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第二十一章 安息の地

 夏の陽射しは、容赦なく坂野を照らし続けた。彼は、昼間は涼を求めてガード下や公園の木陰で休み、夜は人々の視線に追われるようにして神田川沿いを移動した。

 出所時に持っていた僅かなお金は、既に底をついていた。喉の渇きは公園の水道水で潤したが、空腹の方は如何ともし難かった。彼はもう丸三日、何も食べていない。ホームレス生活経験のまったく無かった彼は、他のホームレスの人々がどうやって生きているのか不思議でならなかった。昔はそんな事はまったく別世界の物語であり、そんな生活を考えた事すらなかった。今は空腹を満たすため、刑務所に戻りたいとすら思った。

 熱さ、空腹、絶望、すべてが極限に達して、遂に彼の頭がぐるぐると回り始めた。そして、倒れた。彼の頭上に広がる青空と白い雲を見ながら、これで彼の人生も終わるのだと、薄れ行く意識の中で観念した。

 次に坂野の目が覚めた時、何故か目の前に青いシートが広がっていた。

「気がついたか」。

坂野は、声の主の方を振り向いた。彼と同じホームレスのようだったが、身綺麗な服装だった。白髪の混じった髪も散髪してあって、髭もきちんと剃られている。全体的に、こざっぱりした印象である。年齢の方は、どう若く見積もっても、六十歳は超えているようだ。
「あなたは?」
「名前は、大森臨(おおもりのぞみ)だ。お前さんの名は?」
「坂野。坂野強です」。
「そうか。坂野さんか。あんた、熱中症で危なかったよ。すぐ冷やしといたよ。この水、たっぷり飲め」。
そう言って、彼は水の入ったポットボトルを渡した。坂野は、それを受け取ってゴクゴクと音を鳴らして飲んだ。そして、一息付いた。坂野が人と会話を交わすのは、一週間以上ぶりだった。素直に嬉しかった。
「あの…助けていただいてありがとうございます」。
「ここまで連れてきたのは良いものの、悪臭があんまりにも酷いので、あの服は捨てさせてもらったよ。あの服に未練があるなら、裏のゴミ袋に入っている」。
そう言われて、坂野は自分が着ている服を見た。新品ではなかったが、きちんと洗濯された服だった。
「あと、勝手ながら、体もタオルで拭かせてもらったよ。とにかく、さすがにその臭いじゃ、ここに置いとけんからな。その服は、お前さんにやるよ。それから、後で公園の水道で髪もちゃんと洗っとけよ。なんなら散髪してやるぞ」。
改めて自分の腕や足を見たら、きちんと拭かれて汚れが取れていた。
「何から、何まですみません…」。
「あんた、ホームレス経験、初めてだね」。
「分かりますか?」
「そりゃ、分かるさ。あたしも、初めからホームレスだった訳じゃないからな。お前さん、腹減っているんだろ?これ食え」。
大森と名乗った男は、コンビニおにぎりを一つ差し出した。坂野は上半身を起こし、礼を言うよりも早くそのおにぎりを取って、即座にほお張った。大森は言った。
「おいおい、そんなにがっつくと胃が受け付けねえぞ!ゆっくり噛め!」
大森は、もう一度水の入ったペットボトルを坂野に差し出した。坂野はその水も急いで飲むと、噎せ返った。大森は、笑った。
「ほら、言わんこっちゃない!ゆっくり食べて、ゆっくり飲め」。

おにぎりを食べ終わると、坂野は突然泣き始めた。大森は、黙ってそれを見ていた。ひとしきり泣き終わると、坂野は冷静さを取り戻した。そして、大森の顔を見て言った。
「何故、私を助けてくれたのですか?」
大森は答えた。
「さあ、何でかね。良く分からんが、それが普通じゃねえの?だって、お前さん、死にかけていたからな。ホームレスが死ぬとどうなるか知っているか?」
坂野には、知る由もなかった。
「まずはな、警察が事件性がないか調べる。どっちにしろ、形式的な手続きだ。それで、警察は死体を厄介払いできる。お次は役所内で、誰がその仏様を担当するかで、たらい回しが始まる。そんでな、運の悪い奴が、その身元の分からない死体を担当することになる。たいていは身分を証明する物なんて何も無えから、親族に連絡の取りようも無い。で、役所が火葬しなきゃならんのだが、税金使って火葬する訳だから、一番安い費用の火葬で済まされる。もちろん、無縁仏だ。つまり、一旦ホームレスになると、死ぬ時も差別されるってことだ。この世じゃ、人間が平等なんて嘘っぱちなんだな。だから、死にかけのお前さんをほっとけなかった。無縁仏になるって分かっていては、放っておけないだろ?あたしゃね、死んだ時に、神様に怒られたくないからね」。
そんな考え方もあるのか。坂野にはよく理解できない理屈だったが、大森の迫力に圧倒されて思わず頷いてしまった。
「まあ、困った時はお互い様だ。ホームレス生活に慣れるまで、ここに居れば良いよ」。
「ありがとうございます…」。
坂野は、久しぶりに聞いた人間の暖かい言葉に再び号泣してしまった。