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古代ローマと古代イスラエルについて

2.古代ローマ帝国略史  (2010年 9月12日記載)

 まずは共和制ローマ~ローマ帝国の歴史を振り返って、その中におけるローマ軍団の変遷、そして本論の最終目的である"百人隊"の目的や役割を決めている政治的・軍事的背景を探りたい。特に、今回はイエス・キリストの誕生と重なる西暦元年前後のローマ帝国の歴史を集中的に取り上げる。
 ローマが帝政、つまり実質的に皇帝が統治するようになったのは紀元前27年である。それ以前のローマは共和政である(※元首政に移行した後も名目上は"共和政"だったが実質は帝政)。

共和政ローマとその軍隊

 ローマと言う国は、初めから規模が大きかった訳ではない。ローマは、前8世紀ないし7世紀のある時期に、イタリア中部に住む多くのラテン語を話す少数部族の一つとして歩み始めた。その頃、ローマと近隣部族との間で交わされた多くの戦いは、戦士貴族とそれらが率いる集団たちにより行われた。やがてローマの都市は拡大し、住民の数も増えると、兵役義務は戦いに必要な装備を自分で用意できるすべての成人男性市民にまで拡大された。
 
共和政ローマ(※古代ローマ共和国)は、紀元前509年の王政打倒から始まる。共和政の政治はどのようなものかと言うと、元老院議員による元老院によって統治され、王に代わる執政官を元老院の意向で決定された(…つまり共和政は、民主政と言うことではない)。元老院議員の身分は終身だったが、自ら戦場にも赴いた(※そのような訳で元老院議員は、戦死により寿命は短い傾向があった)。ローマは、ガリア人(※ローマ人がケルト人を呼んだ名称)との戦いをはじめ、戦争が相次ぐ。戦争を担うのは、主に平民による重装歩兵だった。この歩兵(=平民)の、貴族に対する政治参加の要求が高まっていく。この要求により、平民の権利を擁護する護民官が設置された。その後の法の制定により、身分闘争は次第に収まっていく。この間も、共和政ローマはイタリア半島の都市の制圧を続ける。この頃のローマ軍の体制を見てみよう。
 
共和政期のローマ軍は、主に自由農民により組織されていた。年の一定期間を兵士として過ごし、ある期間を農作によって生計を立てた。兵役は、彼らにとって自分が属している共同体に対して果たすべき義務であり、専門的職業ではなかった。通常の国家だと、こうした兵役義務は次第に職業軍人のシステムに移行していくのだが、共和政ローマはこのシステムに固執した。そして、市民たちは、軍団内で課せられる極端に厳しい訓練に進んで従った。適切な訓練を受け、有能な指揮官に率いられたローマ軍団は、戦術的に縦横に行動し、同時代のすべての軍隊組織に対し、その優秀さを見せつけた。
 また、ローマの正規軍の他に、正規軍を補う
支援軍が存在した。支援軍は、同盟国の兵士によって構成されていた。こう言う兵士たちは、通常、遠征途上の戦闘地域で集められた。地元の同盟軍は、増兵を可能にする人的資源であるだけでなく、地元の地理や天候状況に適した戦闘スタイルを持つ兵士として重要であった。しかし、同盟国軍は常に信頼できる訳ではない。事実、同盟軍に見捨てられたローマ軍が大敗すると言う惨事も歴史上起こっている。同盟国の軍隊は、ローマに従っているのではなく、本質的に自分たちの指揮官に従って戦っていたのである。

重装歩兵と密集方陣について:ある時点から、ローマ人は重装歩兵による密集方陣(ファランクス)を採用した(※おそらくギリシャから伝わった戦闘方式)。重装歩兵は、重装槍兵団であり、表面を青銅で覆った円形の木製楯"ホプロン"を持っていたことから"ホプリーテス"(※ギリシャ語)と呼ばれた。他に武具は、青銅の兜や頑丈な胸当て、脛当てで身を守った。武器は、2.45mほどの槍で、投げるのではなく、敵を突き刺すのに用いた。重装歩兵は、戦闘に当たっては密集方陣を取った。この隊形は、無防備になる右側面を隣の兵士の楯で守った。密集方陣は非常に厚くなければならないと考えられ、隊列が8列以下と言うことは稀であった(※40列と言う分厚いケースもあった)。第二列の兵士たちの主な役割は、前の戦士たちの精神的サポートであると同時に、後方列からの物理的圧力が、戦闘ラインの兵士たちの敵前逃亡を防ぐと言う面も持っていた。密集方陣による戦闘では、個々の貴族たちが英雄的な華々しい活躍を見せる機会はあまりなかった(※従来の戦闘方式がまったく無くなった訳ではないが)。密集方陣の採用は、軍事上の革命であると共に、社会的、政治的変革の一部でもあった。重装歩兵は一定の資産を持つ地主や農民であり、高価な武具を自前で用意し、自分たちの権利と利益を守るために戦ったのである。彼らの活躍が増すにつれ、彼らの政治的影響力も増していった。

