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古代ローマと古代イスラエルについて

6.エルサレムにおけるローマ軍団  (2010年12月26日記載)

 さて、この古代ローマと古代イスラエルの論考シリーズも今回が最終回。この論考の最終目的である、エルサレムにおける百人隊と百人隊長の役割について書き記す。

エルサレムにおけるローマ軍団

 第4章で見たように、イスラエルは親ローマ政策を取り続けていたものの、最終的にはローマ総督による直轄支配となった。ローマ帝国は、サンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めたが、政治的権威は与えなかった。ユダヤ総督が、大都市ローマから離れた辺境の属州であるユダヤの文化を蔑視&軽視し、失政を繰り返したことで、次第にユダヤ人のローマ帝国に対する反感が高まっていく。
 ローマ軍が派遣された駐留地のエルサレムとそこにある神殿は、バビロンから解放されたユダヤ人が修復した"第二神殿"と呼ばれるものを紀元前20年にヘロデ王が大改築したものである(※完成は息子たちの代まで半世紀近くかかる)。ヘロデ王は残忍さで知られていたが、ユダヤ人の懐柔策としてユダヤ神殿改築事業を行ったのである。エルサレム神殿に接して北西にアントニア要塞が設けられ、ローマの総督の官邸もそこにありイエス・キリストはそこで裁かれたと考えられてきた。しかし、最近の学者の多くは、総督官邸はダビデの塔近くのヤッファ門(ゲンナテ門)の傍らにあったと推測している。余談だが、当時"ダビデの塔"と呼ばれたファサエルの塔、ヒビックスの塔、マリアンメの塔と言う3つの塔は、ヘロデ王が建てさせたものである。


 さて、いよいよ軍団の兵士たちの話へ移る。東方属州では、相当数の守備隊が都市の内側、または近郊に駐留した。小さなユダヤ州の守備隊は、都市や町々に駐屯するのが常であった。ではエルサレムに派遣された歩兵隊(※1個歩兵隊=6個百人隊=約480人)たちは、どこに寝泊まりしていたのであろうか。エルサレムに常駐した歩兵隊は、現在シデラル(要塞)の名で知られる(ヘロデ王が建設した前述の)3つの塔に分宿していた。総督がエルサレムを訪れる時(※注:総督はエルサレム官邸に常駐していたわけではない)や、ユダヤの「過越しの祭り」の時には、歩兵隊がもう1個別にやってきて、大神殿に隣接するアントニア要塞に居を定めた。
 駐留するローマ軍は占領軍として、反ローマ抵抗運動を続ける暴力分子(※通常「強盗」と呼ばれた)の逮捕や処刑を行った。しかし、ローマ軍の役割はもっと広範囲に渡っていた。ローマ帝国の属州には、警察隊に相当するようなものは皆無だったが、兵士たちは帝国政府の代理人であり、武器の携帯が許可され、命令があれば暴力を行使し、しばしば警察の任務を果たさねばならなかった。エジプトで発見された勤務表には、謎めいた私服のパトロール任務に兵士を就かせた事も分かっている。推測の域を出ないが、属州の治安維持のため、暴力分子の不穏な動きや犯罪者の情報などの収集に当たっていたのかもしれない。
 次に、属州において百人隊長の果たした、より大きな役割について書き記す。


