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古代ローマと古代イスラエルについて

5.百人隊と百人隊長  (2010年12月 5日記載)

 ローマ帝国の歴史と、イスラエル王国の歴史、そしていかにイスラエルがローマによって滅ぼされたかを簡潔に見てきた。そして本章では、このシリーズの目的であるローマ軍団の"百人隊"について焦点を当てたい。
(※本論の目的が異なるので、軍団の上級士官や指揮官に関する考察は割愛する。また同様に、ローマ海軍についても本論の目的ではないので省略する)。

百人隊の役割とその位置

 ローマは、歴史において長期間、かなりの広範囲の地域を支配してきた。そのような訳で、一口にローマ軍と言っても、その編成や装備、戦略は、時代や地域によって異なり進化や変遷も経たので、一概に「ローマ軍とはこのようなものである」とは言えない。しかし、かなり大まかな区分をすると、ローマ軍は共和政下での市民兵による軍団と、帝政下での職業軍人による軍団の間で大きく分けられると思う。その辺りに的を絞って記述したい。

※実際には職業的軍隊は、共和制下の紀元前107年に執政官カイウス・マリウスが"志願兵を募る"と言う形ですでに始まっていた。以後、資産評価と軍役の関係は崩れ、市民であれば軍団に参加できるようになり、貧民の出身者は増えていった。

 共和政のローマ軍と言うのは、第2章で述べたように、"市民軍"によって構成されていた。ローマの軍団は、毎年、元老院が兵士をどれだけ集めて、どこに派遣するかを決めた。市民集会で選出された行政官が軍を組織し、指揮権を発揮できた期間は1年のみ(元老院が認めれば期限延長は可)。執政官の次位にあった法務官に、指揮を任せることもできた。軍団(レギオー)の兵役義務は平等で、16回以上の戦役か16年以上兵役に就く必要はなかった。執政官には2個軍団が与えられ、法務官には1個軍団のみの指揮を任せる事が多かった。
 標準的な1個の
軍団(レギオー)は、歩兵4,200名と騎兵300騎から成っていた。最富裕市民が騎士身分を構成し、10の騎兵部隊に分けられ、各部隊を3人の十人隊長が指揮した。騎士身分の中核は18の騎士の百人隊、すなわち最富裕の市民から成る百人隊であった。
 ローマ軍団の一般的な布陣(※戦闘の規模や地形や作戦によって異なる)は、中隊を核にして編成される。第一戦列から第三戦列までの布陣を敷き、それぞれの戦列には"10個中隊"が含まれ、それぞれの中隊が間隔を開けて整列した。1個中隊は軍隊の戦術上の基本的な単位であり、120人の兵士で編成された。この各
中隊は、百人隊(ケントゥリア)2個から編成される。当時の"百人隊"は、百人ではなく60人で構成されていた。各百人隊は、自分たちの百人隊長、軍旗、副官を持っていた。百人隊長と騎手は、戦列の一番前つまり最前列に立って戦った(副官は列の最後尾)。

 ローマ軍の編成が市民軍から職業的軍隊に移ると、伝統の多くが踏襲されていったとは言え、その精神と戦術においては根本的に異質のものであった。新軍団は、それまでよりも遥かに常備軍的な性格を帯び、その軍団が存続する限り名称と数の変更はなかった。市民兵の時代は装備を自前で用意する必要があったが、職業的軍隊に移行すると、変わって国家が武器、甲冑、衣服を支給した。軍団内における出身階級間の区別はなくなり、騎兵や軽装歩兵も消滅した。すべての兵は同様の軍事訓練を受け、同様の装備をしたので、彼らは決められた位置にいなくとも効率的に機能することができた。
 軍団は単なる生活の中断ではなく、一つのキャリアとみなした軍団兵は、所属軍団との一体感を強く意識するようになった。有能なリーダー達は、兵士の自分の軍団に対する誇りと軍隊内の他の部隊に対する競争心を上手く利用した。
 百人隊の編成は60人でなく、
80人編成となった。2個の百人隊で1個中隊(マニプルス)を形成した。以前はこの中隊(2個の百人隊)が基本戦術単位だったが、歩兵隊(コホルス)と呼ばれる480人からなる、より大規模な戦術単位へと移行したと考えられている。つまり歩兵隊(コホルス)は6個の百人隊で編成され、当然6人の百人隊長がいて、その中の一人が歩兵隊を指揮する任に当たった。また、1個軍団(レギオー)は10個歩兵隊で編成され、3列隊に組まれた(※戦術によっては、2列や3列に配置することもできた)。それまでは中隊長30名に命令を下す必要があったが、代わりに歩兵隊指揮官10名に命令を下せばよいので、指揮は遥かに容易になった。戦闘において、全軍団を動員するまでもない程度の作戦では、1個ないし数個の歩兵隊を持ってコンパクトで効率の良い分遣隊を組織した。職業的軍隊は、以前よりも柔軟かつ効率的な軍隊となったのである。

