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第九章 悲劇の金曜日
ダイエット合宿一日目は、あっという間に夜になった。
大船は、今日と言う一日を振り返った。まだ痩せたわけではなかったが、世界が違って見えた。電車に乗るのも、歩くのも、退屈な授業すら楽しく思えた。夕飯の買物も楽しかった。ササミやキュウリ、にんにく、パスタ麺、エトセトラ、エトセトラ。この食材で何を作るのだろう?
リビングのバイシクルも、しっかり一時間も漕いだ。シャワーで汗を流してから着替えて、坂野社長の帰宅を待った。坂野社長は恋人じゃないけど、家の中で男性の帰宅を待つのってなんか不思議。
夜、時計が7時半を指し示そうとする頃、坂野社長の愛車の排気音が聞こえてきた。なんと早いご帰宅!坂野は足早に庭を通り抜けて、玄関ドアを開けた。小脇には、仕事の書類が山ほど詰まった鞄が抱えられている。
「よし、今から夕飯を作るからな!」
そう言うが早いか、キッチンに飛び込んだ。大船は、ダイニングのテーブル脇の椅子に座り、坂野の調理を見ていた。テキパキと素早く素材を切り刻み、あれよあれよと言う間に料理が出来上がっていく。調理と同時に鍋にお湯を沸かし、パスタを茹で上げる。なんと、8時にはすべての料理が完成した。
大船は、完全に呆気に取られていた。業界の頂点を極めようとしている人間とは、こんなにもポテンシャルが高いのものなのか?とにかく早い。テーブルには、色とりどりの料理が並べられた。レストランみたいな美しい盛り付け。用意が整うと、坂野も着席した。坂野は、説明を始めた。
「主食はパスタのぺペロンチーノ。メインディッシュはササミのバンバンジー風サラダの紫蘇ドレッシングがけ、デザートはコンニャクのフルーツゼリー。それとこれ」。
そう言いながら、なんかドロドロした液体の入ったグラスを、大船の方へすっと押し出した。大船は、訝しがりながらそのグラスを受け取る。
「なんですか、これ?」
「これは、食品会社と共同で開発した、先週出来たばかりのダイエットドリンク。主に大豆からできている。カロリーを抑えながらも、高品質なタンパクやビタミン、ミネラルを補給できるよう調合した特性ドリンクだ。高いんだぞ」。
「は、はい…」。
「それじゃ食べよう」。
「はい。いただきます」。
お腹のすっかりペコペコの大船は、またもやがっついてしまった。坂野の視線でハッと我に返り、恥ずかしくなって、ゆっくり噛み始めた。
料理は、ダイエット食とは思えないほど美味しかった。ぺペロンチーノも、ササミのなんとか風も、フルーツゼリーもコンニャクとは思えないほどおいしかった。どれもこれも、レストランのメニューとして出されても不思議の無い美味しさだった。坂野社長は、スーパーマンなのか。
ただし、大豆からできたドリンクはザラザラしていて、最初はちょっと抵抗があった。飲んだ事は無いけど、たぶんバリウムみたい。しかし、しっかりと飲み干した。
「これ、ちょっとザラザラしていますね。ジュースじゃなくて、スープみたいな方が飲み易いのですけど…」。
あっ、新商品なのに傷つける事を言っちゃったかな、と大船は思ったが、坂野はその感想を聞いて気分を害した様子は無かった。
「なるほど。今度、企画会議にかけて、食品会社にも相談してみよう」。
大船は、夕食に満足した。当初、ダイエット合宿と言われて、必死の覚悟を決めて乗り込んで来たが、拍子抜けするくらいだった。
ただし、一つだけ難点があった。夕食の量がたいへん少ない。パスタもサラダもゼリーも、小皿程度の量。味に文句は無かったが、量が足りないのだ。ダイエットなのだから仕方無い。"夜のカロリーは減らす。それは厳格に守ってもらう"。坂野社長は、今朝そう断言した。このぐらいは我慢しなくちゃ。
