入口 >トップメニュー >ワインとCGと祈り >現ページ
グッド グリーフ (2025年2月3日更新)
2024年12月31日(火)記載
12月11日、息子が天に召された。あれから20日。
20代、オートバイの転倒で骨折して数十針縫った痕は、30年以上経った今も残っている。そして時々傷跡が軋む。その傷跡は薄くはなってはいるが、おそらく死ぬまで残るのだろう。
今回心に負った傷は、目で見えるとするならば全身複雑骨折。死ぬまで消えることのない傷跡が残るのだろう。
昨年、就職活動用のスーツやネクタイや靴を、あーだ、こーだと言いながら一緒に選んで、プレゼントした。大学3年で就職が決まり、親子で大喜び。3年の時点で卒業単位もほぼ取れていた。
最後にあのスーツとネクタイを着せてあげた。だから、あのスーツは灰になってもう無い。
あの日以前と以降では、世界や人生を見る目が完全に変わってしまった。昔の能天気な頃に戻ることはもう絶対にない。
人生で経験したことのない感情を日々味わっている。それはどんな言葉でもいい表すことができない。家族全員がそうだ。こんな感情は、人間が人生で決して味わうべきではない。
こんな人生は想定外だった。
他の人には決して経験してほしくない。
申し訳ないが、この感情を心底理解し共感できるのは家族だけだ。もしくは同じ経験を得た人だけだ。
彼らは言う。
10年経ってもこの苦しみは消えることはない、と。
おそらくそうなのだ、と私も思う。
死ぬまでこの苦しみと共に生きることが宿命づけられたのだろう。
自分のバセドウ病や数々の病気も、過去の仕事の困難や数々の辛苦も、この苦しみには遠く及ばない。
食卓に座っても、写真を見ても、街を歩いても、何をしても、自然と涙が溢れる。毎日、毎日。妻も同じだ。
兄とは2歳離れている娘だが、双子のように育ったから尋常じゃない辛さだろう。
父として、夫として、子として、人間の自分の無力さを感じる。本当に無力だ。
それでも、これからも、家族と共に生きていく。
自分のためにも、妻や娘のためにも、高齢の両親のためにも、頑張りたいと思っている。
辛さを抱えながら。
人生を一生懸命楽しみたいとも思っている。
苦しみを抱えながら。
今は、日々一日一日を家族で乗り越えるのが精一杯。
明日の事は、また明日考えよう。
神様、辛いです。
胸が張り裂けました。
心がバラバラに分解しました。
小さな箱の中に押し込まれて、動きも取れずに呼吸をしているようです。
我が主よ、助けてください。
私と、私の家族と、共にいてください。
2025年1月6日(月)記載
夕方、妻の強い勧めで予約していた診療内科を受診した。
問診表で、今一つ納得出来ないことがある。
「はい・時々・しばしば・いいえ」みたいので答える設問が並んでいるのだが、例えば「自信がありますか?」とか「家庭に問題がありますか?」とか「満足していますか?」みたいな問いが並んでいる。
今の状況で「はい、自信があります!」とか「何も問題ありません!」とか「満足しています!」とか答えられる訳がない。逆に「全部OK!」だったら、人としてどうかと思う。
で、問診票の結果、50点を超えると「鬱症」だそうが、自分は52点。
同じ様な体験を得た人なら、これ間違いなく全員が、鬱症の結果にしかならんよ?(笑)
で、僕は見る夢の9割が子供のころから悪夢で、かつ軽度の無呼吸症なので、睡眠薬系の薬剤はそれらを悪化させるので一切使えず、血中の酸素飽和度を改善する薬、胃炎に効く薬(ストレスでよく胃腸炎になる)、アレルギーに効く薬(子供の頃から副鼻腔炎)を配合する薬を処方していただいた。
2025年1月8日(水)記載
グリーフケア(岩上真歩子著/いのちのことば社)を読み終えた。
グリーフ。
この言葉を聞いたのは、小学2年生の時に姉が渡してくれたピーナッツブック。当時のピーナッツブックは、詩人の谷川俊太郎さんやルーテル英語学校教師の徳重あけみさんが翻訳を担当されていた。
チャーリー・ブラウンが「グッド グリーフ」とつぶやくのだが、その訳は「やれ、やれ」だった。
グリーフとは直訳すると「悲嘆」と言うことになるが、悲しみ、怒り、寂しさ、やり切れなさ等、色んな感情を含む言葉であり、大事な何かを「喪失」した時にも使われる用語である。「喪失」と言うと主に家族や友人との死別を連想するが、失業や長年慣れ親しんだ家が損壊するなども喪失で幅が広い。
人のアイデンティティはつながりによって構築されるので、つながりを失うことは自分の一部を失うことでもある。
グリーフのプロセスで有名なものに、エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」の5段階プロセスや、以前読んだアルフォンス・デーケンの「よく生き、良く笑い、良き死と出会う」の中に書かれている「悲嘆のプロセス」12の段階がある。「精神的打撃や麻痺状態(悲嘆)」から「立ち直り(回復)」までの段階。
しかし人は、この段階全てを必ずしも通る訳ではないし、直面する順番もバラバラだったりする。
一つ言えるのは、大事な家族を失うような大きな喪失は、「嘆き崩れ落ちる」⇒「立ち上がる」と言うようなプロセスを、何度も何度も一生涯に渡り繰り返すと言うこと。
この「悲嘆」をケアするのが、グリーフケア。
グリーフケアにも段階があり、また教科書的な方法論の正解がある訳でもない。かける言葉一つとっても注意が必要。
例えば・・・
「お気持ち分かります」
⇒「経験していないお前に何が分かると言うのか!」
「こういう時は泣いた方がいいですよ」
⇒「泣く時は自分で決めるし、お前が指図するな!」
「私も似た経験をしています。(以下、体験談が続く)」
⇒「は?」
などなど、励ますつもりが逆効果になることもあるので難しい。
グリーフケアは奥が深いのでここでは詳細には書けないが、一つ一つが大切なことである。
グリーフケアは、どれが「正解!」と言うものがない気がする。
ケアする側とされる側が、共に歩んでいくプロセスじゃないかな?
