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第十章 坂野の秘密
翌日、土曜の朝。ストレッチもランニングをすることなく、坂野と大船の二人は黙々と朝食を取っていた。大船は昨夜の事で一睡もできず、目が腫れていた。さすがの大船でも、今朝だけは朝食を食べる気にはなれない。昨夜の事があまりに恥ずかしく、どう坂野社長に声をかけたものか、ずっと悩んでいた。恐る恐る口を開く。
｢あの…、昨夜の事は、本当にすみませんでした…｣。
｢うん｣。
坂野は、そう短く返事をしただけだった。
坂野は朝食を終えると、ブリティッシュ・グリーン色の愛車ミニ・クーパーの助手席に大船を乗せた。坂野は発車し、黙々とミニの運転を続けた。坂野は大船の方を見ることも無く、静かに言った。
｢この車ね、姉の車なんだ｣。
｢お姉さまがいらっしゃるのですか？｣
大船の問いに対し、坂野は何も答えなかった。坂野社長は、まだ怒っているのだろうか？私があんな事をしでかした以上、無理もないけれど…。
車は千葉県内に入り、その後、何度かの渋滞に遭いつつも走り続けた。ミニが突然速度を落とし、大きな駐車場に入って停車した。どこだろう？
坂野はミニを降り、助手席のドアを開いて大船を降ろした。駐車場から百メートル行くと、大きな公園のような場所が見えてきた。大船は、入口の看板を読んだ。なんと、ここは市民霊園ではないか！。坂野は、霊園内を黙々と歩いていく。大船は、坂野社長に付いて行くしかない。
あるお墓の前で、坂野は立ち止まった。突然立ち止まったので、大船は彼にぶつかりそうになった。坂野は、やはり大船の方を向く事なく語り出した。
｢ここは坂野家の墓、つまりうちの墓だ｣。
｢はい…｣。
と、大船は返事をした。坂野は、言葉を続けた。
｢大船さん。ここで、君の胸にしっかり刻んでおいてもらいたい事がある｣。
｢はい…？｣。
｢この墓には、母と、父と、そして姉が眠っている。私の全家族だ｣。
それでは、さっきのミニは死んだお姉さんの遺品なのか…大船は、心の中でそう思った。
｢父と母は、駆け落ちをして千葉に出てきた。そしてこの土地で、姉も僕も生まれた。だけど、駆け落ち状態で出てきた父にまともな仕事もあるわけなく、働いて、働いて、働きすぎて過労で小学生の時に倒れ、亡くなってしまった。その後、母も一生懸命働いて僕ら姉弟を育ててくれたけど、僕が高校の時に癌で亡くなったんだ。両家とも険悪な絶縁状態の関係だったから、僕らは頼る事ができなかった。姉は…いや…姉ちゃんは、高校を卒業してもう働いていたから、僕が高校を卒業するまで、必死にずっと僕を支えてくれた｣。
坂野は、墓標の文字を見つめているようだった。
｢姉ちゃんは、母ちゃんに似て負けず嫌いだったから、一生懸命働いた。母ちゃんはぽっちゃりしていたのだけど、姉ちゃんも母ちゃんに似たんだな。ぽっちゃりしていた。姉ちゃんも高卒だけど、大卒の女性に負けないように、一生懸命独学で勉強して、服や化粧とか外見にも常に気を配っていた。中古の車、さっきのミニって言うんだけど、無理してそれを買って、生活にゆとりがあるふりすらしたんだ。
親がいないと言う事で特別な目で見られたり、世間に後ろ指を指されたりしないように、僕にもいつも真新しい服や靴を買ってくれた。姉ちゃんのおかげで、僕も高校を卒業できて、小さな食品会社に就職もできたんだ｣。
坂野の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
｢姉ちゃんは、常に周囲の目を気にしていた。太っているせいで、誰かに馬鹿にされているのじゃないかと、いつも気にしていた。それで、ダイエットを始めたんだ。でも、当時は正しいダイエットの知識が世の中に行き渡っていなかったからね、無理な減量をしてしまったんだ。つまり、食事を抜いたんだよ。食べた物を、喉に指を突っ込んでわざわざ吐いたこともある。結果は…悲惨なものだったよ。拒食症になってガリガリにやせ細った姉ちゃんを前にして、僕には成す術がなかった。医者にも、手の施しようが無かった。そうやって、姉ちゃんは死んだんだ｣。
大船は、初めて坂野から聞かされる話に衝撃を受けた。
｢その時、僕は決心したんだよ。正しいダイエット方法を学ぼうと。それを研究して、多くの人に伝えようと。会社に勤めながら、医学やスポーツや食品の本を読み漁り、お金も少しずつ貯めた。そして、２３歳の時に会社を辞めて、小さなビルの一室を借りて、今の仕事を始めたんだ｣。
最初に泣いたのは、目に涙を浮かべていた坂野ではなく、大船の方だった。涙が止まらなかった。坂野の話に感動しただけではなく、過去の自分の考えや行動があまりに甘くて情けなく思えたからだ。そこで、初めて坂野が大船の方を向いた。
｢大船さん。僕は、女性が太っていようが痩せていようが、本当はどうでも良いと思っているんだ。僕の中には、ぽっちゃりした優しい母ちゃんや姉ちゃんの姿が、今も脳裏に焼き付いている。…なんで、痩せなくちゃいけないのだろうね。でもね、もし誰かがどうしても痩せたいと言うのなら、手伝ってあげたい。お金はかかるかもしれないけれど、最高の正しい方法で助けてあげたいと思っているんだ。僕が今の事業をしている理由は、それだけなんだよ。大船さん、君が痩せたいと思っているのなら、手伝ってあげたいんだ｣。
大船百合香は、泣いた。涙が止まらなかった。人目もはばからず、大声で泣いた。昨日に引き続き、二日連続で大泣きしてしまった。今日は、思う存分に泣こう。その代わり、明日以降は二度と涙は見せない。大船百合香は、そう心に誓った。
