キリスト教の信条とその歴史

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6.信条の歴史5/改革派教会の歴史Ⅱ 及び ウェストミンスター信仰告白作成の背景

1.スコットランド系アイルランド長老教会

・最初の指導者は、パトリック。ローマ教会とは無関係で、ケルト教会と呼ばれる。

パトリック…317年頃、スコットランドに生まれる。16歳の時、奴隷としてアイルランドヘ。
      そこで、キリスト教に接する。ただし、パトリックは、伝説に包まれている。

1170年 
アイルランドは、ローマ教会の国となる(350年間)。

1534年 
ヘンリー八世の「首長令」 ⇒ アイルランドは拒絶。それ以来紛争が続く。
      ジェームズ一世は、この解決策を、フランシス・ベーコンヘ相談。
      英国本土のプロテスタント(しかも多くがイングランドとスコットランドの宿敵同士で粗野な男女)を、
      アイルランドヘ移住(※アルスター植民)させる。
      (しかし今日に至るまで激しい対立を生じ、両者の間では決して結婚はなされず禁じられている)。

チャールズ一世は、アイルランドにも圧迫の手を伸ばした。
悪名高いトマス・ウェントワースがアイルランド総督に任命される。
暗黒誓約」(Black Oath)(=正式名「聖福音書記者にかけて誓う誓約」)への署名要求。
 内容→・チャールズ一世への全き忠誠を捧げる事。王の命令には、絶対服従。
    ・スコットランドと結んだ一切の誓約を破棄すること。

    ⇒多くの者は署名を拒否し、鎖につながれ地下牢へ投げ込まれたり逃亡した。

1640年 ウェントワースの惨虐行為がひどすぎ、長期議会に召喚され処刑される。


1641年 その後、南アイルランドのローマ教徒が、北アイルランドの長老派の人々を攻撃。
      
教会の歴史に、その比を見出せないような恐ろしい方法で大虐殺を始め、数年間に
      何万人もの長老派の人々が殺される。


 英国議会は、暴動鎮圧と大虐殺阻止の為、一万人の兵士を派遣。多くは長老派の人々で、従軍牧師は軍隊以外に北アイルランドの長老派移民にも福音を伝えた。

1642年6月10日 アイルランド初の中会を組織(5人の牧師と4入の長老)。

 アイルランドに多くの牧師派遣の要請 ⇒ 6人をアイルランドヘ派遣。

6人の牧師は、北アイルランド各地で福音を伝え、各地に長老教会を建設した。
1660年頃には、80の長老教会、70人の牧師、5中会、10万人の会員に発展した。
*しかし、全般的に北アイルランド系の人々の大半は幸福になく、近隣アイルランド人の侵略の危険にさらされ、
 英国の政治混乱に基づく戦争の戦場となった。

1702年 ウィリアムの死後、ジェームズⅡ世の娘アンが即位。
      
「審査令」(Test Act)発令。
      公職に就く者は、3ヶ月以内に英国国教会の祈祷書に基づく聖餐式を受けることを要求される。
      その他、北アイルランドの輸出物には高い関税を掛けられ、数年も飢饉が続く。

⇒・北アイルランドの長老派の人々は、大量にアメリカヘ移住し始める。
  1705~1775年に少なくとも50万人が移住。何故、彼らがアメリカ独立の為に戦ったかの理解には、
  この北アイルランドの壮絶な苦しみを知る事が鍵となろう。

 ・今日のアイルランド教会は、600以上の教会と、15万人の会員がいる。
  長い戦いを通じて、世界の長老教会で最も保守的な教会の一つとなっている


2.スコットランドの長老教会
  (スコットランドの教会は、イングランドの教会やウェストミンスター信条作成に密接に関係していく)

・古代スコットランドのキリスト教

 かなり早くに、キリスト教が伝えられた。記録上の最初の指導者はコルンバヌス(約563年頃)。彼は、アイルランドからスコットランドに来て、アイオナ島(スコットランド西海岸)を根拠地にして、弟子達はスコットランド地方に伝道した(ローマ教会とは何の関係もない)。
 ニ世紀後、スコットランド東海岸から伝道した-指導者は聖アンデレと言う人。信徒はクルディ(Culdees)と呼ばれる(やはりローマ教会とは関係ない)。

