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第八章 ダイエット・スタート

 翌朝、大船百合香は、目覚ましベルの大きな音で目が覚めた。辺りを見回す。まだ薄暗い。ここは、どこ?
 そう、私は、坂野社長の家で一夜を過ごしたのだっけ…人生で、最大の冒険だわ。自分はベッドで寝て、坂野はソファーで寝たらしい。その坂野は、もう起きて着替えを終わっている。
「大船さん、起きなさい。ウォーキングに行くぞ」。
「えっ?今何時?」
「5時だ」。
5時…いつもなら、まだ夢の中の時間である。
「もう起きるの?まだ眠いわ」。
「プログラムについては、絶対に従うと言う約束だ。文句を言わず、起きて着替えなさい」。
大船は、渋々起きて着替えた。
「着替えたら、このミネラルウォーターを飲みなさい。500ミリリットルある」。
坂野が水のたっぷり入ったビールジョッキを差し出すと、大船は言われるままごくごくと飲み干した。
それから二人は表に出て、ストレッチを始めた。大船もジムに通ったせいで、坂野が言わずとも準備運動とストレッチの大切さをよく理解していた。体各部の筋をしっかりと伸ばした。

 夏とは言っても、日の出にはまだ時間がある。ストレッチをしながら、周囲を見回す。昨夜は緊張と暗さのせいでよく見なかったが、こうしてじっくり見ると、坂野の家はそんなに大きくない。青年実業家の家としては、かなり質素な気がする。大船の実家の敷地の方が広いくらいだ。しかし、庭の片隅には大きなガレージがある。そこには、なんか凄い車がずらりと並んでいる。大船が言った。
「車が好きなのね」。
「ああ、大好きだ」。
ストレッチを続ける二人。今度は、坂野が言った。
「それからね、大船さん。ため口はやめなさい。今日から、目上の者にはきちんと敬語を使うように。社会では大切な事だ」。
「分かったわ」。
「違う。"分かりました"、だ」。
「分かりました」。
「では、ウォーキングに出かけよう。初めから無理をしてはいけない。体を痛めては、元も子もないからね。ジムのマシントレーニングとは違うよ」。
二人は、夜明け前の街を歩いた。こんなに朝早く起きて運動するなんて。ラジオ体操だって、もう少し遅い。大船は聞いてみた。
「毎日、こんな朝早くに歩いているの?」
「"歩いているのですか"、だ。そう、毎日ね」。
「だって、こんなに忙しい人なのに…じゃなくて、忙しくしていらっしゃるのに?」。
「忙しいからこそだ。時間は限られている。運動に充てられる時間は、朝しかないんだ。時間は貴重だよ。大切に使いなさい」。
「分かった…分かりました」。
「さて、そろそろペースアップするぞ。走るな。しっかり歩け」。
坂野はウォーキングのペースを上げた。大船は、必死に着いて行った。

 坂野の家に戻ってきた時には、既に日が昇っていた。大船は、肩で息をしていた。二人は、ゆっくりクールダウンのストレッチを始めた。早朝にこんなに運動するのは、大船にとって初めての経験だった。大船が、息を切らしながら言う。
「朝の運動って、気持ち良いですね」。
自然と口から敬語が出た。
「ああ、朝は気持ちが良い。特に、朝日が昇る間際の空の色が大好きなんだ。今日も一日がんばろう、と言う気にさせてくれる。さあ、食事にしよう」。