1世紀半ば~後半のローマ軍団兵の例


ローマ兵士たちの生活

 次は、軍団を構成する百人隊兵士たちの生活を追ってみる。市民兵と職業的軍人では生活の基盤背景や兵士としての本質が異なるので、ここでは職業軍人に限って考察する。ローマ兵士たちは、成年期の大半を軍隊で過ごした。元首政時代には、25年の兵役期間が常態であった。彼らは一般市民から切り離され、軍法と軍紀により支配された。一たび入隊したら、全員が同じ規律に服し、同じ糧食を食べ、同じシステムで給与が支払われた。入隊から除隊まで、各兵士の生活は軍官僚によって記録された。
 兵士達は常駐基地の一つに駐屯して、そこで歳月を重ねた。基地の規模は、目的によって異なった。僅かな兵士たちが宿営する街道の駐屯地ゆ前線基地、五百~千人規模の守備隊兵士もしくは五千人以上を要する支援軍の城塞まで様々であった。
 兵士たちの時間の一部は戦争の準備に費やされたが、それ以上に広範囲の平和的活動にも呼び出された。兵士たちは、時折、行政官、警察官、職人、技術者、建築者として活動した。兵士たちが造った導水橋や建造物などの中には、しっかりと現代まで残っているものもある。また兵士達の中には本格的な戦争に関わらず、むしろ軍事的には低レベルの辺境地帯や帝国内の無法地域をパトロールしたり、局地的な武力衝突を治める任務を負う者もいた。

 概してローマ軍の下士官勤務は、社会の貧困層にとって非常に魅力があった。軍は食事、衣服、(市民生活では得られないような)良い医療施設、確実な報酬を約束した。兵士の給与は特に高い訳ではなかったが、大都市の仕事の報酬が不安定だったのに対し、軍は兵士に定額の年収を保証した。また、能力を持ち十分な教育を受けていた者たちにとっては、昇給や昇格、更には社会的地位の向上にもつながる道が開かれていた(※少なからぬ蓄財に成功した兵士の記録も残っている)。兵士たちの特例として、父の存命中にも遺言書の作成が認められた。また、軍を除隊すると、軍団兵は報償金か、一区画の土地を給付されるのが慣例であった。

 しかし、良い事づくめではない。どの時代のどの軍隊にもあることだが、極度に過酷な規律組織に服さねばならなかった。司令官のほとんど気まぐれによって体罰を受け、時には死刑にも処せられた。昇格は可能だったが、ある程度のコネと教育水準が必要であった。それは、多くの新兵が持っていないものであった。兵士たちの法的地位も厳しいものがあり、結婚の禁止、軍籍以前の結婚契約は非合法とされた(法からすると彼らの子供は私生児であり、市民権は与えられなかった)。これは、兵士の扶養家族に対して国家として一切の責任を嫌ったためである…しかし、実際はかなりの割合の兵士達が(一部の学者の概算では50%)、結婚し家庭を築いていた。
 また、給与からは、衣服、装備、そして天幕すらその代金が天引きされ、実際に兵士が受け取る額は少なかった(※これらの不満で兵士の反乱も起こっている)。
 新兵の訓練は厳しいもので、最初は肉体的特性の向上に集中させられ、規律に慣れさせた。訓練のレベルは上げられていき、数か月の基本訓練で、新兵が部隊で十分使いものになるまで続けられた。しかし訓練に終わりはなく、軍務についている限りは絶えず行われた。
 ローマ軍部隊は、命令とあらば平然と一般民衆の逮捕や処刑も行い、村落も焼き払った。ローマ軍が取った方法は、しばしば残酷を極めた。ローマに敵対した諸民族には、財産喪失などに留まらず、虐殺や磔による大量処刑、奴隷に売られるなどの運命が待ち構えていた。また、一定の条件を超えた権力の乱用による民衆からの動物や財産の徴発を行う兵士もいたようだし、(どんな社会にも一定割合でヤクザな連中がいるように)属州における一部の個々のローマ兵は一般民衆を威嚇し彼らから金を巻き上げた。ローマ兵による蛮行は、数々の例証によって知られている。とは言え、全体的には兵士と一般民衆の交流は総じて平和的で、双方の利益にかなっていたようである。兵士の多くは、夫であり親であり、顧客であり、技術の提供者であり、法律を遵守する男たちであったと考えられている。