・スコットランドのローマ教会化(1150年頃、400年間)
 →スコッランド王マルカムが、サクソン王マーガレット(ローマ教徒)と結婚。
  スコットランドは、ローマ教会の国となる(社会に無知、迷信、邪悪化傾向が生じていく)。

・宗教改革の夜明け

☆パトリック・ハミルトン(フランスとドイツに留学後、聖アンドルーズ大学の教師を務める)

  プロテスタントの教理を教え、説教を始める。
  1528年2月28日 ローマ教会大主教ジェームズ・ビートンの要求で、逮捕・焚刑に処される。

☆ジョージ・ウイシャート(ケンブリッジ大、コープス・クリスティ・カレッジで教える)

  プロテスタントの教理を説教(ジョン・ノックスが両刃の剣を持ち野次馬から守った)。
  1546年3月1日 枢機卿デビィッド・ビートンによって、逮捕・焚刑に処される。
 (1546年5月29日 粗暴な二、三人がビートンを殺害(聖アンドルーズ城内))。

☆ジョン・ノックス

 聖アンドルーズ城へ逃げ込んだプロテスタントが、ジョン・ノックス(彼の出生や生い立ちについてはよくわかっていない)を説教者に。その後、ノックスはフランス船の奴隷となる。後イングランドヘ行き、エドワード六世の宮廷牧師となる。
 メアリー一世が  プロテスタントを焚刑にすると、ノックスらは5年間欧州大陸へ亡命。彼は、3年をカルヴァンの下で過ごし、カルヴァン主義長老主義を学ぶ。ジュネーブで、亡命英国人の教会を作り牧師となる。

1559年 ノックス、スコットランドヘ帰国し、宗教改革指導者になる。長老教会を組織する。

1560年8月 スコットランド議会は、ローマ教会の信仰を廃棄し、改革派信仰を受け入れて、
      「
スコットランド信仰告白」をつくる。
      →長老教会がスコットランドの国教会(The established church of Scotland)となる。

1560年12月 スコットランド第一回長老教会総会(牧師6名、治会長老36名)
      「
訓練規程」(Book of Disiplin=キリスト教教育、貧しい大への対策、道徳など)
      →大部分が、ノックスの作。

 ノックスの後、アンドリュー・メルヴィル(ノックス以上に学問を積み、ジュネープでカルヴァン主義を学んだ)が指導者となり、より徹底した長老教会とした。ジェームズ一世(元六世)は、彼をロンドン垠に幽閉。国外追放とする。 1622年に死亡するまで、神学校(フランスのセダン)で教える。

余談・・・メルヴィルが、ある日王の袖をつかまえて言った言葉

「王よ、以前わたしが幾度か申し上げたように、今、再び申し上げなければなりません。スコットランドには二つの王国と二人の王があります。すなわち、国家の頭であるジェームズ王と教会の王であるイエス・キリストです。このキリストの王国では、あなたは王でも、頭でも、君主でもなく、ただ一会員にすぎません。わたしたちはあなたの地位を認め、あなたにふさわしい服従を捧げます。しかし、再び申し上げますが、あなたは教会の頭ではありません」。

国民誓約 (NationaI Covenant)

1637年  英国国教会式礼拝の押しつけへ反対。この事件に対して、命懸けで助け合うため、
       全スコットランドが長老主義信仰を(多くは自分の血で)署名。

1638年  長老教会総会により、アレキサンダー・ヘンダーソンは、
       ジェームズ王とチャールズ王の強制した監督制度を追放。
       ⇒これに対し、チャールズ王は、スコットランドに軍隊を派遣する準備を始める。
       議会は戦争に反対。内乱となり、クロムウェル指揮の下に議会が勝利する(以後、しばらく共和制)。