夕食を食べ終わると、坂野はテーブルの食器を片し始めた。大船は言った。
「あっ、片付けとお皿洗いぐらいは私にさせてください!」
坂野は、笑顔で答えた。
「おお、頼むよ、大船さん。あっそれから、今から一時間後に筋トレを始めるからね。それまで私は、書斎で会社の仕事の続きをしているから」。
夜の軽い筋トレも終わり、一日が終わった。大船にとって、充実した素晴らしい一日だった。朝を迎えるのが待ち遠しい。明るい明日をワクワクしながら待ち望むなんて、一体いつ以来のことだろう。心地よい疲れに伴われ、大船百合香は、深い安らかな眠りに落ちた。
それから、毎日同じサイクルの生活が始まった。翌水曜日も、続く木曜日も同じサイクルの繰り返し。朝5時に起きてウォーキング、そして朝食。その後、坂野社長を見習って自分も新聞を読み、そして学校へ行く。夕方、買物をして帰宅し、バイシクルを漕ぎ、坂野社長の作った夕食を食べ、筋トレして寝る。ひたすらこの繰り返し。三日目ともなると、新しい環境にもすっかり慣れ、目新しさもなくなってきた。そして三日目にベッドが届き、空いている部屋が彼女の新たな寝室となった。
色々と慣れてきたとは言うものの、ただ一つだけ慣れない事があった。空腹である。日中はまだ良いものの、夜間はベッドの中で空腹と格闘した。カロリーを相当控えた夕食は、彼女には量が圧倒的に足りなかったのである。それまでの彼女の夕食の量は、この何倍もの量だった。それだけでなく、夕食後のプリン、ゼリー、チョコレート、ポテトチップも欠かせなかった大船にとって、この空腹は耐え難いものがある。
そして、合宿四日目の金曜日を迎えた。
朝から夕方まではいつも通り順調だった。ただ一点、違っていたのは夕飯だった。坂野社長から電話があり、今日は大事なクライアントとの会食があるので早くには帰れない、との連絡を受けた。それで金曜の夕飯は、坂野社長のメモに従って大船が作る事となった。
そう言えば、まだこの家では自分で料理を作ったことが無い。大船は、食べる事が好きだけでなく、料理だけは少し自信があった。自分の料理の腕を、ちょっぴり自慢したくなった。今日は、帰宅した坂野社長を料理で驚かせよう。
その前に、まずプログラムのバイシクル漕ぎをこなさなければ。大船は、リビングのバイシクルのペダルを漕ぎ続けた。一時間の予定だったが、調子が良く一時間半も漕いでしまった。彼女は、シャワーを浴びて汗を流して着替えた。
バスルームを出ようとした時、彼女の目に体重計が留まった。坂野社長には、"絶対に体重計には乗らないこと"と言われている。しかし、どうしても体重計に乗りたい衝動に駆られた。秘密にしておけばいい事だし、一回だけ乗ってみようと思った。
まず右足をそっと体重計に乗せてみる。それから左足を上げ、体重計に乗る。体重計の針が廻り、そして止まった。81キロ!月曜に82キロあった体重が、たった4日で1キロも減っている!大船は、踊りたい衝動に駆られた。実際、小躍りしていた。
彼女はウキウキ気分でキッチンへ向かい、料理の仕度を始めた。まずは冷蔵庫から、モッツァレラチーズ、ハム、トマト、キュウリ、キャベツを出した。鼻歌混じりにチーズを包丁で切る。大船はちょっとだけ味見をしようと思い、モッツァレラチーズ一切れを口にほお張る。チーズの芳醇な香りが鼻腔に広がり、乳製品特有のあの食感を味わい楽しむ。ハムも少し口に入れ、ゆっくりと噛む。おいしい!次に、トマトをかじってみる。ああ、たまらない!
4日で1キロも減ったのだし、今日は少しぐらい食べても大丈夫!そう考えて、キュウリもかじる。そしてまたチーズを口に入れる。次第に止まらなくなってきた。まだ切っていないハムの塊を、直接かじる!もう我慢ができない!
