状態に堕落してからは、神の恵みの有効召命によってでなければ、回心し、霊的善を意志し行えない。
「恩寵と自由意志」の問題は、中世神学を通じてずっと追求されてきた問題

第10章 有効召命について
 有効召命は、私たちの内に神の救いが実現する第一歩。日本の教会の中には、間違った聖霊の働き強調をする教会があるが、正しい聖霊観を持つことは、今日非常に重要。

第11章 義認について
 
聖書が「宗教改革の形式原理」と呼ばれるのに対し、信仰義認の教理は「宗教改革の内容(実質)原理」と呼ばれる。キリスト教が純粋の恩寵宗教である、福音的宗教であるということは、この信仰義認の教理に最も強く、鋭く、明瞭に現れている。

第12章 子とすることについて
 私たちが、キリストにある信仰によって父なる神の子であるということは言葉に言い表せないほど大きな驚くべき神の愛の賜物なのである。

第13章 聖化について
 義認と聖化は、救われた者には不可分に与えられる恵みである。義認の恵みは受けているが、聖化の恵みは受けていないなどというクリスチャンは一人もいない。また
「義認-養子」という恵みは、私たちと神との関係(身分)の変化に係わる恵みだが、「再生-聖化」という恵みは私たちの内になされる神の再創造のみわざである。

第14章 救拯的信仰について
 救拯的信仰(≒救いを与うる信仰)は、一時的信仰と違い、選ばれた神の民だけに与えられる真の信仰である。「あがないは、キリストがそれを買いとられたすべての人々に、確実に適用され、有効に伝達される。彼らは、時が来て、聖霊により、福音に従って、キリストを信じることができるようにされる」のである。

第15章 命に至る悔い改めについて
 悔い改めは、何か救いを得るための人間的なわざや律法的な行為ではない(罪の許しのために必要であるが、罪の許しの原因ではない)。信仰と同じく、悔改めも神の恵みの賜物であり、福音的恵みなのである。

第16章 よきわざについて
 この章は、よきわざがどういう意味で不要であり(役に立たず)、どう言う意味では絶対に必要であるかを明らかにした。
*福音主義的宗教改革的信仰は、ローマ教会の律法主義(よきわざによる救い)と、無律法主義(よきわざの生活に無関心)のニつの異端に対して戦わねばならなかったのである。

第17章 聖徒の堅忍について

 神は、一度わたしたちの内に始められた救いのみわざを、あらゆる障壁を打ち破り、突破してついに完成させて下さる。私たちが、誘惑に抵抗し、疑い迷いと戦ってこれを切り披けていく行くために、神の約束を信頼し、神の警告に耳を傾け、目を覚まして祈りつつ戦っていく時に、真の確信の根拠を与えてくれるのがこの教理。

第18章 恵みの救いの確信について

 17章と本章は、表裏一体。17章では、真の信仰者が、神のみ力により信仰を通して救いの完成に至るまで保持されるという客観面の真理が、18章では、真の信仰者は、恵みの状態にあり、またその状態で救いに至るまで保たれるということを、この世にいる間に、誰でも間違いなく確信することができる恵みを与えられるという主観面の真理が教えられている。


Ⅴ.倫 理

第19章 神の律法について

 物事を相対的に考えるような現代社会では、神の律法をはっきり語ることは重要。生活の規準、十戒の中に要約されている道徳律法は、神と人、人と人との根本的関係、道徳秩序を規定し、いつの時代でも、何人によってでも守られなければならない。
 しかし、救われるために律法を守る
律法主義を警戒し、同時に救われていると言いつつ律法を守らない無律法主義を否定する。救われた者の感謝として、熱心に神の律法を守るのである。

第20章 キリスト者の自由および良心の自由について
 キリスト者の自由の本質は、「キリストが信者のために買い取られた自由」である(これは、政治的な自由や経済的な自由といった一般的自由と区別されて、ただキリストを信ずる者だけがあずかりうる自由。また、
「人間の良心」は究極的には神のみ言葉にのみ責任を負う)。

