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本を読むと言ふこと   (2006年11月26日記載)

 誰でも、本を読むと思う。もちろん僕も読む。本が好きだ。読んで面白かった本は、ホームページの日記等にも感想を書いたりしている。先日、年間にどのくらいの本を読んでいるか大雑把にカウントしてみた。
 大好きな車の本は、年間にだいたい20冊は読む。小説は20~30冊ほどは読む。ノンフィクションやエッセイは10~20冊、キリスト教や宗教関連書籍も20冊程度、CG専門書等も20冊ほど、映画関連の書物は10冊ほど、その他様々なジャンルの書物や専門書がやはり20冊程度。これらを足すと、年間平均最低ざっと130冊前後は読んでいる計算になる。読み捨て状態になる週刊誌や小冊子等を加えると、年間150冊以上は読んでいる計算になる。これに大好きなコミックを加えると、あっという間に年間200~250冊くらいにはなってしまう。まあコミックは除いたとしても、2日に一冊程度は何かしら本を読んでいる事になる。大学時代はもっと本を読んでいたから、子供時代から大学時代までに読んだ本も含めると、これまでの半生で読んだ本の総冊数は、ざっと8千~1万冊程度と見積もって間違いないと思う。本に投じた資金も相当な額です…一冊平均500円としたって、400~500万円?何十年にも渡っているとは言え、考えると凄い金額だ。
 mixiでミク友となった同世代の若社長さんは、2万冊を読破していると言う。同じ時間で僕の2倍…。これは凄い!僕も、一般のサラリーマンよりは本を読んでいる方だとは思うが、とうてい適わない。やっぱり若くして社長となる人は違う…2万冊読むには1日辺り1~2冊程度読破している必要があるのだが、僕はこれ以上たくさん読むのは時間的に絶対無理!お財布的にもきつい(※図書館に行く時間が無いし、本は基本的に買うから…)。本はどんどん溜まり、それを入れる本棚もどんどん増えた。しかし結婚する際には、部屋のスペースを確保すべく数百冊の本を、泣く泣く処分した。結婚した後も、数百冊ほど同様に処分した。家が無尽蔵に大きければ良いが、子供もどんどん大きくなるし、本を保存するスペースはますます小さくなる。

←事務所の机脇には常に10~20冊の未読の本や雑誌が積んである

 さて、何故本をそんな読むのか?"自分で経験できない体験"、"知ることの困難な知識"を、本を通して得る事ができるからだと思う。僕はスーパーカー世代の大の車好きなので、車を例に上げさせてもらおう。僕は車が大好きだが、"自動車評論家でもない自分"が乗れる車の台数なんてたかが知れている。しかし、本を読めばまったく未知の世界のスーパーカーだって、それがどんな車か取り合えず"想像"する事はできる。車の世界だけじゃない。すべての領域に、それが当てはまる。一人の人間ができる事なんて、ほんの僅か。限定されたものに過ぎない。"あれもしたい、これもしたい"。でも、人生100年かそこらの時間では、すべてを実行する事はどんなに睡眠を削ったって不可能。"あれも知りたい、これも知りたい"。でも、人間一人の資金力と調査力では、すべてを調査しまた実行し尽くす事は不可能。有限な人間がやる事には、自ずと限界がある。
 しかし、先人達の知恵や発想は、本を通して得る事ができる。先人達の経験は、限られた時間で追体験できる。これが"本"の真髄だ。しかし、本だって"玉石混合"。素晴らしい内容の本もあれば、内容の胡散臭い本だってある。"存在しない物"を"在る"と言ったり、"悪い物"を"良い"と言い切ってしまう本だってある。また、この世に存在する本は、それぞれ様々な価値観が背景にある。だから、本の内容を自然と判別できるようになるためには、たくさんの本を読む必要がある。そう言った訳で、僕は時折"物凄く嫌いな著者"の本や、"興味の薄かった分野"の本も、無理矢理に読んでみたりもする(※すると不思議と本当に興味が湧くようになる事もある)。そうして見えてくるものがある。今まで別の世界の事と認識していた自動車や経済や政治や環境や戦争や医学や宗教やCGやワインや料理や映画等の知識が、不思議と自ずとリンクするようになる、関連し合うようになる。それが、本を読む事によって得られる素晴らしいところ。

