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第十一章 新米秘書
それから、一週間が経過した。大船は不平を言わず、黙々と坂野社長の作ったプログラム通りに生活した。7月も後半になり、明日から短大もいよいよ夏休みに入る。
日曜の朝食時、坂野が食べながら大船に言った。
「大船さん。順調にがんばっているね」。
大船は、にっこり笑って答えた。
「はい!夜も、だんだん空腹を感じなくなってきました」。
「うん。張り詰める事もないけど、気を抜き過ぎないでね。悪魔は、絶頂期を見計らってやって来るからね」。
「はい!がんばります」。
「ところで、大船さん。もう夏休みなんでしょ?」
「はい!」
「それじゃ、7月と8月だけ、うちの会社でバイトしてみないか?もちろん、就職活動とかの予定がある時以外で。うちでの経験は、就職活動の役にも立つと思うよ?バイト代はちゃんと払う」。
大船はバジル入りウィンナーに刺したフォークの動きを止め、坂野の顔を見た。
「ええ?私なんかが、よろしいのですか?」
「いや、無理にとは言わないけど」。
「いえ、是非やらせていただきます!よろしくお願いします」。
坂野が食べながら頷いた。
「うん。じゃあ、明日からね」。
大船は、坂野社長の申し出を受け、また嬉しくなった。今までは、彼女の斜に構えた反抗的とも思える態度のせいで、バブル経済にも関わらずバイトがなかなか決まらなかったり、決まっても直ぐにトラブルを起こして首になったりした。そんな事もあり、今まで二十万円しか貯められなかったのである。
翌日から、エステ・サカノでの大船のバイトが始まった。仕事の内容は、なんと秘書だった!
実際は、企画営業部の人見部長や経理部の山田部長の後を付いて周り、頼まれた用事をこなすだけだったが。秘書見習いと言うよりは、雑用係と言う感じだった。それでも、大船は嬉しかった。人見部長の方は人を見下している口調でちょっと馴染みにくいけれど、山田部長の方は真面目すぎる感じがするにも関わらず何故か話しやすかった。
山田は驚いた。まさかあの騒乱女が、ここでバイトを始めるなんて!大丈夫なのか?社長は、いったい何を考えているのだ?そんな山田の考えを知ってか知らずか、大船はお辞儀をして、大きな声で山田部長に挨拶をした。
「おはようございます、山田部長。先日はたいへんなご迷惑をかけて、本当に申し訳ございませんでした!今日からよろしくお願いいたします!」
山田は、たじろいだ。先日のあの女性と同一人物とは思えないほど、前向きなオーラを放っていた。
「おはよう、大船さん。今日は、一日僕について廻るように。分からない事があったら、直ぐに聞いてメモを取るんだよ。記憶なんてあてにならないからね、必ずメモを取ること。良いね?」
「はい、分かりました!」
こうして、一日が始まった。どこに行くにも山田に付いて行き、必死にメモを取り続けた。必死に動き廻っている間に、あっという間に夕方となり、大船のバイト一日目は終わった。
自宅…と言っても坂野社長の家だが…に帰宅する頃には、大船はヘトヘトに疲れていた。みんな、こんなにハードな仕事を毎日こなしているのか。彼女は、驚きと感心と発見と充実と、その他色んな感情が入り混じった思いを抱いた。
坂野社長は、こんなにたいへんな一日をこなした後に、急いで帰宅して私のために夕食を作り、トレーニングの指導までしてくれていたのですか!
大船の中で、更に坂野への尊敬の念が大きくなった。これ以上、坂野社長に負担をかけてはならない。そう思ったら、自然にキッチンに立っていた。今度こそ、坂野社長に料理の腕を披露しよう。
夜、坂野社長が帰宅した。白いスーツの上着を脱ぎながら、坂野は言った。
「いま、夕飯を作るからな、待ってろぉ~」。
そんな坂野を、エプロン姿の大船が迎えた。
「あの、今日は、夕飯、私が作ってみたのですけれど…」。
坂野が足を止め、大船を見て、それからテーブルの方に視線を移す。そこには、美しく盛り付けられた料理の数々が並んでいた。坂野は、目が点になった。
「これ全部、君が作ったのか?」
大船は、照れながら答えた。
「はい、料理が少し得意なので…。坂野社長ほどの腕はありませんけれど…。メモにあった食材で作ってみました。これが、きのこのリゾット。そしてこっちが豆腐のハンバーグ。そっがトマトとモッツァレラチーズのサラダ、そしてデザートのブルーベリーのヨーグルト。あとは、いつもの大豆ドリンクです。…あの、余計な事をしてしまったでしょうか?」
坂野はスプーンを持って、リゾットを一口食べてみた。
「ん!美味しいじゃないか、大船さん。なかなかやるな!」
大船は、ホッと胸を撫で下ろした。坂野が言った。
「よし、それじゃ、早速夕飯にしよう」。
二人は席についた。
「いただきます」。
大船は食べずに、坂野が料理を一つ一つ口に運ぶのを注意深く見守っていた。坂野は、大船の視線に気づいた。
「ん?」
「あの~、味、大丈夫ですか?」
坂野は、笑いながら言った。
「ははは!心配するな、すごく美味しい。ちゃんと塩分の量も控えてあるし、料理の量も完璧だよ」。
それを聞いた大船は、嬉しくて口元が緩むのを隠せなかった。
「バイト、一日目はどうだったかな?」
「はい。もう何が何だか分からなくて、とにかく必死でした」。
「そりゃあ、そうだろ。最初から何もかも分かったら、誰も苦労しないからな」。
「内線電話を取ったら、何かへんな言葉遣いをしてしまったみたいで、ジムの受付の方に笑われてしまいました」。
「ハハハ。まあ、焦らずじっくりと仕事を覚えなさい」。
「はい」。
大船は安心して、自分も食べ始めた。
「そう言えば、大船さん。君が、以前提案してくれた大豆ドリンクのスープ版の件、企画会議で通ったよ。食品会社に、正式に開発を依頼する事になった。完成したら、最初に飲ませてあげよう!」
「本当ですか!うれしいです!」
夕食の一時間後の筋トレも終え、大船はシャワーを浴び、そして最高に幸せな気分で床に付いた。