キリスト教の信条とその歴史
入口 >トップメニュー >キリスト教研究 >信条とその歴史 >現ページ
3.信条の歴史2/ローマ・カトリック教会の歴史と信条
①ローマ帝国の分裂
248年 東西に分裂-やがて、それぞれに皇帝と副帝がおかれ四分される
313年 コンスタンティヌス帝、ミラノでキリスト教を公認
324年 コンスタンティヌス帝、首都をビザンティウムに移し、コンスタンティウムと改名
395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂
東(ギリシャ教会=皇帝酋長主義) ⇒主知主義、伝承継承
西(ローマ教会一皇帝権からの独立)⇒宗教国家、式典尊重
②ペラギウス論争(西方教会)
☆ペラギウスの説 ・人間は、アダムの堕落を受け継いでいない。
・人は、自分の救いのために正しい生活を送れる。
↑
↓
☆アウグスティヌス ・人間は全く堕落していて、意志の自由を失っているので、
恩寵によらなければ救われることはできない。
421年 エペソ会議にて、ペラギウス説は否定される
☆カシアヌス(ペラギウスの弟子)=セミ(半)ペラギウス主義
・人間の意志と神の意志とが協力して人は救われる
・人間は自分の救いのために神に協力をする
529年 オレンジ会議(西方教会のみ)にて、セミぺラギウス主義の一応の否定?
⇒実際には否定になっておらず、この後ずっとローマ教会に、セミ・ペラギウス主義が残り、
トリエント総会議の信仰告白では復権してしまう
③当時のキリスト教会
五つの監督区=ローマ、コンスタンティノープル、アレキサンドリア、カイザリア、エルサレム
(西方教会はローマ監督区のみ)
※監督の順位は、ローマが一位で、コンスタンティノープルが二位
⇒コンスタンティノープルの不満(教会分裂の一因)
④キリスト教の偶像礼拝
キリスト教で行われていた偶像礼拝が、イスラムに非難される(ペルシャと東ローマ)
726年 皇帝レオ三世(東方教会の首長)
「絵画、彫像にひざまづくことを禁止」
→しかし教会、民衆、西ローマ帝国、西方教会が反対
788年 第七回・世界会議にて、画像礼拝の承認
→東ローマ帝国では、キリスト教会は画像礼拝を禁止できなくなる
(彫像礼拝は禁止。西方教会では、今でも両方が行われている)
783年 皇帝一派は画像礼拝禁止を企てるが、民衆の反抗を恐れて画像礼拝を承認する
843年 聖ソフィア礼拝堂において、正統祝祭を執行&皇帝の名において「ギリシャ正統教会」設立を宣言
⑤ローマカトリック教会の会議と信仰告白
1540~50年 トリエント総会議(ローマカトリックを決定したもの)
「トリエント信仰告白」(中世正統神学を教理化)
・義認について ・聖餐について ・改後について
・ミサ聖餐について ・聖人への祈願について ・赦免について
1854年(ビウス九世)「無原罪の御宿り」の教理化
・アンセルム(11cカンタベリー人主教、第一級神学者で指導者)
→マリヤは、罪の中にはらまれて生まれた
・ペルナルドウス(12cドミニコ教団)
→マリヤは罪の中にはらまれたが、生まれる前に清められた
・フランシスコ教団→マリヤは、原罪なくして宿った
1869年 第一バチカン公会議 「教皇無謬説」布告
→「ローマ教会が教皇の座から、聖ペテロにおいて彼に約束された神の助力を通して語る時に、
教皇は不可謬である」とした。
*これ以降、教会会議の必要はなくなり、教皇の回勅となる。
1950年 教皇の回勅布告 「マリヤは生きたままで昇天した」
1962~64年 第ニバチカン公会議
→司教たちの比重を高める&ローマ教会の現代化のための大改革
⑥ローマ教会の略史のまとめと、宗教改革への流れ
Ⅰ.使徒の死後、いくつかの教会で一人の長老が、他の長老たちより優れた地位を占めて「監督」と
呼ばれるようになった。最初、監督は一つの教会だけの監督であったが、中心となる大教会の監督が、
地方の教会の監督よりも重要で目立つ存在となってくる。
かなりの数の教会を監督する「教区主教」(bishop of a diocese)が生まれた。
キプリアヌスが「使徒伝承」(使徒たちは監督であり、後継の監督を任命した)を論ずる。
やがて「教区主教間」の平等も崩れ、首都の監督は「府主教」(Metropolitans.Metropolitan
bishop.Archbishop)と呼ばれる。その上さらに、「総主教」(Patriachs)が現れ
(五人-ローマ、コンスタンティノープル、アレキサンドリア、アンテオケ、エルサレム)て、
誰が一番偉大かのローマ対コンスタンティノープルの争いで、ローマの総主教が勝ち、
「ローマ法皇」として知られるようになった。
Ⅱ.ローマ法皇の権力は絶大なものとなり、ヒルデブラントの時に全盛となった
(1073年ローマ法皇グレゴリウス七世となった)。法皇が全教会の酋長であり、世俗の権力を保持し、
国王を即位・廃位させる権威があると主張。この頃までに、ローマ・カトリック教会の特徴を完備し、
初代教会には見られぬ事柄を強調し、新約聖書の教会からはなはだしく逸脱した。
恩寵による救いより、7つの礼典(洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻)にあずかることにより
救われると強く教える。「煉獄の教理」が信条となり、聖書にない教理、習慣、迷信が持ち込まれた。
礼拝が儀式主義、マリヤと諸聖人への祈願が重要な地位を占め、教会堂には聖画や像か満ちあふれた。
Ⅲ.しかし、ローマ教会に属しない信者のグループや、抗議して教会の改革に努力した幾つかの団体もあった。
その独立グループとは、2、3世紀の小アジアと、北アフリカのモンタノス主義、5世紀のスコットランドと
アイルランドのケルト人教会、8世紀から数世紀続いたスコットランドのカルヂー教徒(禁欲主義)、
今日まで続いている南東フランスとイタリアのワルドー派など(※これらは当時のローマ教会に抗議や改革に
努力したが、一方で彼等が正統的であるとか正しいと言う事を決して意味しているわけではない)。
又、1000年~1500年の間のローマ教会にも、新約聖書時代の教会に戻そうとするグループがあった
(イエズス会等は、これに含まれるだろう)。
Ⅳ.しかし、結局は上記のグループは、ローマ教会の流れを変えられなかった。
本当の改革は、「宗教改革」を待つことになる。「宗教改革」の先駆者は、英国のジョン・ウィクリフや
ボヘミヤのヨハネス・フスら。
本当の宗教改革は、1517年10月31日(これが宗教改革記念日の始まり)にマルチン・ルターが、ドイツの
ヴィッテンベルグの「城教会」の戸に95箇条(ローマ教会の教理と実践への抗議)を釘付けした時より始まる
(※プロテスタント=抗議する者の意)。そこから始まる信仰者達や教会の戦いを、次回から取り上げる。
(2007年 9月23日記載)
新品価格
¥4,104から
(2014/11/18 10:33時点)
新品価格
¥3,456から
(2014/11/18 10:34時点)
新品価格
¥2,484から
(2014/11/18 10:37時点)
ローマ教皇史―受難の初代教会時代から現代まで歴代教皇を中心に描くローマ・カトリック二千年の歴史 (教育社歴史新書―西洋史)
中古価格
¥284から
(2014/11/18 10:35時点)