 さて兵士たちの駐屯地での生活を見たい。駐屯地だが、ローマ帝国は広範囲の地域を支配していたので、前述のように様々な規模の基地が存在した。本質的にローマ軍は征服のための機動作戦を意識して編成された野戦軍であり、常駐基地(城塞など)を持たなかった。都市部では都市や町に宿泊したようだが、それ以外の地域ではしっかりした移動陣営を建設した(※駐留が長期化していくと建造物は次第に恒久性を帯びたしっかりしたものに移行していく)。陣営は、兵士達自身の手によって建設された。
 陣営には、司令部、病院、作業場、穀物倉、将官宿舎、歩兵隊宿舎などが造られた。もっともありふれた建物が兵舎棟で、80人の兵士とその士官(3人)で構成される百人隊が寝泊まりしていた。仮陣営ではテントを一列に張ったが、兵舎の建物もそれと同じ仕方で並んだ。兵舎では、8名ごとで作る"テント組(コントゥベルニウム)"に、二間続きの部屋が与えられた。一間はそれぞれ4.6㎡程度で、一間は生活と就寝のために使われ、もう一間は貯蔵庫として使われていたと考えられている。食料は未調理のまま支給され、兵舎区画に付けられたかまどを使って、テント組の仲間と一緒に炊事した。食事は朝食と夕食の、一日二食であった。
 各兵舎の奥の端には、広めの部屋が並ぶ区域があった。これらは百人隊の日常業務遂行の事務や行政を行う場所であり、もう一組の部屋は百人隊長用だったようである。士官達の部屋の壁にはしっくりが塗られ(時には装飾画が描かれたりして)、兵士達よりも快適な生活を送っていたようである。
 陣営での兵士たちには、日々、忙しい勤務が割り当てられた。残存している当時の勤務表から、武器の整備や管理や警護から便所掃除まで様々な仕事が割り当てられたようである。多くの部隊において、不愉快な任務を避けるために百人隊長に付け届けを行う兵士が一部にいたことも分かっている。軍紀の腐敗ではあるが、この手の問題が根絶されることはなかった。
 個々兵士の任務を果たすことに多くの時間を費やしたが、部隊の共同生活もそのまま続けられた。また、重要な記念日には閲兵が行われた。軍神マルスのようなローマの神々のために重要な供犠がなされた多くの伝統的ローマの祭りについて記した文章が残っている。また、名誉除隊日や軍旗祭のような、軍事的意味合いを持つ行事もあったようである。明らかに兵士達に忠誠心を思い起こさせる意図があり、後には神格化されたアウグストゥス、クラウディウス、トラヤヌスのような皇帝の記念日も設けられた(※余談だか、紀元19年に没したアウグストゥスは皇帝を名乗らなかったし神格化されなかったが、軍隊では絶大な人気があった)。ローマ軍の公的宗教は、兵士たちの集団帰属意識を確認するための重要な手段であった。部隊の軍旗が正式に飾られる日は軍隊精神を確認するもう一つの機会であり、軍旗に対する崇敬はほとんど宗教的礼拝に似たものであったという指摘もある。
 では、兵士たち個々人の信仰や宗教観はどのようなものであったろうか?宗教は、現代人の感覚からは想像しがたいほどローマ世界の至る所に存在した。日常生活における行動の多くが、何らかのの形で礼拝や祭儀の要素を含んでいた。ローマには数多くの神々や女神がおり、抽象的なものまでが神格化されていた。それらを別にしても、ローマ人はさらにあいまいな諸霊を崇拝していたようだ。兵士たちは部隊が組織した礼拝にも参加したが、個人的に宗教行為を実践する自由は十分にあった。ローマの多神教(守護神礼拝)は非常に開放的であり、ローマが出会った多宗教に適応していった。そのような訳で、兵士たちが奉納を行った祭儀は実に多様である。軍は、こうした(個人的な)宗教行為を制限する努力をせず、個人的にはどのような神々を礼拝しても構わなかったようである。
 娯楽についてだが、いかなる軍団の要塞にも、外側に円形闘技場があった。闘技場は、剣闘士の試合や野獣との戦いなどの見世物の開催の他に、軍団自体の観兵式や教練場所ゆ演舞場ともなった。またローマ人にとって入浴は重要なものだったが、浴場には各種のサービスが揃っていた。各種の温度を保つ浴室があり、オイルマッサージや垢すりもあった。大小の差はあれ、どの浴場も憩いの場であり、社交場であった。また、ローマ軍基地の周辺には一般民の居留地(カナバエ)が急速にできあがった。商人達は、間違いなく軍のサービス産業に手を染めた。食べ物、飲み物ゆ贅沢品の売買を行った。カナバエは、また音楽や居酒屋から売春宿まで各種の歓楽を提供した。カナバエは、更に村(ウィークス)に発展した。村と砦は共生関係にあった。

