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第三十四章 退院前夜

 坂野は、新しい生活の準備を着々と進めていた。
 3月後半に運転免許が取れ、古物商の認可も大船の骨折りで取得できた。大船百合香大学における坂野の勉強はまだ終わったわけではなかったが、これらの勉強は一生続くものだと言う事を、彼も少しずつ理解し始めていた。
 勉強やお見舞いの合間に、中古のオフィス家具を買ってきて直したり、壁にペンキを塗ったりして物件内部の改装を始めた。そう言った事は得意だったから、自分でコツコツとやった。引っ越しの方は、とても簡単だった。なぜなら、今の彼には何も所有物や財産が無かったから。
 そして、大森の退院予定の前日には、内装はすべて完了した。最低限必要な布団や食器や調理用具等も揃えた。電気、ガス、水道の手続きも終えた。電話も契約した。彼は、彼と大森の新しい城を眺めて満足した。

 坂野が椅子に座って内装を眺めていると、仕事を終えた大船がタクシーでやって来た。彼女は、新しい内装の色…薄目のターコイズブルーの壁…を見て言った。
「素敵な色ですね、坂野社長。着々と準備が進んでいますね!」
「うん。明日、大森さんが退院して、ここに来るしね。ある程度、形にしておきたくて。いよいよ明日から、ここでの新生活が始まるんだなぁ…」。
と坂野が言うと、大船も感慨深げに答えた。
「今日で、大船百合香大学は卒業ですね。明日から、マンションから坂野社長がいなくなると思うと、ちょっと寂しいです」。
本気とも社交辞令とも取れる台詞に、坂野はドキッとした。坂野は、彼女の目を見られなかった。
「大船さん、色々とありがとう」。
しかし、大船の応答は予想外のものだった。
「お礼は、まだ早いです!まだ終わりじゃないですよ。ドラマや映画なら、ここでハッピーエンドかも知れないですけど、現実はここからがたいへんなのです。商売は、お金さえ用意できれば誰でも始められます。問題は、開業した後にちゃんと利益を出して、商売を続けていくことなのです。それが難しいのです。坂野社長も、一から商売を始められた方だから良く分かっているとは思いますけど」。
そう言いながら、大船は鞄の中から一冊のファイルを取り出した。そのファイルを、坂野に渡しながら言った。
「これが明日から始める『坂野強社長・社会復帰プログラム第二弾』です!私は、坂野社長が商売で利益を出すまで支えるって、約束したのですから!」。
坂野はそのファイルを開いて、ざっと目を通した。そこには、ぎっしりとスケジュール等が書き込まれている。坂野は、それを読み上げていく。
「3月末、坂野と大森の共同生活開始。

4月1日、お店開業のための準備開始。看板のデザインと製作の依頼、チラシのデザインと印刷の依頼、名刺作成の依頼、開店記念品の決定とロゴ入れの依頼、コンピューターの導入と訓練。
完成した名刺とチラシを持って、近隣への営業開始。同時に、廃品の回収のスタート。
4月15日から3日間限定の、プレオープン。来店者への記念品を配布し、店をPR。その後、再び廃品回収を行う。
そして5月1日、正式オープン。目標、七月末に月間営業黒字化!」
大まかなスケジュールの次には、細々とした計画や留意点がびっしりと書き込まれている。坂野は、目が点になった。
「凄いスケジュールだな~。しかも、開店3ヶ月で営業黒字って、ちょっと無理っぽくない?」
「何を仰っているのですか!坂野社長らしくもない!もっと強気で行きましょう!」
「あっ、はい」。
大船の叱咤と迫力に、坂野は思わず首を縦に振ってしまった。
「そうだね。そのぐらいの目標は、軽くクリヤーしなきゃね!」
「そうですよ、その意気です!そして順調に業績を伸ばして、なるべく早く法人化しましょう!その方が社会的信用度も増して、銀行取引や対外的な商取引も得られ易くなりますから!そして、名実共に、坂野社長は『社長』に復帰です!」
「大船さん、もうそこまで考えているの?凄いね」。
「そんな事ありませんよ。あっ、それから渡しておく物があります」。
そう言って、再び鞄の中を弄り、茶封筒を取り出して坂野に手渡した。。
「はい、200万円」。
「えっ?」
「開店準備資金と、当面の回転資金に家賃代や光熱費に食費。それから冷蔵庫とか、洗濯機とか、色々揃えなくちゃいけないでしょ?大森さんの年金が受け取れるのは7月だし、それまではコレでがんばってください!」
そう屈託も無く言う大船に対し、坂野は戸惑った。
「でも、こんなには…」。
大船はきっぱり言った。
「何を言ってるんですか!上げる訳じゃないですよ。ちゃんと返してもらいます。大森さんの手術費と治療費、わが家での飲食費、テキスト代、教習所費用に免許取得費用、古物商認可に関わる司法書士の費用、この物件の礼金に敷金、そして一か月分の家賃、未払いだった年金保険料や健康保険料の支払い、そしてこの200万円を含め、一切合財全部込みで総額650万円!
そこから、坂野社長から借りていた120万円と利息30万円の合計150万円を差し引いて、500万円です!驚きました?」
坂野は、単純に驚いた。
「驚いた。そんなに大金を出してくれていたなんて…」。
大船は、笑って答えた。
「私も驚きました。7年間こつこつ貯めてきた貯金を、ぜ~んぶ使い果たしましたから!ちゃんと返してくださいね。でも、証文も覚書も書きませんよ。坂野社長を信頼していますから」。

坂野は、またもや泣いてしまった。