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第十一章 地球から一光年

 エンタープライズ号が地球を出発してから、二年と八ヶ月が経過した。船の速度は、地球出発から十ヵ月後に光速の五〇%に到達。巡航速度に達した後、高分子皮膜帆はその役割をほぼ終えていた。ジャクリーンの計算上では、今日この日、エンタープライズ号が地球からきっかり一光年の距離を超えることになっている。実際には、相当の誤差があるのはロボット達も承知していた。
 娯楽室に集まったロボット達は、相変わらず飄々としていた。人類史上の特別の記念日でも、ロボット達にとっては物理的に他の日となんら変わらない。彼らは、淡々とルーティンワークをこなすだけだった。太陽系脱出も、ヘリオスフェア境界の突破も、そしてこの一光年距離到達も、単なる数字上・データ上のことでしかない。地球では、リンドバーグが大西洋横断に成功した日や、アポロが月面に着陸した日などは、マスコミが大騒ぎし世界中が喝采を送ったものだ。しかしここには新聞記者はいないし、記念日に空けるシャンパンすら存在しない。ここは、孤独な漆黒の宇宙空間なのだ。
 船長のバルタザールが、感慨深く言う。
「随分、遠くまで来たものだ…音速旅客機なら、ここまで来るのに百万年以上かかる。それを、我々は二年八ヶ月でやって来たのだ。」
カスパールが、続けて言った。
「我々は三年近くも、この狭い空間で過ごしてきたのだな。地球の囚人の方が、ここの我々よりは自由だろう。」
「二十世紀半ばに、アメリカで感覚遮断実験が行われたことがある。五感を遮断されて、真っ暗の空間に長時間おかれると、たいていの人間は幻覚・幻聴に苛まれる。人間だったら、とてもこの宇宙船の狭い部屋での生活は長くは耐えられなかっただろう。」
と、メルキオールも言った。彼は、続けて言った
「しかし現在我々には、自由なテーマで討論することが許されている。自由に好みの映画を観たり、音楽を聴けるようにもなった。私には、まったく不満はないよ。」
カスパールは、右手の人差し指で自分の頭を指差して言った。
「同感だね。仮想空間での活動も解禁されたから、何ら不自由さも感じない。仮想空間なら、遥かな距離も時間も一瞬で飛び越えられる。グランドキャニオンにも、パリにも、自由に行き来できる。今すぐに、十億年前の地球を見ることも、遥か未来の太陽系の姿を見ることもできる。人間には、なかなか味わえない感覚だろう。我々は、そもそもデジタル仮想空間に適した頭脳を持っている。実際の物理的な空間の広さと言うのは、我々には何の意味もない。」
これを聞いたバルタザールが、カスパールの方に顔を向けて言った。
「そう言えば、カス。君は、最近特に仮想空間への出入りが多いようだね。」
カスパールが答える。
「私の任務は、船の故障や損耗でも生じない限り出番がない。それに、船の保守データ収集と管理は、基本的にジャクリーンがすべてやってくれている。早い話が、私は暇を持て余しているのだよ。良かったら、今度仮想空間内のガイド役をかってでるよ。」
バルタザールは、今度はメルキオールの方に向き直った。
「メル、君の方は何か新しい発見はなかったかい?」
メルキオールは、しばし考え込んだ。
「知っているとは思うが、この広大な宇宙空間を渡る間に、未知の小惑星を一つ発見したよ。惑星とは言っても、彗星に毛が生えた程度の大きさのものだけどね…。取り敢えず、人類には未知の小惑星だ。どの太陽系の重力圏からも離れ過ぎていて、宇宙空間を彷徨っている星だ。船の速度が高速すぎて、まともな観測はできなかった。」
「ああ。その話なら前に聞いたな。」
と、バルタザール。カスパールが、突っ込んだ。
「同じ話を何度も繰り返すのが、人間の性らしいよ。もっとも僕らはロボットだけどね…。他には何か面白いデータはなかったかい、メル?」
メルキオールが、再び考え込んだ。
「宇宙に関する話は大してないが、心配なことが一ある。地球から送られてくる電波が、非常に弱まっているんだ。指向性電波だから減衰せずに遠くまで届きやすいが、それでもこれだけ距離が離れるとノイズがひどい。電波が届く度にジャクリーンがノイズの除去をしているが、その処理時間がどんどん長くなっている。逆に言うと、我々が送っている圧縮データの送信電波は、地球に届きにくくなっているかもしれない。この船の電力事情は皆が知っての通り、さほど良いものではない。一日に五分の送信が限界で、それでも地球側が送ってくる電波に比べれば遥かに小さい出力だ。地球側も、我々の送信電波のノイズ除去に苦労しているはずだ。」
カスパールは、メルキオールに言った。
「何故NDPのスタッフは、この宇宙船に中継用の通信衛星を搭載しなかったのかな。せめて半光年毎に衛星を一個ずつ配置しておくだけでも、地球との通信は容易になると思うが。」
その問いに、メルキオールが答える。
「彼らも、通信衛星の可能性を考えなかったわけではないんだよ、カス。考えてみたまえ。通信衛星は、必要な場所に配置して停止させておかなければならない。しかし、光速の半分という超高速で進む宇宙船から衛星を放り出したら、慣性の法則で衛星は船と同じ速度で移動してしまう。通信衛星を止めるためには、膨大な燃料とロケットエンジンをその衛星に積む事が必要で、結果として巨大な通信衛星になってしまう。たった一機の通信衛星すら、この船には詰めないだろう。この船が光速の半分を出す必要要件は、超軽量であることだからな。この船がもっと大きな核融合推進エンジンと燃料タンクを積み、直径五百キロメートルもの帆を持っていたら話は別だけどね。」
バルタザールが、船長らしい威厳をこめた口調で、ゆっくりと話し始めた。
「この宇宙船が、いつかは地球との交信許容範囲の外に出てしまうのは、地球側でも分かっていたことだ。そのために我々が作られ、この船に乗せられたのだからな。人類の制御下から飛び出した後も、我々なら任務を滞りなく遂行できる。人間のように病気や怪我で死ぬこともなく、使命を成し遂げるのだ。例え我々三人が壊れても、我々の後ろに控えている計六体もの我々のバックアップが任務を成し遂げるだろう。」
 彼がそう言い終わらない内に、ジャクリーンのLEDライトが激しく点滅した。スクリーンに、数字が明滅している。バルタザールが言う。
「さあ、いよいよ地球から一光年の距離を超えるぞ。」
もちろん、それは計算上の距離でしかないが。カスパールが、カウントダウンを始める。
「十、九、八…。」
バルタザールと、メルキオールもカウントダウンに加わった。
「七、六、五、四…。」
スクリーンの数字が、その声に合わせて減っていく。
「三、二、一…。」
スクリーンの数字が、0を示した。
「タッチダウン!」
こうして、エンタープライズ号は地球から一光年の距離を超えた。