エルサレムでの百人隊長の役割

 地方に配属された百人隊長は、大部分の属州民にとって彼らがそれまで出会ったローマ帝国人の中で最も力のある役人であった。例えば、エジプトで発見されたパピルス文書には、属州内の犯罪(一般的には窃盗事件が多い)の訴えをローマ軍の士官、とりわけ百人隊長にしている事例が数多く残っている。百人隊長は、属州内で武装兵士を派遣して、個人を裁きの場に引き出すことができたのである。
 また騎士司令官や百人隊長は、属州総督の代理人として行政の仕事を行うのが一般的であった。百人隊長は、軍事だけでなく、司法(警察活動、裁判の処理)から行政までの任務を、その地域で負っていたのである。
 新約聖書には、地域での百人隊長の仕事ぶりや生活の伺える記述がある。マタイによる福音書とルカによる福音書に、イエスとカファルナウム(※エルサレムより約130km北のガリラヤの町)に派遣されていた百人隊長の物語が記載されている。両福音書の記事は細部に相違はあるが、概ね次のような事であった。
 百人隊長に重んじられていた部下(副官や旗手か?)が、病気で死にかかっていた(※マタイによる福音書では中風)。百人隊長は、イエスのことを知っていたようで、ユダヤ人達の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。驚くべきは、その長老たちの発言である。
「あの方は、そうしていただくのに相応しい方です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。
実は、ユダヤ総督ポンテオ・ピラトが初めてエルサレムを訪れた時に大きな騒動が起こった。総督護衛兵達が"皇帝の胸像"を含む軍旗を携えて神殿内に入ったのである。刻んだ像の偶像礼拝を厳しく禁じたユダヤの律法は侮辱され、暴動が起こった。一時期の暴動が終わると、ピラトは譲歩して、公式に軍旗を要塞およびエルサレムから取り払ったのである。しかし、ローマ帝国支配に対するユダヤ人の不満は大きくたまっていった(だからこそ、ローマにとっては強盗でしかないバラバ(※彼はローマ帝国への抵抗分子と考えられる)のような人物が、民衆から絶大な人気を誇り、無罪のイエス・キリストの代わりに釈放されたのである)。そのような背景の中で、ユダヤ人の長老たちからローマ帝国の"百人隊長を全面的に賞賛する"声が上がっているのである。現代の我々からすると、驚くべきことである。これは、例外的な事例なのだろうか?(※例外的な稀有な事象だからこそ、わざわざ聖書に記されているとも考えられる)。
 ローマ帝国に対する不満も高まっていたが、一方のエルサレムのユダヤの指導者達が尊敬と支持を集めていたかと言うと決してそうではないようだ。大祭司や司祭たちは、ローマ帝国の力を楯として民衆から金を集め、かつ燔祭の犠牲動物の売買の独占権益で大金を儲けていたようである。エルサレム神殿は一大経済センターと化し、ユダヤ指導者たちの富の既得権益の温床となり、その腐敗は頂点に達していたようだ。
 民衆のために会堂を建ててくれたのが、この冨を持つ腐敗したユダヤ人指導者達ではなく、百人隊長であるという点も見逃せない。百人隊長は、彼の任ぜられた地域の治安維持と平和のためにかなり尽力したようだ(…ユダヤ人の会堂を建てたと言われているが、実際に軍団兵の建築に関する技術レベルはかなり高い(※軍団兵は道路や運河や橋の建設、陣営や闘技場建設などの様々な土木建築を行っていた)ので、ユダヤ人会堂程度の規模の建築であれば百人隊の力があれば十分に可能だったろう)。ローマ帝国は嫌われていたが、この百人隊長は民衆から愛され敬われていた事が伺える記事である。
 エルサレムには一個歩兵隊(※祭の時には2個歩兵隊)がいたと言うことなので、百人隊長は6名いたことになる。しかし、これらの百人隊長が、カファルナウムの百人隊長のように地域の信頼を得ていたかどうかは記録がないので不明なのだが、ローマ軍団の百人隊長が、警察、行政も含めて、地域の安全や融和に果たした役割は小さくなかったようである。


 さて、計6回に渡って、ローマとイスラエルの歴史や両国の対立とその顛末を概観し、そのような背景におけるローマ軍団、とりわけ百人隊とその隊長に焦点を当てて考察した。今回、これらの考察を終えたので、いよいよ"百人隊長の物語"を作っていきたいと思う。
 いつか、その物語を皆さんにお届けできたらと思います。では、また。

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