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草加せんべいの歴史
草加がどこの県にあるかを知らない人でも、草加煎餅(せんべい)の存在は知っています。これほど、日本中に知られているお菓子は、広島の紅葉饅頭、京都の八橋、浜名湖名産うなぎパイ等数えるほどで、決して多くはありません。草加煎餅は、日本の"名産お菓子"ベスト5に必ずや入る一品だと思います。
私の住む草加では、小学生の時に「草加せんべいがどうして作られるようになったか」という話を授業で聞きました(少なくとも私は聞きました)。郷土の名産の由来は、やはり知っておくべきだという学校側の配慮なのでしょうか。おかげさまで、地元では「草加せんべいの由来」を知っている人は多いのです。
駅前にある煎餅を焼く女性(おせんさん)の像
今より参百年の昔、日光街道の草加宿松原に"お仙(せん)"というお婆さんが、茶店を出して団子を売っておりました。名物松原団子として、往来の人たちにたいへん親しまれておりましたが、毎日夕方になると残った団子を前の川に捨てておりました。ある日武者修業の侍が立ち際に「婆さん。捨てる団子はつぶして平たくして天日で乾かして、焼き餅として売ったらどうだ」と教えました(たぶん、武士の保存食の智恵かな?)。お仙婆さんは、それを早速売り出したところ、お客に喜ばれたとのことです(おせんさんの餅(もち=べい)で「せんべい」(←すみません。この辺は子供の頃の記憶が曖昧で、あんまり確信がありません)。こうして日光街道に増えた名物の一つが、今の草加せんべいの元祖と伝えられています。…と言うようなことを習ったわけですが、これは伝説で、実際は戦に持って行く武士の食料(保存食)としての乾餅(別名"堅餅")が起源との説もあります。煎餅自体に関して言えばは、今から1,200年ほど前に弘法大師が中国から持ち帰ったものが起源とされていますが、今となっては形も味も知る由がありません。が、その伝えられた製法によって各地に広がって作られるようになったようです(※山香煎餅本舗HP参照)。
草加煎餅自体に関して言えば、この地域が江戸市民にとって重要な米産地になってきて、その農民が米を粉をひいて蒸して練ってついて伸ばし、塩をまぶして焼いたものを、仕事の合い間などに食べていたようです。これが領内巡視中の家康公の目に留まり、「事ある時の保存食としても良い」とお褒めの言葉をいただいたとか。この農家のおやつの塩せんべいが、日光街道宿場町として草加が栄えるようになると、商品となっていったそうです(※草加丸草一福HP参照)。
僕の小学校時代、クラスに煎餅屋さんの同級生が何人かいて、煎餅は生活ととても密着していました。"私達の煎餅"という意識が、僕にはあります。今は、草加煎餅というブランド(名前)が一人歩きしていて、東京や栃木で作っても「草加煎餅」とネーミングしています。ワインでは、原産地統制名称があって、シャンパーニュ地方で作ったものだけしかシャンパンと呼べません。同様に、やはり草加で作ったものだけを、草加煎餅と呼んで欲しいと思います、地元人としては。
(本ページの記事は2003年9月1日記載)
2010年3月21日追記:日光街道松並木近くに、おせん公園と言う公園があります。昨年(2009年)、おせん公園の改修が行なわれ、より心地よい公園に生まれ変わりました。近所なので、久しぶりにブラブラと散歩で行ってみました。ここには、"草加煎餅協同組合"と"草加地区手焼煎餅共同組合"が、市民から募金を募って1992年11月に建立した「草加せんべい発祥の地」の石碑が立っています。
おせん公園
公園内の草加煎餅発祥の地の石碑
2011年7月15日追記:地域新聞の記事で知ったのですが、上記の駅前の"おせんさんの像"を作ったのは、草加生まれの草加育ちの彫刻家、麦倉忠彦さんが作ったものだそうです。麦倉さんは東京芸術大学研究科彫刻専攻修了の後、アメリカのK・ジョーロコフスキー彫刻研究所に留学し、その後日本で現代日本彫刻作家連盟副代表、九州産業大学大学院元教授など活躍されている方。麦倉さんの像は、おせんさんの像や松尾芭蕉像など市内には10作品以上あるそうです。(地域新聞・2011年7月8日号/189号より引用)。