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第十八章 暗 雲
年が改まり、1991年1月。エステ・サカノの破竹の勢いは、留まる事を知らなかった。三年間で全国に百店舗を展開する計画は、当初予定よりも前倒しして達成できそうだった。懸念されていたスタッフの能力低下の問題も、新教育プログラムが軌道に乗りつつありクリヤーできそうだ。すべてが順調だった。社長の坂野にとっても、役員達にとっても、スタッフである社員にとっても、死角は無いように思われた。
坂野は自分へのご褒美として、遂に夢のスーパーカー、フェラーリF40を個人で購入した。価格は2億円だった。
そして、翌2月。
その日は、突然やって来た。株価が暴落を始めた。株価の暴落に伴い、地価やゴルフ会員券からスーパーカーの価格に至るまで、ありとあらゆる資産の価格が下落した。
バブルは、崩壊した。
それから一週間も経たずに、メインバンクである東京千代田銀行の支店長代理の穴井が、融資課長と営業主任を伴ってやって来た。対するエステ・サカノ側は、坂野と人見と、そして退社した山田に代わって昨年末、経理部長に昇進した鈴木均 (すすぎひとし)の3名。6名は、応接室で相対した。
銀行側の一向にいつもと違う雰囲気が漂っているのを、サカノ・エステ側一同も気がついていた。穴井は挨拶もそこそこに、本題に入った。
「ご存知のように、株価や地価が大幅に下落しました。現在のエステ・サカノさんの担保評価額では、残念ながら当行の融資額をカバーできません。尽きましては、今後の新規融資については決済しかねます。また現在の融資につきましても、単名手形貸付に尽きましては、期限延長をせずにご返済いただきたいと思います」。
経理部長より先に、企画営業部長である人見が口を開いた。
「何を言っているんだ!お宅は、うちのメインバンクだぞ!それに、今までうちは、お宅の銀行の成績にも貢献してきたし、随分と儲けさせてきたはずだ!」
穴井は怯まず、人見の発言を無視して冷徹な口調で続けた。
「証書貸付につきましては、期限の利益はエステ・サカノさんにありますから、毎月の返済を今まで通りに続けてくださればけっこうです」。
銀行側の意思はもう固まっていて、一切の変更が利かないだろう、と言うことを坂野は感じ取った。坂野は感情を激する事なく、冷静に言った。
「穴井さん。株価や土地価格の評価額はともかく、当社の本業のエステ業務は順調に推移しています。今、融資を引き上げられたら、本業も苦境に立たされます。新規融資はともかく、現在の融資額だけでも維持していただけませんか?」
「これは本店融資部の決定で、支店会議でも了承されたことですので、私個人にはどうすることもできません。非常に残念ではありますが」。
穴井は、きっぱりと断った。取り付く島も無かった。坂野は、たっぷりと嫌味を込めて言った。
「晴れの日には傘を差し出すのに、雨の日になると傘を取り上げるとは、正にこのことですね」。
銀行の一同は、一方的な宣言だけをしてさっさと帰った。応接室には、どんよりとした空気が残された。坂野は言った。
「まあ、仕方無い。本業をしっかりやって儲けて、銀行を見返してやろう」。
坂野と人見と鈴木は、それぞれ自分の仕事の持ち場に戻った。
それから二週間して、経理部長の鈴木が社長室を訪れた。
「坂野社長、たいへんな事態になりました」。
「どうした、鈴木部長。資金繰りがたいへんなのは、言われなくても、もう十分に分かっているよ」。
と、坂野は応じた。鈴木は、説明を始めた。
「株やゴルフ会員券を、順次売却しております。ジェットヘリや社用高級外車も売却しました。いずれも購入時価額の半値以下、安いものだと五分の一にまで下落しています。保養施設もすべて売りに出していますが、現在まったく買い手が見つかっていません。完全に回転資金不足です。実のところ、顧客の入会金や毎月の会費まで、銀行融資の返済金に充てている状況です」。
坂野は、一瞬、声を荒げた。
「顧客のお金に手をつけているのか!」
「社長、仕方ないのです!銀行への返済を怠れば、本社や支店の土地家屋も差し押さえられ、エステ・サカノは営業ができなくなります。問題は、誰かがその情報をマスコミにリークしたようなのです。明日、週刊誌二誌が、エステ・サカノの資金流用疑惑を取り上げると通告してきました。記事が載れば、退会者が増えるでしょう。そうなれば、入会金や会費を返還せねばなりません」。
「なんてことだ…」。
坂野は、社長椅子にぐったりともたれた。鈴木は続けた。
「当社にはもはや、会員の返還請求に応じられるだけの現金がありません」。
「それじゃ、詐欺と一緒じゃないか…」。
「どうしようもありません。打つ手は、もう無いのです」。
本当に、もう打つ手は無いのか!坂野は、事態を打開すべく必死に考えた。答えは、見つからなかった。