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ハッピー・ボトム・クォーター   (2006年1月15日記載)

 アメリカの大学関係者の間で時々使われる表現に、「ハッピィ・ボトム・クォーター(幸せな低学力層)」と言うのがあるそうだ(藤田英典著「義務教育を問いなおす」ちくま新書より引用)。ハーバード大学やスタンフォード大学といった名門エリート大学でも、学力優秀者ばかりでは、キャンパス・ライフも学習活動も活発なものにはならない、学力面では多少劣っていても、クラブ活動や大学の各種のイベントなどでリーダーシップを発揮し、普段の授業や学習活動でも活気とユーモラスな雰囲気をつくりだすことのできる学生が重要なのだと言う。これって、私達の社会でも同様な事が言えないだろうか。

 僕らが小学生の頃、クラスには色んなタイプの子供がいた。頭の良い子(彼の兄達は二人とも東大生)もいれば、足の速い子(彼は体育の先生に度々本気で競争を挑んだ)もいた。腕っ節の強い喧嘩好きの子(彼は弱い子には手を出さなかった)もいれば、内気で本ばかり読んでいる子(僕には難しくて読めないよう漢字がたくさん並んでいる本も読む)もいた。それだけのたくさんのキャラクターが勢ぞろいしていながら、陰湿な虐めもなければ、学級崩壊もなかった。子供の親がすべて立派だったわけでも、先生がすべてカリスマを持っていたわけでもない。子供が育った環境も雑多で、貧しい家の子も、親が社長の子もいた。学校の先生もそれぞれで、優しい先生もいたし、ぶっきらぼうな先生もいた。それだけ不完全な空間・環境でも、全体としては不思議な調和があった。僕は、小学生当時、ひどく勉強のできない子だった。どのくらいできないかと言うと、通知表は1と2のオンパレード。3段階評価ではない、5段階評価での、1と2なのである。唯一、図画工作だけが3や4を超えていた。そんな子だったら、普通は親も先生もうろたえてしまう。そんな成績でも、先生にも親にもあまり口煩く言われた記憶が無い…まあ、僕が都合の悪い事は忘れてしまう便利な能力の持ち主だっただけの事かもしれないが…。塾に通う子も、クラスに数人しかいなかった。なんとも、のんびりした時代だった。しかし、平均学力は世界でも上位の方だった(まあ僕は、平均学力を下げた側だったけれども)。学力の低く、運動能力もたいした事の無い僕でも、絵や漫画が描けると言うだけで存在できる場所が認められた。他の子でも同様で、学力では劣っていても、優れた運動能力、笑いの取れる話術、上手な楽器演奏etc.と言う得意な能力で、存在意義ないし存在できる場所が確実に認められた。
 今、子供達には幸せな時代なのかなぁ?塾に行く子供の数、行く時間は増えているけれど、学力は僕らの時代と比べて低下していると言う。子供にも、先生にも、親にも余裕が無い気がするのは、僕だけだろうか?遊ぶ時間を減らして塾まで行っているのに学力が上がらないだけでなく、学級崩壊や陰湿な虐め、不登校の増加する市中の小・中学校。その一方で、幼稚園や小学生の頃からお受験勉強に励み、学力の高い小学校や中学校へ入れる事に躍起になる親もいる。エリート高校や大学に入れたいと思う親は、昔からいたし、もちろん今でもいる。それが、中学校、小学校にまで拡大している。問題のある子供がいる公立の小・中学校に子供を通わせたくいから、しっかり躾や授業を行ってくれる私立の学校へ通わせたい。ここで、ちょっと"待った"をかけたい。クラスメイトが、全部同じような学力で、考え方も似通っている…そんな子供達のクラス、何か変ではないだろうか。多様性がなく、均一なクラス。そんな中で育った子供達が、自分と違う考えや立場の人々の事を理解できるだろうか?ましてや、雑多な思想と民族で構成される国際社会に対応できるだろうか?考えると、恐ろしい事である。

 蟻の社会の事を聞いた事のある人は、多いと思う。蟻と言うと、働き者と言うイメージが強い。しかし、その蟻の社会をよく観察すると、働いている振りをしているだけで、まったく働いていない蟻が3割ほどいると言う(2割だったかな?)。その働いていない3割の蟻を取り除く。すると、不思議な事に残りの蟻のうち、また3割が働かない蟻になると言う。原因はまだよく分かっていないが、働かない蟻には何か社会的な存在意義があるのではないか推察される。蟻の社会と人間の社会を直接比較するのはちょっと難しいが、それでも類似点があるらしい。例えば、会社組織でも似た事が起こると言う。10人の社員がいる会社があるとしよう。そのうち3人の成績はとてもよく、4にんは普通、3人の成績は良くない。3人の成績の良い社員は、能力が高いのでさっさと自分の会社を設立して独立してしまう。7人が残された会社は、成績上位3名が抜けて経営の危機に直面する。ところが不思議な事に、7人のうち2人の社員ががんばって成績を上げるようになる。残りの3人は普通の成績、後の2人は成績が悪い、と言うような会社の構成比率に変化すると言う。常にがんばって成績を上げる人と、適当に仕事をする人と、駄目な人の比率が、同じような比率になると言う(もちろん会社全体の収益は同じと言うわけにはいかないが)。会社は、社員を雇う以上は、社員全員に良い成績を上げてもらいたい訳だが、なかなかそうはいかないようだ。
 ここに一つの仮定をしてみよう。最高の会社を作り、最高の収益をあげるために、超一流大学の主席クラスの社員を高額な給料で10人雇って、商品を生産・販売する会社を設立したとする。さすがに一流の頭脳が終結しただけあって、企画会議の内容は高度かつ知的で、素晴らしい企画が次々と生み出される。これだけの企画が確実に実行されれば、最高の収益をあげる事ができるだろう。その会社は、数年後どうなっているだろうか。答えは、「おそらく倒産か解散しているだろう」である。会社と言うのは、色んな側面がある。経営を統括する者、経理業務を行う者、商品の企画を練る者、実際に設計するもの、現場で生産する者、販売する者、トラブルがあった時に頭を下げて謝る者まで…色んな人が存在して会社が成り立つ。このバランスが取れていないと、会社は成り立たない。どこぞやの球団が4番打者をずらりと集めたのに、全然勝てない理屈と一緒だ。
 これは、社会のすべてに言えると思う。極論を言うが、全員が官僚や政治家で誰も物を作らず誰も物を売らなかったら、国は成り立たない。全員が工業従事者だったら、農作物をすべて輸入しなければならない。そう、多様性があって初めて、国家も会社も学校も地域社会もバランスよくやっていけるのだと思う。

 人と人との能力の違いを認め、多様性の中で生きる。ハッピー・ボトム・クォーター、この知恵を忘れてはいけないと思う。


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