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「許されざる者」 (記:2002年4月)
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誤解のないようにまずお断りしておきたいが、この映画は隠れた名作ではなく、アカデミー賞を受賞し表舞台に立った立派な名作です。あえてこのコーナーで取り上げるのは、この映画が日本であまりにも評価されていないというか、マイナー扱いされている気がするのである…「ああ、またイーストウッドの活劇映画か!ワン・パターンだなぁ…」と。確かに日米共に興行成績はベスト10にも入っていないが、批評家達に好感を持って受け入れられ、徐々に評価が高まっていった幸運な映画が本作なのだ。僕は、ビデオとDVDの両方を買ってしまったほどこの作品に思い入れがある。どうしても、この作品の良さを伝えずにはいられないのである。
この映画が作られたのは、1992年…今からちょうど10年前である。監督は、あのクリント・イーストウッド。どんな内容かと言うと、かつて容赦なく人を撃ち殺し、無法者として恐れられていた男ウィリアム・マニー…イーストウッドが演じる…が、ある女性を愛して結婚。その時、彼は改心し二度と人を殺さないと誓った。物語は、その妻の死後貧しい中で、マニーが2人の子供を育てているところから始まる。
その一方で、とある町の娼館で娼婦が怒った荒くれ者に、ナイフで顔を刻まれる。娼婦たちは、町の保安官…ジーン・ハックマンが演じる…に訴えたが、彼は偏見に満ちた権威欲に満ちた人物で取り合おうとしない。そこで、娼婦たちはお金を出し合って、荒くれ者を倒してくれる賞金稼ぎを雇う広告を出した。子供を育てるのにお金がなかったマニーは、かつての相棒ネッド…モーガン・フリーマンが演じる…に誘われ、苦悩の末に共に出発。娼婦たちの町へ辿り着いた彼らは、保安官たちから嫌がらせを受けながらも、彼らの使命を実行しようとする…。という物語である。
Imaged by JOLLYBOY
この"許されざる者"の物語は、過去幾多とあった西部劇のような勧善懲悪の物語ではない。イーストウッドが若かりし頃に主演した"荒野の用心棒"や"ダーティー・ハリー"シリーズは、典型的な悪人が登場しイーストウッドがそれを倒す…という構図だった。彼の主演する初期の作品は、そういう傾向の作品が多かった。しかし、その後悪人は必ずしも犯罪者の顔を被らなくなっていった。ある時は横暴な看守への反抗、ある時は不正を働く上院議員との対峙、ある時は人殺しの大統領との対決…というように、対"国家権力の要素"も加味される。目に見える正義が、必ずしも正義ではないのだ…と。老境の域に達した最近では、人生を達観したというか、悟りの境地に至ったような作品が多くなった。"パーフェクト・ワールド"や本作は、本当の正しさや真理を狭量な人間に分かるのか?人間の罪を、たかが人間が裁けるのか?…と問い掛ける。
この作品では、それが一層強調される。かたや悪人の象徴、西部の元無法者マニー。かたや正義の象徴の保安官。しかし、実際はそうではなかった。そして、社会の底辺で生きる弱い娼婦への虐待。ラスト・シーンで怒りの絶頂に達したマニーは、自分に禁じていた無法者としての自分を解き放つ。このドラマの真意が分からない人は、過去の西部劇と同じように「ピンチに陥っていた主人公が、最後の決闘で悪人達をなぎ倒す爽快感のラスト!」と感じるかもしれない。しかし、それはこの作品が語りたいことではない。
苦悩する主人公が再び銃を手に取ったのは、この町では弱い者が救われていない…と痛切に分かったからである。自分は、もう人殺しをするつもりもないし、愛する妻にそう誓った。しかし、彼は賞金のためでなく虐げられる娼婦たちのために、自らかつての"極悪人マニー"を演じることに決めたのだ。もちろん、そんな台詞は一言もないが、イーストウッドの演技がそれを観る我々に悟らせる。保安官たちを倒し自分の役目を終えたマニーは、馬にまたがる。大雨の中、町中の人々が見守る中で、彼は言う。「御婦人方を丁重に扱え!」…そうしないと、彼はまた戻ってくる…鬼のようなマニーを、怯えながら見上げる町の人々。その中を、雨に打たれながらゆっくりと去っていくマニー。それが、とても悲しく同時に威厳があるシーンなのだ。西部劇の爽快感や勧善懲悪の世界とは、相容れない。マニーと結婚した女性の父親は、何故愛する娘がマニーなんかと結婚したか理解できない。しかしラストシーンで、観客は何故その女性がマニーを愛したかを知ることになるのである。
アカデミー賞とは無縁の娯楽肌のイーストウッドは、本作で初めてアカデミー賞の候補になり、監督賞と作品賞の二つのオスカーを手にしたのである。この映画は、彼の恩師である2人の映画監督であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げられ、イーストウッド自らが「最後の西部劇」と呼んだ。確かに、この域に達した西部劇を作るのは、今後並大抵の努力では無理であろう…と思う。