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4.古代イスラエルの滅亡 (2010年11月14日記載)
前回、ローマ帝国の歴史を振り返ったので、今回はイスラエルの歴史を振り返る。
ローマ帝国のイスラエル支配
前章で見たように、イスラエルは様々な大国の支配下&影響下に置かれ続けたが、紀元前167年のマカバイの乱が勃発して、紀元前164年にエルサレム神殿を奪還した(マカバイ戦争)。紀元前143年にはセレウコス朝(※前章を参照)の影響を脱して、ユダヤ人の独立国家が回復した(※その後、短期間独立を喪失するがすぐに回復する)。ユダヤのヨハネ・ヒルカノス1世は軍事力(傭兵力)と軍事的才能によって領土を拡大する。これをハスモン朝と呼ぶ。しかし、国内ではサドカイ派とファリサイ派の対立が激しくなっていく。
紀元前63年にローマのポンペイウスがセレウコス朝を滅ぼした。ユダヤでは、ヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世が争っていたが、ローマは無能なヒルカノス2世を傀儡にと考え、彼を支援した。これにより、アリストブロス2世は死に追い込まれた。このようにして、ユダヤはある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となった。
その後、アンティパトロス(ヒルカノス2世の武将)がローマに取り入って実権を握り、ユリウス・カエサルからも地区の統治を委任された。アンティパトロスが暗殺されると、息子のファサエロスとヘロデが後継となった。ローマの相次ぐ政変により右往左往させられるが、親ローマ路線は維持した。紀元前40年、アリストブロス2世の息子アンティゴノスがヒルカノス2世とファサェロスを捕え、ヘロデはなんとかユダヤを脱出し、ローマに支援を要請した。ヘロデは"ユダヤ王"の称号を認められてエルサレムに帰還し、アンティゴノスを破り、紀元前37年にアンティゴノスは処刑された。こうして、ヘロデが初代の王となるヘロデ王朝が始まった。
ヘロデは純粋なユダヤ人ではなかったので、ハスモン朝の血統を利用しつつ、不要になると彼らをすべて殺害していった。紀元前4年に残忍なヘロデ王が亡くなると、ユダヤは息子たちにより分割統治された。しかし、ローマはユダヤ王の称号を彼の息子達には与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治したが、アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマ総督による直轄支配となった(※その後、アグリッパ1世がユダヤ統治をしたこともあったが、死後、再び総督の直轄統治となった)。
ローマ帝国は、ユダヤのサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めたが、政治的権威は与えず、ユダヤはローマ総督の支配下におかれた。ユダヤ総督が、(ローマからすれば辺境の)ユダヤの文化を蔑視&軽視し、失政を繰り返したことで、次第にユダヤ人のローマ帝国に対する反感が高まっていく。
ローマ帝国支配に対するイスラエルの反乱
第一次ユダヤ戦争
紀元66年、ユダヤ属州はローマ帝国支配に対して、遂に反乱を起こした。政治的要人の暗殺を任務とした過激派集団の一つ"シカリ党"(※彼らの持つ短剣からこう呼ばれた)は、ヘロデが贅を尽くして造った離宮要塞のマサダ要塞に侵入して、これを占拠した。マサダは、四方断崖の岩山であり、東側の蛇行した険しい坂道を登られねば要塞に近づけない、自然の鉄壁の要塞だった。
ユダヤ人の反乱は緒戦では成功した。しかし、ローマの戦略は、どの国の敵に対しても"反乱を許さない"徹底的な長期に渡る戦略を取る。緒戦で負けようが、最終的には勝利をものにする。逃げ腰政策や負け戦はローマの弱体化を周囲に喧伝することになり、周辺国の隆起や反乱につながることをローマはよく知っている。だから、ローマは一歩も引かない。その執拗な粘り強い攻撃による勝利が、周囲の諸国に対しても似たような"反乱を起こさせない"睨みを利かせることにつながるのである。
かくして、反乱の初めは調子の良かったユダヤの反乱も、数年に及ぶ激闘の結果、粉砕され、紀元70年にはエルサレムの戦いとなった。ローマ軍は、エルサレムの3つの城壁のうち、第二城壁の奪取に向かったが、何度か失敗した。アントニア要塞の攻略を目指し、大掛かりな攻城用の傾斜路(土塁)を17日間で構築したが、火を放たれたり、下から坑道を掘られたりして破壊された。この時点で、ローマの将軍ティトゥスは、兵士に乾いた石で都市を囲む塁壁を建設させた。兵士の尽力で、大工事は僅か3日で完了した。包囲壁は、守備軍兵達を脱出させないだけでなく、ローマ人の反乱軍殲滅の決意を示すものだった。また、軍団兵は城壁からもはっきり見える場所でユダヤの捕虜たちを磔刑にした。ローマ軍は、反乱軍の抗戦意欲をそぐ目的に適うものであれば、残虐行為もやむなしと考え実行していた。
この後で、ローマ軍はアントニア攻撃の準備に戻り、次の数週間で都市の残る部分を一つずつ占拠し、神殿も破られた。
紀元70年、エルサレムは陥落した。ほんの僅かな抵抗拠点が残り、その最後が"マサダ要塞"であった。紀元73年、ユダヤ総督フラウィウス・シルウァは軍を率いて要塞の攻略に向かった。