*ルターが1521年4月、ヴォルムスの国会において、ローマ・カトリック教会の審問官たちから、宗教改革的著作の撤回を迫られた時述べたという言葉。
「わたしは聖書の証明、または明白な論拠によって心服させられない限り-法王と教会会議とは、今までしばしば誤りを犯しているので信頼いたしません-また聖書から正当なる理由を示されない限り、わたしは何ものをも撤回することは出来ませんし、撤回しようとも思っていません。わたしの良心は、聖書にとらえられています。わたしは聖書にさからうことは出来ません。神よ、わたしを助けて下さい。アーメン」。

第21章 宗教的礼拝および安息日について

 クリスチャンの生活の出発点に神礼拝があり、中心に神礼拝があり、目標に神礼拝がある。クリスチャンの人生は、礼拝的人生である。

*この章は、英国教会の礼拝を"ローマカトリックの残渣"から清めようとするピューリタンの戦いが反映されている。当時のイングランドは制度上国教会主義であり、全住民は国教会の礼拝への出席が法的に義務づけられていたので、ピューリタンも午前中は不本意ながらも国教会への礼拝に出席した。そして、午後はピューリタン信仰を持つ者の家に集って礼拝をした。
 これに対し、国王ジェームズ一世は、「律法の認めるスポーツに関する王の臣民への布告」を出し、日曜の午後はスポーツをするようにすすめる。これは、ピューリタンの日曜午後の礼拝と説教の働きを抑制しようとする攻撃であった。このような背景の中で、ウ信条が作成され、この章の日曜安息日主義の主張は、自分たちの礼拝を守るためゆずれない主張だったのである。

第22章 合法的宣誓と誓願について
「宣誓」は、日常生活にあまり関係ないが、それだけに無分別に乱用されてはならない。また日本では「願かけ」という迷信があり、「誓願」もよく学ぶ必要がある。

第23章 国家的為政者について
 本章は、歴史的、理論的、実際的問題がからみ、色々複雑な問題が含まれている。
教会は特別恩寵の秩序(罪からの霊的な、永遠的な救いを与えるためにたてられた秩序)、国家は一般恩寵の秩序(現世的秩序で、入間の罪の力を抑制し社会秩序を保持するために定められた秩序=教会も国家も、いずれも人間が罪を犯した結果必要となったもので罪からの救済手段として神がり・えられた秩序)に属している。教会と国家はこういう意味でまったく異なっていながら、互いに補足的な役割を持っている。

ウェストミンスター信仰告白では、絶対非戦論の立場を取っていない。これは、信条の歴史で学んだように、イングランドでは当時議会軍と国王軍との内戦状態にあり、そう言う背景で書かれた信仰告白であるため、「正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる」と言っている。もちろん、何か正しくやむをえない戦争かを判断するのは、容易ではない(いつの世の戦争でも、双方が大義名分を持っている)。

*また、ウェストミンスター信仰告白には、次のような時代的問題があった。エラスチャニズム(教会的諸問題における国家の支配権を主張する思想)と、ウルトラモンタニズム(国家が教会の下にあるとする法王絶対権論)。これに対し、ウェストミンスター信仰告白は、政教分離の立場を取っている。

第24章結婚と離婚について
 
「家庭と教会と国家」は、神によってたてられた三つの根本的な制度。家庭は創造の秩序(人が神の像にかたどって創造された時に定められた秩序)。結婚は、神ご自身が定められ、神ご自身が祝福された制度で、ひとりの男子とひとりの女子との間の、終生にわたる、霊的精神的、肉体的、すなわち全人格的な愛の一致、愛の交わりである。これは、地上限りのものだが、永遠の生命の恵みを共々に受け継ぐ者として、共に愛し、共に尊ぶ交わり。結婚が、独身生活より劣ったこと、聖くないことのように考えるカトリック的考えは間違いとした。

