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第二十九章 クリスマスの邂逅

 翌朝、坂野はベッド脇で目覚めた。祈っているうちに、寝てしまったようだ。彼は、大森の口元にそっと耳を寄せる。規則的な呼吸音が聞こえる。良かった。大森は危険な夜をなんとか乗り越えたようだ。
 しばらくして、大森が目を開いた。大森は、囁くような声で言った。
「ここは?」
「病院ですよ、大森さん。肺炎です。ゆっくり休んでください」。
大森は、言った。
「でも、貯金が…」。
坂野は、微笑んで答えた。
「大丈夫です。貯金は、一円も減っていませんよ、大森さん」。
そう言いながら、彼は貯金通帳をめくって数字を見せ、その通帳を彼の手に握らせた。大森は安心したのか、再び眠りに落ちた。

 夕方、大森の検診と治療の時間になり、坂野は一旦病院を出た。冬の冷たい風に当たりながら、通りを歩く。コンビニの前では、ケーキの安売りが行なわれている。そうか、今日はクリスマスか。クリスマスが終わってしまう前の、ケーキの投げ売りだった。そう言えば、昨夜クリスマス・イヴだったから、大森のテントを訪ねたのだった。

 薄暮の中、坂野は歩きながら懸命に考えた。大森が死守してきた50万円。自分が必死になって稼いだ20万円。その全額を持ってしても、癌の治療費にはまったく届かない。「少なくとも250万から300万円はかかるでしょう。」…医者の無情な台詞が、何度も彼の頭の中に鳴り響いた。
 彼がいくら廃品やダンボールを回収しても、そんな多額の費用を稼ぐ事はとうてい無理だった。社長だったかつての坂野強であったら、そのぐらいのお金はポケットマネーで、ポンと出す事ができただろう。自分は、何と言う無駄かつ贅沢な暮らしをしていたのだろうか。あの時のお金が少しでも残っていれば…悔やんでも仕方の無い事だったが、後悔せずにはいられなかった。
 大森を救う方法は、何一つ考えつかなかった。太陽は沈み、町に夜が訪れた。街はクリスマスだと言うのに、坂野の心は暗く沈んでいた。最低な気分である。恩人にすら報いる事のできない、情けない自分…。
 彼は、発作的にある考えが浮かんだ。"当たり屋"。車にぶつかり、多額のお金を請求する。大森は、献身的に自分を助けてくれた。今度は、彼が大森を救わねば!当たり屋行為は、どのような社会でも嫌悪される犯罪行為である。しかし、もはや理屈ではなかった。例え自分の命を犠牲にしてでも、大森を救いたい。今の彼の頭にあるのは、その思いだけだった。
 彼は、神田川にかかるある橋の街灯の下で待った。高級車が通るのを、ひたすら待った。メルセデス、ジャガー、BMW、ロールスロイス、ベントレー…その他お金を持っていそうな人が乗っている車ならなんでも良かった。坂野は、橋の下の信号で停止している一台のアウディに狙いを定めた。
 信号が赤から青に変わると、アウディのセダンは徐々にスピードを上げた。十キロ、二十キロ…、次の瞬間、坂野は街灯の下からアウディの前に飛び出た。 
 アウディの運転手は、急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。坂野の体は車体正面にぶつかり、そして路上に倒れた。しかし、坂野の意識はしっかりしていた。頭は、大丈夫なようだ。しかし腕から倒れたので、左腕の肘が痛かった。車の運転手が慌てて降りて来た。
「大丈夫ですか!?今すぐ、救急車を呼びますから!」
BMWの後席からは、別の人間が出てきた。女性のようである。
「ちょっと待って。その人、しっかりこの車を目指して飛び出て来たわよ!当たり屋ね!さもなければ自殺かしら!?そうなんでしょ!」
図星だった。しかし、故意に当たったと認める訳にはいかない。坂野は上半身を起こし、反論した。
「人を撥ねておいて、なんて言い草だ!ケガをしたぞ、どうしてくれるんだ!?」
女性が一瞬、沈黙した。少しは、まずいと思ったのだろうか?
「ちょっと、待って!聞いたことのある声だわ!」
何?坂野は、戸惑った。そう言えば、この運転手と女性の声、彼もどこかで聞いたことがある気がする。街灯の下、女性は彼の顔を覗き込んだ。
「坂野社長!」
坂野は、見ず知らずの人間に自分の名を呼ばれてたじろいだ。運転手も、彼の顔を見て言った。
「坂野社長!」

アウディの二人は、確実に彼を知っているようだった。二人の顔は、街灯の光の陰になっていてよく判別できなかった。坂野は、目を細めて二人の顔を凝視した。

「えっ?大船百合香に、戸田秀夫か!?あれ?え?」
二人の人物は、彼の元運転手の戸田秀夫と、元学生の大船百合香だった。運転手は言った。
「坂野社長、腕が反対側に曲がっています!」
そう言われて、彼はずきずきと傷む自分の腕を見た。左腕が肘のところから、奇妙な方向に折れ曲がっている。骨折していた。坂野は、自分の腕を見て失神した。