1649年  チャールズ王処刑される。

 スコットランドは、チャールズの王子を国民誓約に署名させて、チャールズニ世として迎える。チャールズニ世は、誓約を破り、厳しい法を制定し取り締まる。長老派再び「国民誓約」で団結するが、「契約者」の無数の男女、子供が拷問にあい、虐殺される。

1685年  チャールズニ世の死後、ジェームズニ世が、イングランドとスコットランドの国王になる。

1688年  ジェームズニ世の追放 
「名誉革命」(Glorious Revolution)
       ウィリアム(沈黙公・オレンジ公ヴィレムの子孫)とメアリの統治。

1689年  
「寛容令」(Teleration Act)が議会を通過。

1712年  
「聖職推挙令」(The Lay Patronage Act)
        →少数の財産所有者が牧師となれる。 ⇒ 教会分裂の原因

・スコット教会の分裂

1733年  エーベニーザー・アースキン、「聖職推挙令」に抗議。
       同僚の牧師→「協力中会」(Associate Presbytery)を作る。

1752年  トマス・ギレスピ、「聖職推挙令」に反対し「救済大会」を作る。

1843年  トマス・チャーマス、「聖職推挙令」に反対し、「大分裂」(Grerat Disruption)
       472名の同僚牧師と離脱 ⇒ スコットランド自由教会(The Free Church of Scotland)を作る。

1847年  「救済大会」、「協力中会」から離脱した人々が合同。
       ⇒「合同長老教会」(The united Presbyterian Church)を作る。

1900年  スコットランド自由教会と合同長老教会が合同。
       ⇒「スコットランド合同自由教会」(The united Free Church ofScotland)を作る。
       (自由教会の25人が反対)。

1929年  スコットランド教会とスコットランド合同自由教会が合併。
       ⇒「スコットランド教会」(The Church of Scotland)となる。


 スコットランドの長老教会は海外にある長老教会の母であるといわれる。アイルラ ンドの長老教会、アメリカ合衆国の長老教会、オーストラリアの長老教会、南アフリカの長老教会、さらに海外にある多くの長老教会は、ジョン・ノックスによって建てられたスコットランド長老教会の枝である。
 そして、このスコットランド長老教会は ジュネーブでカルヴァンから直接に長老主義を学んだノックスによって建てられた点で、深くカルヴァンと結びついている。

3.イングランドの長老教会 (ウェストミンスター信仰告白の作られた背景)

イングランドと宗教改革


1534年  
「首長令」(Act of Supremacy)
       (以前述べた様に、結婚をローマ法皇に断られたのが一因で)
       ヘンリー八世の下、ローマ法皇の代りに国王をイングランド教会の首長とする。
       →しかし教理、礼拝形式に変化なくジュネーブの様な本当の改革はない。

1547年  ヘンリー八世の死去後、エドワード六世の即位。教会の首長に就く。
       「39箇条信条」(Thirty-Nine of Articles)と、
       「聖公会祈祷書」(The Book of Common Prayer)の作成をする。

1553年  エドワード六世死去で、改革は挫折。後継者は、メアリ・テューダー(※血まみれのメアリ)

 メアリは、英国をローマ教会へ復帰させる。その結果、大司教他、大勢が焚刑となり、プロテスタントは大陸へ亡命した。多数は、ジュネープヘ行き、カルヴァンの感化を受ける(カルヴァン主義神学、長老主義について学ぶ)。ジュネーブに長老教会を設立し、ジョン・ノックスを牧師として迎える。

1558年  メアリ死去。女王エリザベス一世が即位。「首長令」を復活させる。
       →プロテスタント亡命者に帰国を許可。
        亡命者は、ジュネーブ聖書、カルヴァン主義神学、長老主義を持ち帰る。

帰国亡命者 ⇒ 英国国教会は、聖書的な教会政治の形態、礼拝形式、教理、生活をなすべきと主張する。
        (彼らは1565年頃からピューリタンと呼ばれる)。