Ⅵ.教 会

第25章 教会について

 公同の普遍的な教会は、民族的、場所的、時代的制約を突破して、歴史と世界の全体を包み、天と地を貫いて存在している。
見えない教会と見える教会は、一つの教会の二つの面である。教会判定の規準は一つ、教会のかしらである主イエス・キリストのみ言葉である聖書以外にない。み言葉がはっきりと宣べられ、信ぜられ、生活されるところ、そこに教会は、見えるものとなる。

*この章は、やはりローマ・カトリック教会や英国聖公会の間違った教理に対する正しい信仰告白としてなされている。ローマ・カトリックも聖公会も、見えない教会のかしらとしてのキリストは告白するが、見える教会のかしらはローマ教皇であり、又英国皇帝だとする。しかし、教会にはひとりの頭(かしら)しかいない。この主イエスが、み言葉とみ霊により、ご自分が立てたもうた教会役員を通して教会を治めたもう。

第26章 聖徒の交わりについて
 「聖徒の交わり」には、キリストとその救いの恵みにあずかるという垂直の次元と、キリストから与えられた賜物を全体の益のために、クリスチャン同志が共に分け合うという水平の次元が、同時にある。かしらであるキリス卜に、体である教会がしっかりと結びつき、キリストから流れ出る生命が体の肢々にまで行き渡り、肢々相互の助け合いと協力という形で活発に働く時、初めて健全な教会成長がある。

第27章 礼典について
 キリストが制定された聖礼典は、私たちの信仰をはぐくむために絶大な益を与える。

*やはり、ローマ・カトリックへの批判、反論がなされている。礼典の効力は、礼典のしるしそのものに含まれているのでもなく、礼典執行者の信仰に基づくのでもない。礼典を制定されたキリストの祝福と信仰によって、礼典にあずかる人々の中に働くキリストのみ霊の働きが、礼典を有効にする。

*また、ローマ・カトリックは7つの礼典(洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻という7つの秘跡)を主張するが、
洗礼と聖餐以外は主イエス・キリストが直接命じられた新しい契約の礼典でなく、キリストと救いの恵みを伝達する手段ではない。

第28章 洗礼について
 主イエスが定めた。私たちの決意に先行する、変わることのない神の恩寵のしるし。

*ローマ・カトリックの言うような洗礼を受けなければ人は救われないという意味の必然性はないが、恩寵の手段としてキリストご自身が定めて下さったのだから、洗礼をみ言葉に従って正しく用いることは神の栄光を顕し、私たちの信仰に役立つ。

第29章 主の晩餐について
 主イエスが定めた。耳で聞くみ言葉に対し、目で見て舌で味わう聖餐。

*ローマ・カトリック教会もプロテスタント教会も、聖餐におけるキリストの肉と血による現実存在を信じた。しかし、カトリックは化体説(※聖体拝領。パンとぶどう酒が、現実に肉と血に変わる)、ルーテル派は実体共在説(※キリストの体と血が、身体的・肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共にある)をとるのに対して、本章は反論した。

第30章 教会の譴責について
 今日で言われるところの「教会戒規」。もともとは、戒規や規律や訓練などの意味。

第31章 地方会議と総会議について
 聖書から導き出された会議の形態。改革派教会では、一般的に、大会や中会、小会を持つ。

*当時は、為政者(国王)が会議を招集。スコットランドにおいてさえ、エリザベス女王の開会宣言の下、長老教会の大会が始まった。


Ⅶ.終 末

第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について

 キリスト教信仰と生活にとって、終末信仰は本質的な重要性を持っている。

*今日の日本のキリスト教会の無力は、正しく終末信仰に生きていないところに一つの大きな原因があるのでは。また、世紀末や社会の混乱期には、いつの世も必ず流言が飛び交うので、正しい知識が必要。

*カトリックの煉獄やリンボ思想は、非聖書的で誤りであり、本信仰告白はこれを否定する。

第33章 最後の審判について
 キリスト再臨後、死人の復活と最後の審判がある。私たちは、ひたすら再び来たりたもう栄光の主を待ち望み、目を覚まして信仰生活に励む。主イエスよ、来たりませ。


(2008年 4月20日記載)



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