 坂野は軽くシャワーを浴びた後、朝食の用意を始めた。その間に大船もシャワーを浴び、着替えて身支度を整えた。坂野が、ダイニングで呼んでいる。
「朝食の用意ができたぞ!」
大船は、早起きし、運動し、シャワーを浴び、もうお腹がペコペコである。しかし、悲しいかな、今日からダイエットなのである。朝食は、きっと貧相なものに違いない。
 大船はダイニングに着いて、目が点になった。テーブルの上には、スープ、サラダ、茹でたてのウィンナー、トースト、ジュースが並んでいる。今までの自分の生活で、こんなにきちんとした朝食を一度も作ったことが無い。
「豪華じゃないですか!減量中に、こんなに食べても大丈夫なんですか?」
坂野は、笑って答えた。
「いいか、このメニューは、カロリーはもちろん、栄養バランスもしっかり考えてある。スープはきのこと野菜のスープ、ジュースは野菜と果物をミキサーでミックスした生ジュースだ。ハーブ入りのウィンナーは油で炒めず茹でてある。トーストはオリーブオイルから作ったマーガリンを塗ってある」。
「食べていいんですね!」。
「もちろん。朝ご飯は一日の活力だ。良質なタンパクやビタミンやミネラル摂取は、ダイエットには絶対必要だ。最悪なのは、何も食べないで体重を減らすこと!これは絶対にやっちゃ駄目だ。短期的に体重は減るが、最悪の結果を招く。体調を崩し、風邪をひき、口の中は口内炎だらけになる。そして、あっという間にリバウンドし、前よりも太りやすくなるんだ。だから、必要な栄養はしっかり摂る!昼食も、それなりの制限はあるが食べて良い。ただし、夜のカロリーは絶対に減らさなければならない。一日のカロリー量は、厳格に絶対守ってもらう。最初は辛いが、辛抱するんだよ。胃の大きさが適正になれば、少しの量で満腹感を感じられるようになるからね、それまでは我慢だ。それじゃ食べよう」。
「いただきます!」
そう言って、大船は朝食をほお張り始めた。
「ストップ!」
坂野が制止した。驚いて、大船がフォークを止めた。
「食べていいんでしょ?」
「"食べてよろしいのですよね"、だ。いいか、食べる時は良く噛め。最低でも左右で30回は噛め。朝食には、しっかり時間をかけろ」。
「なんで…何故ですか?」
坂野は、大船の目をしっかり見据えていった。
「重要なポイントだ。カロリーを十分に摂ったと言う指令が脳に届くには、時間がかかる。人は満腹と感じる前に、必要以上に食べ過ぎてしまうのだよ。君は、おそらく普通の人以上にいわゆる満腹中枢の働きが鈍い。だから時間をかけて、ゆっくり噛むんだ。いいな?」
「分かりました」。
こうして、二人の第一日目の朝食はスタートした。

 朝食を終えると、坂野は新聞を読み始めた。驚いた事に、一般紙に経済新聞、そしてスポーツ新聞の三つを、短時間に一気に目を通した。坂野は、今朝から驚くことばかりであった。
「朝、家で、新聞を三つも読んでいるのですか?」
「ああ」。
と、素っ気無く坂野は応えた。彼は、自分でも返答があまりに素っ気無いと思ったのか、言葉を付け足した。
「三紙読むのは、情報のバランスを取るためだ。家で読むのは、会社では読んでいる時間がないからだ」。
大船は感心した。彼女がテレビで目にする、高級車に乗り、白いスーツを来たチャラチャラした姿とは、まったく違う。あれはきっとマスコミ向けの演出された姿なのだ。本当にチャラチャラした人間ならば、会社をあそこまで大きくできなかったろう。そんな事を、大船は考えた。
 8時になり、坂野の出勤時間となったので、大船にテキパキと指示をした。
「さすがに日中は付き合えないから、メモ通りにプログラムをこなせよ。学校に行っても、そこに書いてあるメニュー意外のものは食べない事。通学電車は、必ず一つ前の駅で降りて歩くこと。今日の夕飯は私が作るから、メモ通りの食材を買っておいてくれ。帰宅したら、リビングのバイシクルを一時間漕ぐこと。それからもう一点、注意がある。私が良いと言うまで、絶対に体重計には乗らないこと。絶対だ!いいね?あっ、それと家を出る時は、ちゃんと鍵を閉めていってくれよ。」
大船は、はっきりと返事をした。
「はい!」
その返事を聞くと、坂野は玄関のドアを開けて出て行った。

 全てが新しい経験と発見で満ちた不思議な朝。何かが起こりそうな気がする。こんな自分でも、何かができそうな気がする。どん底の大船百合香に、小さな希望の光が宿った瞬間だった。