1603年  エリザベス女王死去。スコットランド王ジェームズ六世(血まみれメアリの子)が、
       スコットランドとイングランドの両国の王となり、ジェームズ一世と名のる。
       ジェームズ一世は、ピューリタンの弾圧を開始し、一部のピューリタンは北米へ亡命。

1625年  チャールズ一世(ジェームズ一世の子)が即位。
       彼とカンタベリーの大主教ウィリアム・ロードは、スコットランド長老教会を服従させよう
       (詳しくは、スコットランドの長老教会の章で見た通り)として、チャールズがスコットランドに
       軍隊を派遣するため、兵員と軍用資金の確保の為の独裁政治の為に、議員を選挙する。
       ⇒しかし意に反して、民衆が多数のピューリタン議員を選ぶ(短期議会)。

       チャールズはもう一度選挙を行うが、より多くのピューリタン議員が誕生する。

      
その後、英国は"国王の軍隊"と"議会軍"の内戦となる。


 ピューリタン議会は、75年にわたり、「英国の教会は、より純粋な聖書的な教会政治の形態、より純粋な教理、より純粋な礼拝の形式、より純粋なキリスト教生活を持つべ きと主張してきた。
「神学者のウェストミンスター会議」を召集。
 牧師121名、下院議員20名、上院議員10名の計151名で構成。
(牧師は2名を除き、英国国教会の按手を受けた牧師で、ほとんど全部ピューリタンでカルヴァン主義者だった)。

1643年7月1日 ロンドンのウェストミンスター寺院にて一回目の会議が開催された。

現代のウェストミンスター教会(撮影 by JOLLYBOY)

その後、5年6ヶ月22日続き、1、163回の全体会議を開催した。その他、多くの委員会と小委員会を開催した。

⇒内戦が議会軍に不利になり会議が進展せず、スコットランドに援助を求める。
 スコットランドは「厳粛同盟」(Solemn League and Covenant)への署名を条件に、援軍を送る。
 また、スコットランドの長老派も、ウェストミンスター会議に代表団を派遣する合意を得る。
 (4名の牧師と、2名の長老が派遣される。投票はしなかったが、会議に大きな影響を与えた)。

ウェストミンスター会議と国会の全議員が、「厳粛同盟」に署名。

「スコットランド長老教会の存続と防衛、また『イングランドとアイルランドの教会を神のみ言に従って、教理、教会政治、礼拝と戒規の面で改革し、最も良く改革された教会、すなわち模範となるべき教会を作り上げること』」を堅く誓約した。

1643年9月  スコットランドの代表団が到着して、大きな変化が生じる。
       
「39箇条信条」の改訂を捨て、英国国教会を根底から改革することになった。

*ウェストミンスター会議は、優れた神学者の集いであると同時に、キリスト教史上、まれに見る敬虔な人たちの集いでもあり、多くの時間を祈祷に用い、すべてのことが敬虔の念に満たされていた。会議でできた各文書は、「敬虔な助言」として議会へ送付された。議会も、時間をかけてこれを討論した。

余 談1
 スコットランド代表団の一人ロバート・ベーリーが言いた、断食と祈縫で過ごした一日のこと(彼はこの日がイングランドでの最も楽しい日だったの述べる)。
「ツヴァイゼ博士の短い祈祷文で始まり、マーシャル氏が驚く程感動に満ち、また思慮深い態度で議員の罪を神の御前に告白し二時間祈祷を捧げ、その後、アローウスミス氏が一時間説教し、詩篇を歌い、ウィン氏が二時間近く祈り、ハルモア氏が一時間説教し、シィマン氏が二時間近く祈り、詩篇を歌い、その後、ヘンダーソン氏が会議の改めるべき欠点を討議する短い会を司会し、ツヴァイゼ博士の短い祈りと祝躊で閉会した。神がすべてのことの中に臨在しておられたので、わたしたちは会議と神の国に伸の祝福が必ず与えられると信じて疑わなかった」。