 ざっとだが、ローマ軍団の兵士たちの生活について概観した。もちろん、これは長い時代の広範囲にわたるローマ軍のすべてを言い表している訳ではないが、大まかに標準的なローマ軍兵士の姿を思い浮かべることができる。


百人隊長

 さて、いよいよ本シリーズの目的たる"百人隊長"に焦点を当てたい。これについても、市民兵の軍隊下と職業兵の軍隊下では色々な点で異なるので、職業軍隊下に絞って考察する。80人からなる百人隊を指揮したのが
百人隊長(ケントゥリオー)であり、それを補佐したのが副官(オブティオー)騎手(シグニフェル)、連絡士官(テッセラーリウス)であり、彼らはひとまとめで幹部下士官(プリンキパーレス)の名で知られた。その他にも、多くの補佐職が存在した。
 百人隊長は、一つの特定の階級と言うよりは、むしろ士官の等級ないしタイプの一つと理解した方が良い。第一歩兵隊の百人隊長は、他の軍団の百人隊長よりも高い地位にあった。軍団の残りの9人の百人隊長間の関係は、それほど明らかではない。しかし、一個歩兵隊を構成する6個百人隊の百人隊長はそれぞれ異なる称号を持っていた。指揮権は、年功序列すなわち従軍期間の長さにより決められていた可能性がある。軍団全体で最下級の百人隊長から首席百人隊長にたどり着くまで、段階的に昇格していったと考える学者もいる。しかし、そのシステムがどのように機能したかを知るのは難しく、いまだ完全には理解されていないのが現実である。
 百人隊長になるには、基本的に3つのルートがあったことが分かっている。一つは、百人隊の幹部士官(ブリキパーレス)として、あるいは軍団内の下級参謀ポストの経験を経た後の任官。一つは、親衛隊の勤務を終えた後(もしくは在職途中)での任官。一つは、直接的任官。いきなり百人隊長に指名されることだが、一部の騎士階層などはこの方式で百人隊長となった。相対的に恵まれていた他の者は、地元の都市で政務官を務めた後に任官を受けた。ただし、これらの3つのルートのうち、どの方式が一般的であったのかは分かっていない。しかし、多くの学者は一兵卒から昇進した百人隊長が圧倒的に多く、直接任官された者は全体に占める割合は低かったのではないかと考えている。資料が少ないのは、高い身分に昇格した兵士が、自分の過去の経歴を隠したがったからかもしれない。
 百人隊長は、相当な責任を伴う地位を与えられた重要な存在で、一部の百人隊長は属州の一地区の政務官に任命され、その地区におけるローマ権力の最高代弁者となった。百人隊長には、部隊の日常のありきたりの業務をこなすのはもちろんのこと、高い水準の読解能力、計算能力が求められた。首席百人隊長などの更に上級の職務に就いたものは、更に思い責任を負った。退役した百人隊長も、彼ら自身の都市や町や村においても重要な存在であった。
 百人隊長の報酬については明確には分かっていないが、普通の兵士と比べれば相当多く支払われていた事は確実である。社会的地位については、騎士階級や元老院議員ほどの影響力はないにしても、その社会的地位は極めて高かった。

 今回は、軍団内の百人隊の役割、その兵士たちの生活、そして彼らを指揮する百人隊長について考察した。次回は、ローマ帝国にとっての辺境の地イスラエルの"エルサレム"での百人隊、および百人隊長の働きについて考察したい。

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