ハム、チーズ、トマト、キュウリを代わる代わる、次々にかじる。ゆっくり噛む事を忘れ、貪り食った。空腹が満たされていく。冷蔵庫を開け、ブルーベリージャムにバナナを取り出し、狂ったように食べる。リンゴジュースで、それらを一気に流し込む。至福の時!
彼女は満腹となり、満足した。
次の瞬間、大船は我に返った。周りをゆっくり見回す。食い散らかされた食材が、床に散らばっている。ブルーベリージャムの瓶が、転がっている。あの大きなハムの塊は、ほぼ完食。食器棚のガラスに映った自分の顔を見た。彼女の顔はジャムでベトベトになり、色んな食材の欠片が口の周りを覆っていた。大船の顔は一気に青ざめ、目を落とした。何と言うことをしてしまったのか!坂野社長との固い約束を破ってしまった…。
その大船の罪悪感と焦燥感に、追い討ちをかける事が起った。彼女は、自分以外の視線を感じた。目を上げる。食器棚のガラスには、坂野社長の姿が映っていた。彼女は、おそるおそる後を振り返った。坂野社長が、黙って立っている。今まで見たことも無い、仁王像のような形相だった。大船は、すべての状況を一瞬で理解した。取り返しの付かない事をしてしまったのだ。
「ごめんなさい、ちがうんです!そうじゃないんです!」
坂野は、低い声で言った。
「何が違うと言うんだ?それじゃ、床に散らかっているのはいったい何だ?」
坂野社長が怒っている!その冷静な口調が、逆に坂野が心底怒っている証拠だった。大船は、何か弁明しなければと思った。
「あの、あの、体重計で体重を量ったら、一キロも減っていて、少しぐらいなら食べてもいいかなと思って。あの、違うんです!」
冷静モードの坂野は、怒りモードに変わった。
「体重計に乗ったのか!乗るなと言っておいただろ!一日の500グラムとか一キロの増減なんて、誤差みたいなものだ!かいた汗の量や、飲んだ水の量で、そのぐらいあっと言う間に変わるんだよ!体重計の数字だけに目を奪われて、小手先のダイエットに走って、みんな失敗するんだ!本当に必要なのはそんな事じゃなくて、生活の根本的な改善なんだ!結果は、後から付いて来るんだよ!俺との約束が守れないなら、ダイエットなんか止めちまえ!!!」
坂野は目一杯怒ると、静まって冷静な口調で言った。
「大船さん。君の問題は、太っている事じゃない。自分自身をコントロールできない事だ。今までも、色んな失敗の原因を他人のせいにして逃げてきたのだろう?私との約束が守れないなら、私も約束を守れない。君自身の意思に反して、君に何かを強制させる権利なんか、私にはない。誰にもない。君の意志の問題だ。私の問題ではない…。もう、自分の好きなようにしなさい」。
大船は、後悔した。過去にこれほどまでに後悔した事がないというくらいに、心底後悔した。彼女は必死なあまり、いつの間にか土下座すらしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!見捨てないで下さい!もう、ここにしか希望は無いんです!お願いします!」
彼女は、食べ物だらけのグシャグシャな顔のまま泣き崩れた。坂野は立ち尽くしたまま、彼女に言った。
「私は学校の先生じゃないし、ましてや君の親でもないんだ。もうこれ以上は、無理だ…」。
しばし黙った後、坂野は諭すようにゆっくりと言った。
「分かった。もう一度、チャンスを与えよう。私は、そんなに暇な人間でもない。一回だけだ。その前に、明日私に付き合いなさい。君を連れて行く所がある。今日は、もう寝なさい」。
そう言って、彼は自分の書斎に入った。
大船は、自分がずっと最低の人間だと思っていた。しかし、自分がここまで最低だと思った事は未だかつて無かった。彼女はゆっくりと立ち上がり、寝室へと向かった。