余 談2
 スコットランド人W.M.マックファイル牧師が著作「長老教会」の中で述べた「詩篇歌」に関する著述。
「公同礼拝では詩篇だけを歌うべきだと言いだしたのは、スコヅトランドの長老派ではなく、英国の会衆派です。スコットランド教会がその礼拝式文と共にその教会の賛美歌をも捨て、かなりの改訂をした上ではありますがフランシス・ラウスの韻律体詩篇を採用したのは、会衆派の人びとの希望をかなえてあげたいと言うことに原囚があったのです。歴史は皮肉なものです。イングランドのピューリタンを喜ばせたいという理由だけでスコットランド教会が採用したこの英語詩篇歌集は以後『スコットランド詩篇歌集』と呼ばれています。近年、スコットランド型の長老教会の中の賛美歌愛好家は、1650年スコットランド教会がイングランドの盟友を喜ばせるために、未練を持ちながら、捨てた賛美歌を復活させたいと思っています。しかし、かれらは、世間の習慣という途方もない強い障害と戦うことを余儀なくされているのです」。

1644年12月  「公同礼拝指針」(Directory for Public Worship of God)完成。
(1645年1月  議会で承認され、以後教会の礼拝において「祈祷書」に代り用いられる)

1644年11月  
「政治規準」(Form of Church Goverment and ordination)完成。
(1648年  議会で承認される。監督政治に代り、長老主義政治が誕生した)。

1645年11月  
「詩篇歌」(Psalter)承認。 (その後、改訂の上スコットランド長老教会もこれを採択)。

1646年12月  
「信仰告白」完成。(1648年3月 議会承認)。

1647年 秋 
 「大・小教理問答書」完成。(1648年9月 議会承認)。

 イングランドの教会は、名目上は長老教会となりましたが、二千人の国教会牧師が拒否し、教会と牧師館から追放された(議会は、追放された牧師に1/5の給与支給措置を採った)。長老主義は、民衆の心を捉えられず、結果として監督政治に復帰することとなる。

 内戦については、スコットランドの援助で、オリヴァー・クロムウェルに指揮された議会軍によって、チャールズとその軍隊に完勝した。1649年1月、チャールズは処刑された。クロムウェルを護民官とする共和政治が樹々した。1658年、クロムウェル死去。1660年、チャールズニ世が、イングランドとスコットランドの王となった。

1662年  「統一令」(Act of Uniforlity)
       →チャールズニ世により、英国国教会は監督政治に復帰。
        以前の政治と礼拝形式を強制する厳しい法律が議会を通過する。
        同意しなかった二千人の長老教会の牧師は、教会と牧師館から追放される。

1665年  
「5マイル条令」(Five Mile Act)
       →追放された牧師は、前任地より5マイル以内に立ち入り禁止になる。

1661年  
「地方自治体法」(Corporation Act)
       →非国教会牧師は、教師に転職できなくなる。

 その後、「寛容令」(1689年)の発動後でも長老主義は中心・大会を組織できずに衰退するが、19世紀には、イングランドの長老主義者の間に福音的復興運動が起こる。

1876年  「英国長老教会」(The Preshyterian Church of England)結成。
       →当時、270の教会と、5万人の教会員を有した。
        今日では、7万5千人の会員を持ち、ケンブリッジに神学校を持つ。
                         (ウェストミンスター神学大学と呼ばれる)。

余 談
 スコットランド長老教会は、ウェストミンスター規準ができるとすぐ採用した。ウ会議には、牧師が4名しか出席していなかったにも関わらず、ノックス以来保持していた信仰告白、教理問答、政治規準、礼拝指針、詩篇歌と賛美歌を廃棄し、ウ信仰告白、ウ大・小教理問答、政治規準、礼拝指針、詩篇歌を採用した。
 理由は、このウ信仰規準がすぐれた価値を持っていたため、そして、このウ信仰規準が、イングランド、スコットランド、アイルランドの長老派の合同を促進すると信じていたためである。
 この夢は、イングランドで長老主義が廃棄されたため実現しなかったが、ウ信仰規準は、スコットランド長老派の人々の移民と伝道により、北アイルランド、アメリカ、ニュージーランド、南アフリカ他多くの国に伝えられた。


(2008年 2月17日記載)



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