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「アラバマ物語」 (記:2006年10月)
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昨年の秋に取り上げたのがグレゴリー・ペックの「マッカーサー」だったのだけれど、今年の秋もグレゴリー・ペック主演の映画を取り上げます。その映画のタイトルは、「アラバマ物語」。原題は「To Kill A Mockingbird(※直訳すると"ツグミを殺す事")」で、ピュリッツァ賞受賞作品のハーパー・リーの原作を映画化したものです。この題名には、「ツグミ(※正確にはマネシツグミ=モノマネ鳥)はとても美しい鳴き声で私達を楽しませてくれますが、私達に害を与えるわけではありません。それを狩猟などの趣味で、軽々しく殺してはいけないよね」と言うような意味を背景に、「善人が言われも無い差別や偏見によって苦しめられている」と言うメッセージがこめられていると思います。
「アラバマ物語」は1962年の作品で、アカデミー賞を三部門-主演男優賞、最優秀脚本賞、最優秀白黒美術監督賞-を受賞しています…この作品の優れた出来は、秀逸な脚本に負う所が大きいですね(脚本はホートン・フートと言う人が担当)。当時は、カラー映画と白黒映画の混在期で、本作は白黒映画です。白黒映画ですが、モノクロフィルムを不利と感じさせない素晴らしい映像の連続です。
この「アラバマ物語」は親子の関係を軸としながら、社会の様々な問題を扱っています。親子の関係を描くという面では"子鹿物語"のようであり、子供同士の冒険と言う面では"スタンド・バイ・ミー"のようであり、孤独な正義の闘いと言う面では"真昼の決闘"のようであり、法廷劇と言う面では"12人の怒れる男"のようでもあります。色んな問題が、一つの映画に高度に、かつバランスよく配合されて調和しています。グレゴリーペックの演技はもちろん、二人の子供(メリー・バーダム、フィリップ・アルフォード)の演技もとても良いし、また脇役のロバート・デュバルの演技も光っています。
監督は(僕はよく知らないのですけど)ロバート・マリガンと言う人で、製作は(後に「大統領の陰謀」や「推定無罪」等のヒット作品を撮った)あのアラン・J・パクラです。音楽はエルマー・バーンスタインが担当し、映像にとても重厚な雰囲気を与えています。
Imaged by JOLLYBOY
この映画のストーリー(40年以上前の映画なのでネタばれ"有り"で書きます。結末を知りたくない人は読まないで下さいね)。この映画の背景は、1930年代の世界恐慌。経済が疲弊している世の中。アメリカ南部のアラバマ州の小さな町。その町の農民達も貧しい生活を余儀なくされている。弁護士のアティカスは、この町に二人の子供-兄と妹-と共に住んでいる。近所には、夏休みだけこの町にやってくる男の子もいる。夏に、その子供達3人は色んな事に興味を持って、怪物のような男が住むと言う外れの家の敷地に入り込むような冒険もする。夏休み明け、妹は学校で貧しい農民の子を馬鹿にしてケンカする。そんな子供を、父のアティカスは人の気持ちを考えてあげる事の大切さを説く。
この町で、女性に対する暴行事件が起こる。犯人として、黒人のトムが起訴される。それは完全な冤罪で、アティカスはトムの弁護を引き受ける。しかし、黒人に対して強い偏見を持つ人々はアティカスに冷たく接し、遂には脅迫するまでに至る。しかし、正義感の強いアティカスは、トムを人々のリンチから守り、トムの無実を信じて法廷で闘い続ける。彼の弁護により、トムは無実と言うだけでなく、とても優しく親切な男で、実はトムこそが被害者である事が明らかになったように見えたが、陪審員は協議の結果トムに有罪を宣告する。真実よりも、偏見に満ちた因習が勝利してしまった瞬間だった。アティカスは上告をトムに促すが、トムは獄中から脱走する途中で警備員に射殺されてしまう。(トムの裁判の過程で、実際の暴行犯と示唆された)被害女性の父親は、のうのうとまた普通の生活を送っている。
そして、今度はアティカスの子供達が、その真犯人であるその男に襲われる。その危機を救ったのが、外れの家に住む子供達が怪物として恐れていた男性だった。彼は犯人を倒して、ケガをした兄をアティカス家に運んでいく。妹は、その男性が障害をもっているがとても優しい人物である事を、その時初めて知ったのだった。保安官もアティカスも、トムの裁判の例と同様、善人だが障害者の彼が、この町の偏見に満ちた裁判に耐えれない事を知っている。法に仕える弁護士のアティカスは悩み、自分の息子の正当防衛と言う主張をしたが、保安官は男の事故死と言う事で事件を締めくくった。自分の娘を暴行し、善人のトムを死に追いやり、アティカスの子供達を襲った男の哀れな末路だった。
この映画は色んな社会の問題を、子供の視点を通して描いていきます。様々な出来事を通し、子供達は少しずつ成長していきます。また本作では、色んな差別や偏見の問題を正面から見据えています。信じがたい事ですが、民主主義国家アメリカは20世紀の半ばまでアフリカ系人種の公民権が無く、至る所に黒人差別が残っていました。この映画でも、裁判所では白人が一階に座り、黒人は二階に座ります。裁判では、ほぼトムの無罪が証明されたように思われたのですが、結局有罪になります。しかも、逃走したと言う事で射殺されてしまいますが、射殺の過程にも疑問が残る事を映画はさり気なく示唆します。差別は、色んな所にはびこっています。肌の色での差別、貧乏な人への差別、障害者への差別…そう言った差別を、この映画は私達の目の前に提示します、「アメリカは、本当にこれで良いのですか?」と。父アティカスの言葉や裁判で闘う姿を通して、子供達は大切なものを一つずつ学んでいきます。
この映画には、愛とか、尊敬とか、信じるとか、そう言う言葉は軽々しくは出てきません。しかしそれらの言葉が一度発せられると、その言葉はたいへんな重みを持って私達に迫ります。アティカスが、一度「信じる」と言う言葉を口にする時、その重みは金塊よりも重くずっしりと人々の心に響きます。子供達は、一度も「父を尊敬する」と言うような言葉を口にしませんが、子供の行動で父を尊敬しているという事が分かります。裁判所でアティカスが敗訴した時、二階席の黒人牧師がアティカスの子供達に向かい「見よ、あれが君達の父親だ」と尊厳を込めた眼差しで言います。裁判には負けたが、アティカスは素晴らしい父親なのだよと言う事を、黒人牧師は美辞麗句ではなく、この短い言葉で子供達に伝えたのです。この映画は、登場人物の心情を軽々しく言葉では語らず、一つ一つの映像によって私達に訴えかけます。ラストシーンで、兄を助けた障害者男性を、妹が彼の家まで手をつないで連れて行くシーンで、題名の意味「ツグミを殺す事(※ツグミを殺してはいけない、と言う意味で用いられている)」を、映像の力によって観客は知るのです。
私も二児(映画と同じく息子と娘)の父ですが、グレゴリー・ペックが演じるこの映画の主人公のように、子供達に尊敬されるようなしっかりとした父親になりたいと思っています…まあ、当然容姿はペックのようにはなれないですけどね。
ところで雑学的余談ですが、毎月読んでいるCG専門誌で、今春面白い記事を見つけました。ナルニア国物語の映画第一作「ライオンと魔女」のライオン王のアスランの表情は、この「アラバマ物語」のグレゴリーペックの表情やしゃべり方を参考にして作られているそうです。王としてのアスランの威厳が、ちょうど本作のグレゴリー・ペック演じるアティカスとマッチしていると判断されたそうです。