 さて本の"功罪"の"功"を述べた。"罪"については特段あるとは思わないが、読書によって得られる物にも限界はある。
 一つ目は、いくら本を読んでもすべてを知る事は不可能だと言う事、むしろ本を読めば読むほど、自分は有限なのだと言う"侘しさ・虚無感"や"無力感"のようなものを得る事になる…と言う点。例えば、何も知らなければ無邪気に日々生きられたものを、戦争や圧制や犯罪で苦しんだり、亡くなった人の事を知ったら、それらの人達の事を心に留め、自分の無力感を噛み締めながら生きていく事になる。例えば、何も知らなければ日々を平穏に暮らせたものを、政治の裏で起こっている不正や闇の勢力の事を知ってしまったら、それらの政治状況を日々警戒しながら生きていかねばならない。"コヘレトの言葉"に曰く、「天の下に起こることをすべて探求し、知恵を尽くして調べた。→知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」と言ったところであろうか。
 もう一つ上げるとすると、"本の世界に閉じ篭る"事について。学者の中に時折見られるのだが、フィルードワークや現地調査、現地体験をしないで紙面の情報だけで書く…これはどうかと思う。例えば、子供達の教育論を論ずるのに、教育現場で一度も子供達に関わった事が無い…これでは教育論が机上の空論になってしまわないか?例えば、災害についての対策を論ずるのに、一度も被災現場に足を運んだ事が無い…これで本当に役に立つ対策案ができるのか?もちろん無理や限界があるだろう。机上の調査や読書だけで、人生のすべてを決定する事はできやしない。正に「書を捨てよ、街に出よう」と言う言葉が、重要性を帯びてくる。
 再び車の例を出させてもらうが、僕は自分で数多くの車(自分の車も含む)に試乗して、本の記事とつき合わせて「ああ、この記事はこう言う事を言っていたのか~」と納得したりする(※もしくは納得しなかったりする)。本の世界は、それだけで成立する場合もあるが、現実の世界とリンクするとより楽しい事が多い。スキーのハウトゥ本を読んで、ゲレンデで試す。料理の本を読んで、自分で作ってみる。ワインの本を読んで、気に入ったワインを買いに行く。全部楽しい。
 そう言った意味で、"本をたくさん読む"事と"本の世界に閉じ篭る"事は、かなり違うと思う。やはり人間には、"皮膚感覚"と言うか"実体験"が必要だ。子供は、遊びなどを通して体の感覚や体験で知識や言葉を覚えていく。理屈は二の次。大人になると、それが"頭"主体に移行してしまう(と言うかせざるを得なくなる)。だから、仮想フィールド(※読書)で過ごしたら、現実のフィールド(※遊び)で過ごす時間も増やした方が良い。よく遊び、よく学べ。文武両道ではないが、何事もバランスが大事だと思う。平日は通勤電車に揺られて本を仰山読み、週末は芝生やオープンエアーに肌をさらしながら家族と共に時間を過ごす。そんなのが大事だと思う。

 これからも本をたくさん読むと思うが、一冊でも楽しい本や素晴らしい本に出会えたらと思う今日この頃である。










2008年5月28日追記:
「フォーカス・リーディング」(寺田昌嗣著/PHP研究所)を読み終える。
この本は、単に速読を教え込む本ではなく、読書全体について示唆を与えてくれる本。
特に技術についての方法論は良く、本の目的毎に、読むスピード、内容把握、活かし方のバランスが上手く取れそう。。
何故、このような本を読む気になったかと言うと、僕が電車通勤でなく徒歩通勤になったからである。
電車に乗ると、他にすることもなく、かつ立ちっ放しなので、自然と集中力が高まり本がたくさん読めた。
年間150~200冊程度の本を読む事も可能だったのだが、徒歩通勤となり一気に読む冊数が減り始めた。
このペースだと、年間100冊も危うい・・・これからは、短時間に本を効率良く読まないと。この本は、お薦め。

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