マサダ要塞には、960人ほどの残党が籠城した。ただし、老人や女子供などの非戦闘員がかなりの割合を占めた。彼らを指揮したのは、軍事抵抗運動の伝統を持つ家系のレアザル・ベン・ヤイルと言う人物。マサダ要塞の貯蔵庫には、豊富な食料の備蓄があり、頂上には穀物の耕作地もあった。岩をくり抜いた深い貯水槽には、貴重な雨水が貯められていた。
ローマ軍は、兵糧攻めでマサダ要塞を陥落させる望みはないことを知った。また、東側の細い道を駆け上がって直接攻撃をしかけて、要塞を陥落させる望みもないことも知っていた。兵糧攻めも攻撃もままならない、天然の要塞"マサダ"。しかし、ここでローマは、考えられないようなたいへん気の長い、手間のかかる戦略を取り始めた。
たった一人の脱出者も見逃さないために、また籠城者たちに完全に彼らが包囲されていることを見せつけるため、ローマ人は岩山の周囲に包囲ラインの壁をめぐらせて、6つ砦(小要塞)と、数多くの監視塔を据えたのである。そして二つの大規模な陣営が、包囲壁の後ろに建設された。籠城者達は、脱出することも、密使を送ることもできなくなった。守備軍側の反乱者達は、孤立して、もはや望みの無いことを思い知らされた。
そして、ローマは、西側の切り立った岩場に攻城用の傾斜路を築きはじめた。ローマ人が目の前の丘に向かって作り続ける攻城用傾斜路は、一日ごとにわずかながら高くなっていった。これが籠城軍兵士に与えた心理的圧力は、たいへんなものであった。極度の心理的圧力に耐え切れなくなって、ローマ軍に投降する籠城兵の前例が歴史上あるが、マサダの反乱兵達は投降しなかった。
傾斜路が完成すると、破城槌を搭載した攻城櫓が上げられて、要塞の城壁に激しい打撃を加えた。ローマ軍による最後の攻撃を翌日に控え、シカリ党員は彼らの家族を殺してから自決した。こうして、マサダ要塞も陥落した。この戦いを、"第一次ユダヤ戦争"と呼ぶ。
ユダヤ人の反乱は終結し、ローマ人は他の属州民に対し、反乱を起こしても、叛徒に待っているのは残忍な処罰しかないと言う、厳しい警告を発したのである。
第二次ユダヤ戦争
その後、半世紀は大きな反乱もなかったが、ユダヤ人の反ローマ感情や独立願望は高まっていった。そして紀元115年にディアスポラ(※本国以外で住む離散集団)のユダヤ人も含めた同時蜂起のキトス戦争が起き、132年にはパル・コクバの乱がおこる。
シメオン・パル・コシェバは、自分こそユダヤ民族を救う救世主(メシヤ)であると表明し、ユダヤ教の指導者がこれを支持したため、民衆からの期待が集まった。彼は、シメオン・パル・コクバ(星の子)と自称するようになった。130年に、ローマのハドリアヌス帝が帝国内の領土をめぐり、辺境のイスラエルにも足を運んだ。ハドリアヌスは、ユダヤ人に同情してエルサレムの再建や修復を約束したが、聖地エルサレムが"アエリア・カピトリアナ"に名称変更させられ、かつ神殿跡に"ユピテル神殿"(※ユピテルはローマ神話の主神。英語読みでジュピター)を立てることも含まれていることを知り、割礼を野蛮な行為として禁止しようとしたことも含め、ユダヤ人の怒りは頂点に達した。ユダヤの最高法院も反乱の実行を計画、第一次ユダヤ戦争の問題点を研究し、パル・コクバをリーダーとしてローマ帝国に対する戦いを開始した。
反乱は成功し各地でローマ軍を破り、ユダヤの支配権を取戻し、2年半に渡りパル・コクバは大公として政治的指導者の座に収まり、イスラエルを統治した。しかし、ローマ帝国は事態を静観する気などまったくなかった。不意打ちを食らったローマ軍だが、ハドリアヌス帝はブリタニアから勇将ユリウス・セウェルスを召還して、ドナウ川流域に駐留する軍団を与えてユダヤへ向かわせた。ユダヤ人は血気盛んとは言え、勇将の率いる本気になったローマ帝国軍の攻撃の前に、135年、エルサレムは陥落した。パル・コクバは戦死し首謀者達は処刑された。こうして、反乱は終結した(※これを"第二次ユダヤ戦争"と呼ぶこともある)。
ハドリアヌス帝は、ユダヤがローマ帝国に反乱を続けるのは、ユダヤ教とその文化にあると考えた。ローマ人は多神教の守護神礼拝者で、異教の宗教にも寛容であり、属州となった地域の政治的支配に関しても比較的寛容な扱いをしていた。ローマ帝国は、敗れた敵の政体を完全に破壊してしまうことをあまりしなかった。しかし、イスラエルの宗教は一神教であり他の異教文化は一切排除し、ローマとの妥協の余地はまったくなかった。ローマ皇帝崇拝ももちろん、どのような宗教礼拝も受け入れない頑なさがイスラエルに反乱が続く根本原因と見て取ったハドリアヌス帝は、その根絶を図った。律法書は神殿の丘に埋められ、エルサレムの名称は"アエリア・ユピテル"とされてユダヤ人の立ち入りを禁じられた。ユダヤ暦は廃止が命ぜられ、ユダヤ教の指導者たちは殺害された。そして属州ユダヤの名を廃して、属州シリア・パレスティナ(※ユダヤの敵対者であるペリシテ人の名から取った名称)とした。ローマ帝国のハドリアヌス帝は、徹底的にユダヤの宗教と文化の殲滅を目指した(※ユダヤ人はこの地から追い払われ、この時から祖国を失ったユダヤ人達の世界史における苦難の歴史が始まるのである。そのような訳で、2千年近い歳月を経た今でもイスラエルの人々のハドリアヌス帝に対する恨みは深い)。
これが、ローマ帝国に対するユダヤ(イスラエル)の反乱の顛末である。こうして、古代イスラエルは滅亡した。
次回は、いよいよこの論考の目的である百人隊について書き記す。
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