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第四章 事件発生

 企画会議は終わり、雑誌取材も滞りなく終了した。短い昼食。そして、午後はラジオ番組の収録だ。坂野と人見は、車の地下駐車場までエレベータで降りた。地下の駐車場には、ずらりと「エステ・サガノ」のロゴが入った営業車両が並ぶ。その一角に、自動車博物館を彷彿とさせるような世界の名車が並ぶ。
 社用車の縦目のメルセデス・ベンツとジャガーXJとトヨタ・センチュリー、そして個人で購入した通勤用のフェラーリ246GTSが並ぶ。その他に"自宅のガレージ"には、フェラーリ288GT、ポルシェ911カレラ、マセラッティ・メラクSS、ミニ・クーパーが可動状態で保管されている。坂野は、根っからのスーパーカーマニアだった。毎年名車を購入している。坂野は運転も大好きで、通勤の往復路そして休日のドライブは、現在の唯一の趣味と憩いを兼ねる時間と言っても良かった。
 しかし、仕事中は決して自分では運転はしない。公私はきっちり分けた。坂野と人見は、メルセデスの後席に乗り込んだ。運転手が、車を発進させる。無駄口を決してきかない静かな運転手の名前は、戸田秀夫 (とだひでお)。年齢は50代半ば。

 ラジオ番組で、坂野は自らの経営哲学、そしてエステに対する思いを語った。収録は無事終わり、一旦社に戻る。食品会社とのダイエット食の新商品企画打ち合わせ、その他の予定も滞りなく消化し、6時半には料亭にて政権与党の田中議員と会食を開始。政治家との付き合いは決して好きではなかったが、商売には政治力も多少は必要と考え、しばしば田中議員と会食を共にした。彼の事務所には、多大な政治献金も行なっている。8時終了の予定は、田中議員が勝手に盛り上がったおかげで9時まで伸びた。こうした事を予期して、人見は後ろに予定を何も入れなかったのである。
 一日のスケジュールをこなし、坂野と人見が会社に戻ったのは、午後10時過ぎ。メルセデスは、エステ・サカノ本社正面に停車した。人見は、社の前でタクシーを拾って帰った。運転手の戸田は、社長の坂野に言った。
「自宅までお送りしましょうか?少しお酔いになっているようですし、自分での運転は避けられた方が良いと思いますが」。
「いや、まだ社に残ってやる事があるのでいいよ。お疲れ様」。
そう言って、手を振った。
「そうですか。では、おやすみなさいませ」。
戸田は、メルセデスを社の車庫に止めた後、地下鉄の駅へと歩いていった。
 社に一人残った坂野は、酔いを覚ますため一旦社長室へ戻った。企画案に、もう一度じっくりと目を通す。顔を洗って、冷たい水を飲んだ。時計の針は、既に十二時を廻っている。酔いも覚めたし、そろそろ帰ろう。

 坂野は、地下駐車場に移動しフェラーリ246GTSに乗り込んだ。キーをひねる。フェラーリのV6気筒エンジンが唸る。愛車ディーノのドライブ。仕事を終えた後の、彼の短い至福の時だ。
 シフトレバーを一速に入れ、ゆっくりとアクセルを踏む。ゆるゆると発進するディーノ。彼は、地下の駐車場から地上階への出口へと辿り着いた。一般道に出るため、左右を確認し、加速をしようとした。正にその瞬間である。彼の視界を何かが遮り、「ドスッ」と言う鈍い音がした。
 ボンネットに、誰かが倒れ込んでいる!坂野は、一体全体何が起ったのか理解できなかった。左右もしっかり確認した。スピードも、まだ十キロも出ていない。であるのに、誰かがボンネットに倒れている。顔は向こうに向いていて、誰なのかよく分からない。
 冷静な坂野も、パニックに陥った。頭の中に、明日の新聞の見出しが浮かんだ。"エステ・サカノの社長、酒気帯び運転で人身事故!"。それに続く様々な影響を想像した。マスコミ各社のパッシング、裁判、取引先や顧客離れ、エトセトラ、エトセトラ…。
 たった1秒か2秒の間、そんな思いが駆け巡っていたが、直ぐにいつもの冷静な坂野に戻った。自己保身を考えている場合ではない。ボンネットの上の人を、まず助けねば!
 直ぐにドアを開いて降り、ボンネットに上半身を倒している人物の肩に手をかけた。その人物は顔をくるりと反転させ、坂野を睨んだ。倒れていた人物は女性だった。
「私をひいたわね!」
女性は太っている。どこかで見たことある女性だ。女性は、すっくと身を起こした。
「どうしてくれるのよ!」
坂野は、突然思い出した。
「ああ、君は船なんとか!先月、受付で騒いでいたのを見たぞ!今朝も押しかけただろ!」
女性は、不敵な笑みを見せながら坂野に詰め寄った。
「たいへんな事になったわね~。エステサカノ社長、人をはねる!」
珍しく坂野が声を荒げた
「何を言っているんだ!君がその植え込みから飛び出して、わざとぶつかってきたんじゃないか!警察を呼ぶぞ!」
しかし、女性はひるまない。
「あらら、お酒の臭いがするわね。酒酔い運転なのね~。警察を呼んで困るのはどっちかしら~。酒を飲んで運転、しかも人身事故。ほら見て、ここ。車にぶつかったせいで、肘が赤くなっているわ!警察呼んだらたいへんね~。マスコミも大騒ぎよ~」。
坂野は、反論できない。女性が自らぶつかって来たのだとしても、数時間前まで酒を飲んでいた事については弁解の余地が無い。
「いったい何が望みだ!なんでこんな嫌がらせを繰り返す!?君は、当たり屋か!?金が目当てなのか!?」
女性の目がキラッと光った。そして、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「私が持ってないものを、あなたが全部持っているのが頭にくるのよ!名声に、お金、それに、そのスタイルと顔!テレビで、ハンサム実業家なんて言われていい気になって、調子に乗っているんでしょ!」
坂野は、目が点になった。
「そんな理由で、こんな事をしているのか?」
女性は、しばし押し黙った。
三十秒ぐらい経ったろうか。女性は、ゆっくりと語りだした。
「どうせ、あんたは覚えてないでしょう。2ヶ月前のことよ」。
2ヶ月前に、自分がこの女性に何かしたのか?坂野は、何も覚えていない。心当たりがまったく無い。女性は続けて言った。
「私はこの会社の入口で、入会しようかどうか迷っていたのよ。就職活動前に、何とか痩せたかったから…。でも、バイトで貯めたお金も二十万円しかなかったし、続けられるかなって、不安で。その時、あなたが後からやってきて肩を叩いたのよ。なんて言ったか覚えている?」
坂野は、黙っていた。まったく覚えていない。
「あなたね、私にこう言ったの。『君も痩せたいんだね。心配ないよ、ここのプログラムは良く出来ているから、絶対に痩せられるよ』って。びっくりしたわ。だって、テレビにも出ている有名な社長が声をかけてくれたのよ。私は、すぐに入会を決意したわ」。
坂野は、まだ黙って聴き続ける。
「でも、入会金と一ヶ月の費用で、あっという間に二十万円は終わっちゃったし、全然痩せなかったし。恋愛も就職活動も上手くいかないし…」。
そう言うと、女性の目からは涙がこぼれた。坂野がようやく口を開いた。
「まあ、ここに突っ立っていても仕方無い。車に乗りなさい」。
女性は、言われるがままディーノの助手席に乗り込んだ。