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第二十章 真夜中の徘徊者
ボロボロの服を来た男が、都会を彷徨っていた。男の頬はこけ、目は虚ろで、髪の毛はボサボサ、そして伸び放題の無精髭が覆った顔は、排気ガスで薄汚れている。
男は、足を引きずっていた。彼の足の裏に肉刺ができ、そして潰れたのだ。そう、何度も。靴の親指の所には、穴が開いている。
男は考えていた。自分が刑務所を出てから、何週間経ったのだろう。そもそも、今日は七月なのか、八月なのか、それすら分からなくなっていた。照り付ける太陽と、額から吹き出る汗から判断すると、少なくとも夏であるのは間違いない。
彼の体は異臭を放っているらしく、すれ違う通行人達は遠巻きにして彼の横を通過していく。やがて、彼は暑さに耐え切れなくなり、昼間の移動を止めた。いつしか男は、夜にしか歩かなくなった。都会の風は、夜ですら涼しさにはほど遠く生暖かい。
真夜中、男は歩きながら考えた。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
時代の寵児と謳われ、業界の革命児と持て囃され、赤坂の帝王と言う奇妙な称号まで与えられた元青年実業家。その名も、坂野強。
しかし、今や昔のニュース映像や新聞記事にでも触れない限り、彼の名を思い出す者など誰もいなかった。"あの人は今"。すべての人間が、彼を見捨てた。彼は、世界から忘れられた人間。事実、通りを行き交う人々は、彼が存在しないかのように振る舞う。
刑務所の出所後直ぐは、各地で警察官の職務質問を受けた。困った事に、彼自身を証明する書類が何も無い。パスポートも運転免許証もとうの昔に期限が切れていた。国民健康保険証も、もちろん無い…七年間も保険料を支払っていないから。自分を証明する書類を何一つ持っていない男は、不審がられて何度か交番まで連れて行かれた。
しかし今や警察官すら、決して彼に近づこうとはしない。交番の警察官達の多くは、まるで彼がいないかのように視線を逸らして、関わらないようにした。そして男は、警官達の思惑通りに、視界から静かに消え去るのだった。
男は、黄色信号が点滅する裏道の交差点で立ち止まった。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
真夜中の裏路地は、静まり返っている。信号を見上げながら、男は裁判を思い出していた。裁判では、彼が信頼していた部下の人見も鈴木も、そしてその他の役員も、裁判の過程ですべての責任を彼に押し付けた。詐欺罪やら背任罪やら、その他聞いたことも無い罪状の数々が、彼の頭上に一つ一つ丁寧に積まれていった。高額な弁護費用など払う当てもない彼を弁護するのは、国選弁護人。上告も虚しく、彼は会社の元代表者としてすべての責任を負い、実刑判決を受けた。
7年余の刑期を終え、彼は娑婆に復帰した。しかし、彼の手には何一つ残っていない。家も、別荘も、フェラーリも、ポルシェも、すべて失われた。財産も栄誉も、すべて彼の手の平からこぼれ落ちた。刑務所を後にした時、彼が持っていた財産は、僅かなお金とたった一着の衣服と一足の靴のみ。それが、彼の全財産。
男は、多くの物を失った。それは、仕方のないこと。ただ一つだけ、心から後悔している事がある。姉の遺品だった、ブリティッシュ・グリーンのミニ・クーパーを失ってしまったこと。ミニは、記憶の彼方に消えそうになっている姉との、唯一の現実的な接点だった。それが、永遠に失われてしまった。
男は、真夜中の通りを再び歩き始めた。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
彼は出所後すぐに、かつて彼の会社のビルが建っていた赤坂のその場所に行ってみた。しかし、エステ・サカノがそこに存在していた事を示すような痕跡は、何一つ残っていなかった。
昔の自宅にも行ってみた。それは競売にかけられ、転売され、他人の物になって久しかった。家の中からは、子供の笑い声が聞こえてくる。
彼には行くべき場所が、何処にも無かった。頼れる家族も友人もいない。これから、どう生きていけば良いのだろう。
彼は行く宛てもなく、真夜中の都会をただ彷徨っていた。
何故、こんな事になってしまったのだろう。