帝政ローマとその軍隊

 さて、ローマは紀元前1世紀までには、(数々の苦戦を強いられながらも)かなり広大な地域を征服していた。イタリア半島はもちろんのこと、ゲルマニアや、地中海に面したイベリア半島の海岸線、サルディニア島やシチリア島、ギリシャやマケドニア、小アジアやシリア、アフリカ大陸の海岸線側(現リビアなど)の広範囲をローマの支配下においた。
 しかし、ローマの版図が拡大するに連れ、新たな問題が起こってきた。ローマの戦争を担う重装歩兵は、主に農民による市民で構成されている。戦闘地域がイタリア半島内の祖国からどんどん遠く離れるにつれて、農民たちの軍団での拘束期間は長期化せざるを得なかった。海外に大規模な駐屯地を常備せねばならなかったが、これは多数の非常勤のパートタイム軍団兵に対し、10年もしくはそれ以上の軍役を課すことを意味した。軍団兵達は武具も自分で調達しなければならない上、故郷へ戻って自分の農地を耕すこともままならない。
伝統的に軍事召集に応じる資格を持つ市民の大部分が、これによりいとも簡単に没落していった。
 また、一連の戦争が敗北で始まり、苦戦を強いられた上にようやく勝利するというパターンが恒常化していくと、将来に対するローマ人の不安はますます高まって行った。最終的に、ローマはパートタイマーの市民軍から、
職業的軍人によって組織される軍隊へと軍制の変更を余儀なくされた。ローマ兵士が資産家の一般市民であった時代は、終わりを迎えたのである。
 ところが、これも原因の一つとなって、
ローマは紀元前1世紀には内戦に陥る。多くの市民達が没落し、貴族や騎士階級は富んで貧富格差が著しくなり、元老院でも汚職が横行した。没落した市民や貧民層には職業的軍人になる者も多かったが、各地の軍団は、自分の財力で兵士を雇っている有力な軍人や政治家の私兵的な軍団となり、彼ら有力な軍人や政治家達は武力による暴力で政争に決着をつけようとした。スッラ、およびカエサルは独裁官に就任するが、紀元前44年にカエサルは暗殺される。その後、オクタウィアヌスとアントニウスが覇権を争うが、オクタウィアヌスが勝利する。彼の政治的才覚が秀でていたのは、自ら「独裁官」や「皇帝」を名乗らなかったことである。彼は、紀元前27年に共和制復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出たのである。元老院は、彼に「アウグストゥス(※尊厳なる者)」の称号を与え、彼は"実質的に"ローマの元首となった。
 アウグストゥスは、非常に狡猾だった。まず、内戦終了時に60を超えていた軍団数を軍制改革で28にまで減らした。同時にアウグストゥスは、自分自身とその家族だけに忠誠を誓う軍団の建設に努めた。前述の同盟国の支援軍も、より正規の職業的軍隊に変えられていった。支援軍は軍団のような大規模の陣形を取らず、歩兵隊規模の部隊に組織され、状況に応じて帝国内のあちこちへと楽に移動させられるようにした(※そして外国の支援軍が反旗を翻しても、ローマ軍が極めて優位に立てる)。
 また、政治家にはローマの富の源泉となる穀倉地帯の肥沃なエジプトへの渡航を禁じた。政敵にエジプトと通じられて、ローマの生命線であるアフリカの穀倉地帯を掌握されるのを阻止するためである。こうした政策により、資力、軍事力、政治力で、彼を打ち破る者は皆無となった。彼は、ローマの有力な人間も反抗しえないような絶大な権力を手中に収めた。よって、紀元前27年、オクタウィアヌスがアウグストゥスとしてローマの元首になった時移行を、
"帝政ローマ"(ローマ帝国)と呼ぶ。
 ちなみに、ローマで彼がアウグストゥスとして皇帝だった時に、イスラエルのベツレヘムで"イエス・キリスト"が生まれた。これは、このシリーズを進めていくうえで大事なポイントの一つなので、一応、書き記しておく。

 さて、共和政ローマがいかにして帝政ローマへと移行したかを、かなり大胆に省略して簡潔に記述した。このシリーズの本題であるローマ軍団の百人隊については、このページ内に収めるのが困難なので、別途、章を改めて記載したい。次回は、古代イスラエル王国の歴史を概観する。


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