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聖書を読むと言ふこと   (2007年4月29日記載)


 以前、"本を読む"事の意義について考えた。"聖書"も本である。そう言う意味では、"聖書を読むこと"は"読書"に他ならない。聖書は、様々な形式の書物で構成されている。壮大な歴史絵巻物語、詩、格言、手紙、黙示文学等etc.・・・。歴史を調べるために資料として聖書を読む人もいるだろうし、倫理や道徳の書物として読む人もいるだろう。色んな読み方が可能である。

 しかし、"キリスト者"すなわち"クリスチャン"が"聖書"を読む時、単に読書以上の意義が生ずる。私も聖書を読む。何度も読む。普通の小説やエッセイは、1回読めばたいていは"本棚直行"である。読んでもせいぜい2回。しかし、聖書は何度も読む。
 今まで、僕がどのくらい聖書を通読(※聖書を旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで全部読むこと)したかと言うと、口語訳聖書(日本聖書協会刊)が2回、新改訳聖書(日本聖書刊行会刊)が1回、新共同訳聖書(日本聖書協会刊)が2回、講談社聖書が1回、徳間書店小説聖書が1回、アートバイブル(日本聖書協会)が1回。現在、新共同訳聖書の3回目の通読をしている最中である。(また、聖書そのものではないが、参考として旧約聖書外典(日本聖書協会)、使徒教父文書(講談社)、新約聖書外典(講談社)も一回ずつ読んだ)。

 何故、キリスト者はこんなにも何度も聖書を読むのだろうか?それは、キリスト者が聖書を人生の指針や土台となる"書かれた神の言葉"として受け入れているからである。"神の言葉"と言っても、聖書は歴史上実在した人間が、その時代に書き綴った人間の手による文章である。では何故キリスト者は、人間が書き編纂した聖書を"神の言葉"として受け入れてきたのか。
 聖書は、旧約聖書と新約聖書の計66巻で構成されている。"旧約聖書"は、ご存知、アダムやエバやノアやバベルの塔の記事が載っている創世記から始まり、イスラエル王国と言う国家が崩壊した後を描いた預言者の書までで構成される。一方"新約聖書"の方は、イエス・キリストの誕生と十字架上の死と復活を描いた福音書と、その後の弟子達の行動を書いた書や書簡(手紙)などで構成される。これらの記事が、王や預言者や医者など様々な分野の人の手によって、(冒頭でも述べたように)様々な形式によって紡がれているのである。
 これほどまでに異なった時代背景において、環境の違う数多くの人々の手によって、色んな形式において書かれたと言うのに、聖書は不思議な事に"一貫したテーマ"によって貫かれているのである。それは一体、どのようなテーマであるのか?

 旧約聖書の冒頭の創世記で、神に対して罪を犯した人間に対し、神は「彼(※女の子孫)はお前(※蛇=悪魔)の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く(※="頭の粉砕"は致命傷を指し示すのに対して"踵の傷"は致命傷とはならない)」と言われた。人類の子孫が、悪魔に完全に勝利されることを聖書の最初で既に示しているのである。そして、旧約聖書の最後に置かれているマラキ書においても「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」と言われ、神が"義の太陽=救い主"を遣わされる事を明示している。
 新約聖書は、その神から遣わされた"義の太陽"が"イエス・キリスト"である事を明確に示す。悪魔は、イエス・キリストを十字架に架けて勝利したかのように思ったが、実際は神はイエスの十字架の死によって人類全ての罪をあがなって悪魔に勝利されたのであり、まさに創世記での"悪魔はイエスのかかとを砕いた"に過ぎず、悪魔はイエスによって"頭を砕かれた"のである。聖書全体の最後に収められている"ヨハネの黙示録"も、この復活の主イエス・キリストに従い、待ち望むように奨めている。
 このように聖書は、バラバラな時代に色んな人によって書かれた書物の集合体であると言うのに、テーマは一貫して"救い主、すなわちイエス・キリスト"を指し示しているのである。聖書を書いた記者達各人は、神のメッセージの全体像を把握していた訳ではないと思われるが、それでも断片をつなぎ合わせるとまるでパズルのように全体像が完成するのである。聖書には、神の言葉だけが書かれているのではない。人間の言葉が書かれているし、不信仰者の台詞も、悪魔の言葉も書かれている。そう言う意味では、一つ一つの言葉がすべて神の言葉とは言えない。しかし、全体を読むと明確なテーマ、メッセージが浮かび上がってくるのである。聖書は誰か有名な偉い人が「聖書は権威がある」と言ったから、高い権威を持っている訳ではない。聖書は、誰かが支持をしようとしまいと、初めからそれ自体で権威があるのである。例えは悪いが、ダイヤモンドは誰かが"価値がある"とか"価値が無い"と言おうが言うまいが、それらの言葉に関係なく美しく輝いているのに似ている。キリスト教に関心の無い人々は"聖書"を歴史上の単なる書物として扱うが、キリスト者はそのように聖書を"神の言葉"として受け入れているのである。

