太陽と月のハーモニー入口 >トップメニュー >ネット小説 >ハーモニー >現ページ

第二十八章 緊急事態

 12月となり、真冬が到来した。真冬の外気の温度は、骨身に染みる。坂野は毛布を二枚買ったが、毛布程度では冬の寒さを凌ぐのは難しい。何せ、ストーブもヒーターもコタツも無いのだ。坂野は、大森から真冬の凌ぎ方を習った。底にブルーシートを弾き、ダンボールで筐体を作り、ブルーシートを被せる。寝る時は、ダンボールを掛け布団代わりにする。
 真冬に、ダンボールは必需品だった。ダンボールは風をシャットし、保温性も意外と高くて暖かい。それでも、雨の日には寒さが身に染みた。冬の氷雨は、ブルーシートの裏側から体の芯を冷やした。坂野は、真冬の寒さを日々耐え続けた。
 1998年の年末も押し迫ったクリスマスイヴの夜、坂野は大森のブルーシートテントを訪れた。坂野は、入口で呼んだ。
「大森さん」。
返事が無かった。もう一度、呼んでみる。
「大森さん?」
やはり、返事が無い。留守なのか。次の瞬間、テントの中から唸り声が聞こえた。坂野は、大急ぎでテントの入口を開けた。大森が、仰向けに寝て唸っていた。坂野は、慌ててテントに飛び込んだ。
「大森さん!」
彼は駆け寄り、耳元で呼んだ。大森の唇は青ざめ、そして体は震えていた。坂野は、大森の額に手を当ててみた。
「ひどい熱だ!救急車を呼ばないと!」
すると、微かな声で大森が呟いた。
「・・・待ってくれ」。
「何ですか、大森さん!」
「入院したら、貯金があっと言う間に無くなる。あたしらには、保険なんて何も無いんだよ。将来のための大事な資金なんだ…救急車は呼ばないでくれ。今までも、なんとかしてきた。今回も、大丈夫だ」。
「何を言っているんですが!凄い、高熱です!死んだら、元も子も無いじゃないですか!」
大森は意識が遠退いたのか、返事が無かった。坂野は急いで公衆電話のある場所まで走り、迷う事無く119番に電話した。
救急車は、十分後に公園にやって来た。救急隊員の中には、明らかにホームレスの彼らに対する嫌悪感を露骨に表わす者もいた。しかし今の坂野にとっては、そんな事はどうでも良い些細な事だった。
「お願いです!早く、大森さんを病院に連れて行ってください!お金ならあります!ほら!」
彼はそう言って、黄色い財布から必死に貯めた二十万円を救急隊員に示した。救急隊員は言った。
「落ち着いてください。今から搬送先を探しますから」。
大森は救急車に乗せられ、坂野も付き添い人として乗った。年末、それも夜間の病院は、どこも人手不足で受け入れを拒否された。特にホームレス患者となるとより受け入れは困難になり、あちこちたらい回しにされ、結局は最初に連絡を取った救急当番医の総合病院に運ばれた。

 病院には、あちこちから救急患者が搬送されていた。医者や看護婦が、忙しく動き回っている。看護婦が、昏睡状態の大森の熱を測った。熱は、四十度に達していた。搬送されてから一時間後、ようやく大森の診察が始まった。診察後、大森は検査用の服に着替えさせられて、レントゲン室に運ばれた。坂野は、ただ心配して待つしかなかった。

 しばらくして、担当医が坂野を診察室に呼んで言った。
「あなたは、大森さんの家族ですか?」
「いいえ、友人です。大森さんには、家族はいません」。
「そうですか…」。
坂野は、担当医に尋ねた。
「大森さんの容態は、どうなんですか?」
「肺炎です。かなり重症で、危険な状態です。しばらくは、絶対安静が必要です」。
「お金は、少しお金を持ってます!入院と治療をお願いします!」
「入院や治療の費用については、心配要らないでしょう。無料定額診療制度と言うのがあって、その手続きをしておきますから」。
それを聞いて、坂野は少し安堵した。医者は、続けて言った。
「しかし、別な問題があります」。
「何でしょうか?」
「レントゲン検査の結果、肺に癌細胞組織が発見されました。細かな検査をしないと詳しい事は断然できませんが、ほぼ小細胞肺癌と思われます」。
大森が癌??…それを聞いて、坂野はショックを受けた。
「その、肺癌、治せるのでしょうか?」
医者は、言葉を濁らせた。
「癌の治療には、最先端の高度医療が必要です。手術や治療には、多額のお金が必要になります。無料定額診療費用では、対応できません」。
坂野は、大森の言葉を思い出した。
「大森さんの服や荷物はどこですか?」
医者は、診察室内の籠の指さした。
「そこにあるけど…」。

 坂野は、籠の中から大森の腰巻ベルトを探し出した。ボロボロの腹巻のような腰巻ベルトから、彼はビニールのパックを取り出した。その中には、年金手帳と印鑑、そして通帳が入っていた。彼は、その通帳を取りパラパラとめくった。大森が四年に渡って死守した貯金。通帳には、五十万五千四百円の数字が印字されている。坂野は、それを医者に見せていった。
「見てください!大森さんは、五十万円持っています!私も二十万円持っています!併せて七十万円、これで治療をお願いします、先生!」
医者は、明らかに困った表情を浮かべていた。
「この種の肺癌の治療には、放射線治療や手術、それに薬物療法が必要です。いずれにせよ、最低でもだいたい二百五十万円から三百万円はかかるでしょう…」。
坂野は、呆然となった。七十万円では、まったく足りない…。彼は、先生に訴えた。
「なんとかする方法はないのですか!大森さんは、大切な人なのです!」
担当医は、目を背けた。
「残念ですが…。とにかく今は、肺炎の治療が第一です。今、大森さんはたいへん危険な状態ですから」。
看護婦が、担当医に声をかけた。夜間救急は大忙しで、大森一人に時間をかけている訳にはいかなかった。医者は席を立ち、坂野も診療室を出た。

 大森は、大部屋の病室に移された。大森は、こんこんと眠っていた。カーテンに仕切られたそのベッド横の椅子に、坂野は座って両手に顔を埋めた。

 坂野は、会った事も見た事もない神に向かって、必死に祈った。

「あなたがどんな方か知りません!でも、お願いです!これ以上、大切な人を私から奪わないで下さい!」