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第二章 海底女

 坂野が社長室に入ると、すぐさま内線電話が鳴った。余程の重大事でない限り、誰も坂野に電話をつながない。社長室の電話が鳴ると言う事は、重大な内容だと言う事だ。坂野は、すぐに受話器を取った。
「坂野だが?」
「社長、山田です」。
電話の向こうは、フェラーリを任せた山田だった。
「どうした、正一郎?」
愛車ディーノをどこかにぶつけたのだろうか、とちょっと坂野は心配した。
「実は、女性が駐車場入口で、社長に合わせろと騒いでおりまして…。」
坂野は少し苛ついたが、声にはそんな様子を微塵も出さなかった。
「その程度の事は警備員に任せておけ、正一郎」。
「今、警備室で対処させていますが、例の女性です、これで3回目の…。」
山田の答えに、坂野は小さく芝居じみた溜息をついた。もちろん、山田に聞かせるためだ。"そんなことで一々電話してくるなんて失望しているぞ"、と言う意味の溜息である。騒いでいるのは、なんだか良く分からない訴えを先月2度もした女性のようだ。その時も、坂野に会わせろと騒いでいたのだっけ…。
「ああ、先月、会社の受け付けで騒いでいた女か。船なんとか…とか言ったっけ?今度やったら、警察に通報するとでも脅して、帰らせろ!」
「了解いたしました、社長。」。
そう言って、坂野は受話器を置いた。会社は大きく、そして有名になった。その分、おかしな連中からの「嫌がらせ」や「脅し」や「たかり」も増えてきた。困ったものだ。

 さて、駐車場入口脇の警備室では、警備主任と山田が、例の女性の対応に苦慮していた。女性はややボサボサのストレートヘアーに、紺のスカート、黄色いパーカーと言う出で立ち。身長は、150センチ台半ぐらいと言ったところか。学生証に書かれた女性の名は、大船百合香 (おおふねゆりか)。
ストーカー規制法が制定されるのは、まだ十年も後のこと。そして女性がいたのは敷地の中ではなく駐車場の入口だから、不法侵入でもない。そこで山田が、なんとか女性を説き伏せようと試みる。
「これで、こんな事をするのは3回目ですよ。こんな事をしていては行けません。まだ、学生さんなのでしょ?今度やったら、我々も警察に訴えざるを得ません。親御さんも悲しみますよ」。
女性は、叫んで言った。
「警察でも何でも、呼んだらいいわ!どうせ私の将来なんて真っ暗なんだから!見てよ、私の体!アンタだって、私の事、デブだと思ってるんでしょ!
周りのみんなが内定決まっていくのに、私はまだ決まっていないのよ!片思いの彼にもふられたわ!この脂肪のせいよ!」
前回も聞いた台詞だ、と山田は思った。
「私だって、なんとか痩せようと思ったわ!だから、あんたのところのエステに通ったの!でも、全然痩せなかったじゃない!
だいたい、あんたのところのエステ、高くて一ヶ月しか通えなかったわ!そもそも学生が払える額じゃないわ!全部、あんたんとこの責任よ!何とかしなさいよ!責任取りなさいよ!今すぐ、社長、出しなさいよ!」
滅茶苦茶な論理である。この屁理屈が通るのであれば、風が吹いたらきっと桶屋が儲かることだろう。まったくの言いがかりである。通常なら、お客様とは絶対に口論してはならない。しかし、この女はもはやお客ではない。山田は説得をあきらめ、マニュアル的な対応をする事にした。こちらの非を認めると、相手に付け入る隙を与えてしまう。やんわりとした口調で、きっぱりと否定する。
「残念ながら、それらは貴方の私的な事柄に関する事ですので、当社とは一切関わりがありません。また、当社のプログラムも、料金も、多くのお客様にご満足をいただいております」。
女性は、押し黙った。しばし沈黙が続いた。言いたい事を全部言ったので、少しすっきりしたのかもしれない、と山田は思った。
「もう、いいわよ。帰る!」
捨て台詞を吐いて、女性は席を立ち上がった。そして下を向いたまま、警備室のドアをバタンと力いっぱい閉めて出て行った。
後に残された警備主任と山田は、ホッと一息ついた。山田は、警備主任の肩をポンと叩いた。
「お疲れ様。まあ、世の中には色んな人間がいるから…」。
そう言って、山田も警備室を後にして自分の仕事へと戻った。

 女性は警備室から出た後、目的地も無く外堀通りをトボトボと歩いていた。目からは、止めども無く涙が溢れる。一体、これからどうしたら良いのだろう。何をやっても上手くいかない。就職も、彼氏の事も、ダイエットも、何一つ上手くいかない。通りですれ違う、バブリーな服を来たお洒落で笑顔のよく似合うOLを見たら無性に腹立たしくなり、同時に余計に自分が情けなくなった。
 大船百合香は、人生最悪の時を過ごしていた。ブクブクと海底に沈んでいき、今や海面の光すら遠い彼方。海の底に辿り着いた今、今度は海泥が彼女を覆い尽くそうとしていた。