 神は、必ず人間とその歴史を用いられてきた。信仰と言うと、人間には不可能な奇跡の業や未来の事件を予言すると言ったような不可思議な現象に焦点が当てられがちだが、聖書を読むとそれらはどちらかと言うと例外的な記事で、神が実に根気強く人間自身の行動とその歴史を用いられているかが分かる。ノアに箱舟を作らせる、モーセに民を率いらせる、預言者達に民の指導や教育をさせる、イエスの弟子達に福音を延べ伝えさせる等々、多くの信仰者達が人生の苦難の中で、神の言葉に聞き従い生きていく姿を丹念に描いている。
 神は、信仰者に、奴隷のようなロボットのような盲従を強いようとはしていない。人の自由意志の中で、判断し行動するように求められている。聖書の中の人々は、人生の苦難の中で時に苦しみもがき、時に喜びながら生きているのであ。聖書に登場するある人物は、とうごまの木の下でふてくされる。ある者は、イエス・キリストを3度も否定する。そのような信仰者の弱い姿も、聖書は隠さずに描き出す・・・"美辞麗句で繕った"王や預言者や使徒達の姿を綴っているのではない。
 聖書が我々の生きる指針となるのは、正にこのような聖書の"それ自身がもつ権威"と"聖書に書かれた正直な信仰の姿"故である。イエス・キリストの"十字架による罪からの救い"と"復活による永遠の命の約束"を受け入れたキリスト者が、この聖書に書かれた神の言葉に聞き従い、イエス・キリストと似た者になろうとする時、現実の生活の中で壁にぶつかりもがき苦しむこともある。そんな時に、様々な時代の様々な人々がもがき苦しみ、どのように神の言葉によって支えられかつ乗り越えていったかを聖書は語り、私達は力強く生きていく指針を与えられるのである。聖書は、石碑に刻まれた死んだ文字ではなく、生きた言葉として、現実世界を自由に生きる私たちに指針を与え、そして訓練をさせるのである。
 だから私は、神様の言葉に静かに静かに耳を傾けて"その声を聴こう"と、今日も聖書を開いて読むのである。


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2009年12月1日追記:2006年4月24日から始めた3回目の新共同訳聖書の通読ですが、旧約聖書の通読を終えました。


2011年4月24日追記:新共同訳聖書の3回目の通読(新約聖書&旧約聖書)を、イースターの本日終えました。


2015年12月11日追記:2011年4月25日から始めた4回目の新共同訳聖書の通読を終えました。


2020年6月25日追記:4年半かけて、5回目の新共同訳聖書の通読を終えました。


<JOLLYBOYの聖書通読暦/2020年6月25日現在>
・口語訳聖書(日本聖書協会刊)…2回
・新改訳聖書(日本聖書刊行会刊)…1回
・新共同訳聖書(日本聖書協会刊)…5回
・講談社聖書…1回
・徳間書店小説聖書…1回
・アートバイブル(日本聖書協会)…1回

<聖書ではないが聖書と深く関係した書物>
・旧約聖書外典(日本聖書協会)…1回
・使徒教父文書(講談社)…1回
・新約聖書外典(講談社)…1回
・ユダヤ古代誌5巻、6巻(フラウィス・ヨハネス著/ちくま学芸文庫)…1回