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第二十四章 希望の光
二週間も経つと、坂野もホームレス社会の生活リズムを掴んできた。
どの地区で、どの曜日に、どんなゴミが出るのか。ダンボールやアルミ缶を、引き取ってくれる業者はどこにあって、何曜日の何時に回収してくれるのか。
大切なノウハウや考え方も、身に付けていった。
衣服を綺麗に保つ事が、どれだけ重要かということ。少しお金の貯えができたら、必ず服や靴も買うこと。ボランティア団体の無償供与の衣服も、活用すること。
体も清潔に保つこと。銭湯に行くのが無理でも、濡れタオルで体を拭くこと。汚れだけでなく、体臭にも気を付けねばならないこと。汚れは目で見て分かるが、臭いの方は本人には気が付きにくい。店で買い物を続けるには、絶対にこれは守らねばならない。
公園のトイレや水道は、きれいに使うこと。さもないと追い出されて、トイレも水道も使用禁止になるかもしれない。
大事な持ち物は、常に身に付けるか、身の回りから離さないこと。日雇いの仕事などの都合で、どうしても荷物を誰かに預けねばならない時は、駅のロッカーを使うこと。
他人の過去は、決して穿り返さないこと。ホームレスになるには、色んな理由がある。リストラで仕事と住む場所を失った者、体や心の病気で行く場を失った者、借金を返済できず逃げてきた者、元々働く気が無く放蕩に明け暮れた末に流れ着いた者、等々…。
坂野は、この二週間で多くのことを学んだ。
ある朝、公園で目覚めると、大森は坂野に言った。
「もう、お前さんも、ここの暮らしが分かったろ…。あたしも、ずっとお前さんの御守をしている訳にもいかん。今日でお前さんは卒業、今日から一人立ちだ」。
坂野も、大森にずって迷惑をかけている事を気にかけていた。
「本当に、何から何までありがとうございました…」。
「今日は、お前さんの一人立ち記念のお祝いの宴会をするから、この公園に夜8時に来なさいよ」。
その夜、坂野は公園に戻った。大森は公園の枝にブルーシートを張り、その下にダンボールを敷いていた。
そのダンボールの上には、料理が並んでいる。缶ビールに日本酒、いなり寿司に納豆巻、おでんの缶詰に鮭の缶詰、柿ピーにスルメイカ、そして30%引きのシールを貼ったお刺身まであった。たぶん、大森はこの夜の宴会のため、二千円近い大金を出費したに違いない。坂野は、体が感動で打ち震えていた。何もない自分のため、何一つ報いることができない自分のため、ここまでしてくれる人間が、ここに、彼の目の前に居る。
「おい、坂野さん。突っ立ってないで、ここに座って、座って」。
坂野は、大森に言われるがままそこに座った。
「まずは、乾杯だ」。
そう言って、大森は缶ビールを開けて坂野に渡し、乾杯をした。ビールを飲むのは、否、アルコールを飲むのは、7年以上ぶりだった。ビールが咽喉の渇きを潤していく。ビールがこれほど上手いものだったとは!
「ぷはぁ~、美味しいです、大森さん!」
「ははは!そうか!それじゃ、これも食え!」
そう言って、刺身のラップを剥がして坂野に勧める。醤油を付けて、マグロの刺身を一切れ口に入れる。上手い!
「マグロもおいしいです!」
坂野は、大森を見てそう言った。大森も、いつに無く嬉しそうである。
「今日は、ゆっくり食べて飲んで、楽しもう、坂野さん!」
「はい、大森さん!」
二人は、初めは差し障りのない会話をしていたが、坂野はどうしても大森の過去を聞いてみたくなった。この社会の暗黙のルールで、過去に触れてはいけない事は分かっている。しかし、坂野はその衝動を抑えきれず、遂にその質問をする決意をした。
「あの…大森さん…」。
「なんだい、坂野さん」。
「大森さんに、どうしても聞きたいことがあるんです」。
「今日は特別だ。何でも聞け!」
大森は、上機嫌だった。
「なんで、大森さんのような、ちゃんとしてて面倒見も良い人が、ホームレスなのかと…」。
大森はビールを飲む手を止め、坂野の目を見据えた。怒らせてしまったのだろうか…坂野は、質問したことを少し後悔した。しばし沈黙があったが、大森はゆっくりと口を開いた。
「ホームレスになったのは、4年前だ。それまでは、タクシーの運転手をしていたんだけどな、目を患ってね。タクシー会社を解雇された。60歳で解雇って辛いよ。病気でしかも60歳の独身男なんて、誰も雇っちゃくれない。
ああ、最初から独身だった分けじゃないよ…。妻は、8年前に亡くなった。子供はいない。あたしゃね、家族がいないんだよ。妻が唯一の家族だったんだ」。
坂野の人生を髣髴とさせるような、大森の境遇だった。坂野も大森も、天涯孤独の身。
「仕事も無く、貯金も減り始めた。それで貯金が無くなる前に、自分でホームレスの道を選択したって分けだ」。
坂野は、自分で質問をしたものの、どう返してよいか分からなかった。
「でもね、希望はあるんだ。年金保険料はずっと払ってきたから、65歳で年金を受け取れる!あと一年…来年7月で、あたしゃ65歳だよ!そうしたら、年金受け取って、アパート借りるんだよ。その敷金や礼金や家財準備のために、今まで貯金も使わずにきたんだ。そのための、このホームレス生活なのさ。年金手帳と通帳と印鑑は、腰巻ベルトに入れて肌身離さず持っている。言っとくが、これは絶対に内緒だぞ!」
坂野は、とても驚いた。60半ばの人生をあきらめたホームレスだと思っていたこの男性は、まったく希望を失っておらず、自分なりの計画を立てこのホームレス生活を必死に生き抜いているのだ。大森は、続けて言った。
「でもなぁ~、実際は、社会復帰はたいへんなようだよ。健康保険料やら税金やらの滞納も、随分とある訳だし。それに、アパート借りるには保証人がいるだろ?あたしゃ、家族いないからね。でも、そう言う人のための援助の組織もあると聞くし、絶対になんとかするよ」。
坂野は、大森がこの上もなく立派な人間に思えた。家も車も持っていないが、強い生への希求心を持っていた。今度は、大森が坂野に問うた。
「さて、あたしが、ここまでしゃべったんだから、坂野さんの話しも聞きたいもんだね。いや、嫌なら良いよ。無理にとは言わないけどさ」。
坂野は、即座に言った。
「いえ、私にも話させてください」。
こうして坂野は、彼の半生を語った。両親のこと、姉のこと、会社を興したこと、バブルが弾けたこと、裁判のこと、刑務所のこと…。坂野は、語っているうちに目から涙が溢れて止まらなくなった。また大森さんの前で、泣いてしまった。でも、恥ずかしいとは思わなかった。
夜も更け、坂野の一人立ち記念祝いの宴会は終わり、二人は片付けを始めた。大森が、最後にこう言った。
「この公園の桜、きれいなんだよ。来年の春になったら、ここで花見でもするか」。
「はい!」
坂野がそう返事をした後、二人は別れた。