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第三十三章 坂野の新しい城

 2月、大森の手術が行なわれた直後、坂野のギブスも取れた。彼の左腕は木の枝のように細く、とても頼りなさ気に見える。とても、自分の腕とは思えない。しかしギブスが取れて、久しぶりに自由な開放感を味わった。

 一方、勉強は終わることなく、日々続けられた。坂野は、最初は食わずぎらいだった机上の勉強も、次第に慣れてきて面白くなってきた。20代前半、食品の栄養や運動そして医療について、一生懸命に学んだ日々の事を思い出した。彼は、熱中するとのめり込むタイプだった。
 大船は、坂野の疑問には一つ一つ丁寧に答えてくれる。ある日坂野は、夕食時に大船に尋ねてみた。
「大船さんは、短大時代、経営学部とか経済学部とかだったの?」
「いえ、英文学部ですよ。どうしてですか?」
「だって、税務とか、財務とか、法務とか、経営工学とか、そう言うのにやたら詳しいじゃない?」
「それは、会社に入ってから学んだんですよ。でも、それだけじゃ無いんですけどね。その秘密は…今は内緒です」。

 坂野は、ずっと年下である大船を、いつしか尊敬するようになっていた。会社の仕事が十分忙しいはずなのに、色んな事を自分で学んでいる。本棚には、難しそうなタイトルの本がびっしりと並んでいた。
 しかも彼女は、20代と言う若さで課長と言う重責を果たしている。素晴らしい女性だ。そして彼女は、学生時代とは比べ物にならないほど美しかった。スタイルの良さとか、化粧の上手さとか、服装のセンスとか、そう言うレベルを超えた内面の美しさが全面に滲み出ている。そんな彼女の所に、こんなに情けない最低最悪の四十半ばの自分が居候させてもらっている事を、たいへん申し訳なく思った。彼女の同僚の男性陣が知ったら、彼は袋叩きに合ってしまうに違いない。
 彼は、自分の社会復帰のため、入院中の大森さんのため、そして必死に支援してくれている大船さんのためにも、もっとがんばろうと決意した。

 3月に入って最初の日曜日、大船は坂野を外に連れ出した。
「今日は、どこへ行くの?」
「まあ、もうちょっと歩けば分かりますから…」。
結局二人は、大船のマンションから30分くらいは歩いただろうか。ある建物の前で立ち止まって、大船はその建物を指さした。二階建ての空き屋。
「ずっと色んな物件を探していたのですけど、やっと坂野社長にぴったりの物件を見つけたのです!」。
「私に?」
大船は、その物件に近づきながら言った。
「本当は4月からって思っていたのですけれど、退院したばかりの大森さんをまたホームレスに戻す訳にはいかないでしょ?だから一ヶ月早めに、探していたのです。鍵預かっているから、中を案内しますね」。
坂野は、大船に素直に従った。
「中古物件だけど、そんなに古くはないです。敷地面積は15坪と小さいけれど、一階は店舗で、裏には倉庫も在ります。2階は、2LDKでお風呂とトイレ付き!商売をしながら二人が住める物件で、しかも賃料も手頃です。どうでしょうか、商売が軌道に乗るまで、ここで暮らすと言うのは。あの、もちろん、坂野社長が気に入ればと言うことですけど…」。
そう言って、大船は坂野の方を振り返った。
「素晴らしい完璧だ!ありがとう、大船さん!」
坂野がそう言うと、大船はにっこり笑った。
「よかった!ホッとしました。気に入ってもらえないのじゃないかと思って…。それじゃこの物件、本契約申し込ませていただきます。人気がある物件なので、取り敢えず仮押さえはしておきましたから」。
しかし坂野には、一つ拭い切れない疑問があった。
「あの、保証人の件はどうすれば…」。
大船は、きっぱりと言った。
「もちろん、保証人は私です!」
坂野は、またもや申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当に何から何まで、ありがとう…」。
また、坂野の目に涙が浮かんだ。昨年の夏以降、どうも涙もろい坂野であった。