悲嘆の中、怒りや悲しみで周りの人との関係が壊れてしまう(もしくは自分で壊してしまう)人が実際にいる。どんどん周囲から孤立していき、孤独になっていく友人の姿を実際にこの目で見てきた。
「他人に何が分かる!悲しみは自分でしか癒せない!」と思う人の思いは尊重するけれど(実際に他人には分からないしね)、私自身はできるだけ人とのつながりを大事にして今後も生きていきたいと思っている。
1月10日(金)記載
「グリーフケア」に続いて「すばらしい悲しみ」(グレンジャー・E・ウェストバーグ著/水澤都加佐・水澤寧子共訳)を読み終えた。
原語タイトルは「Good Grief」。
先日も書いたけどチャーリーブラウンの「グッドグリーフ」は「やれ、やれ」と訳されたけど、この本のタイトルは「すばらしい悲しみ」と訳された。
妻が全国の看護師の会合の学びで使用した本で、やはりグリーフが癒される10の段階が書かれている。
悲しみのただ中で希望を見いだせるように、ショックから希望そして現実を受け入れるまでが書かれている。
2月3日(月)記載
友人であり人生の先輩が送ってくれた本を読み終えました。
「涙とともに見上げるとき/亡き子を偲ぶ哀歌」(ニコラス・ウォルターストーフ著/正井進訳)。
この本が他のグリーフケアの本と決定的に違うのは、25歳の息子を突如失った男性が自ら書いていると言うこと。
自分は、今、これまでの人生で直面したことのない特異な感情を味わっている。こんな感情は人が味わうべきではないし、他の人には決して味わっては欲しくない。
この言葉に表現しづらい特異な感情や思いを、著者は言葉で表している。多くの人は、この本を読んで頭で理解することはできると思う。
しかし、今の自分は何故著者がその言葉を選び、その表現をしたかが理解でき共感できる。以前の自分ならば、頭で理解したに留まっていただろう。
多くの文面はこのスペースでは全く足りないので、ほんのいくつかのみを書き記す。
「何かが終ってしまった。私の存在のもっとも深いところで、何かが完結し、終わってしまった。私の人生はそれ以前とそれ以後に分かれてしまった」。
「ジョギングをしようと思ったができなかった。それはあまりに人生を肯定しすぎることだった。・・(中略)・・友人と一緒に泳ぎに出かけたが、手足が動かなかった」
「6ヶ月前、私は友人の23歳になる息子の葬儀に参列していた。私は友人の悲しみがどのようなものか想像しようと努めた。今となって分かるのだが、私にはまったく想像できていなかった」。
「それが今、彼はいなくなってしまい、家族は再構築しなければならない。我々は、一人ひとりがその内に割れ目をかかえているだけではない。我々全体の中に割れ目がある。家族同士、これまでと違った形で生きていかなければならない。我々はその割れ目を囲んで生きていかねばならない。一人を取り出すがいい。すべてが変わってしまうのだ」。
「しかし私は、『神がしたのだ』といって辻褄をあわせることもできなければ、『それに対して神にできることは何もなかった』といって説明することもできない。私は、それらについて辻褄の合う説明をすることはまったくできない。私にできるのは、ヨブとともに耐えることでだけである」。
この著者が言う通りなのだ。今までのようには生きられない。人生が全く変わってしまった。家族も、仕事も、趣味も、全てが。 人の目には、普通に仕事をし、趣味にいそしむ姿として映るかもしれないが、以前と今では全く違うのだ。 自分は、この世で答えが得られぬまま耐え忍ぶ日々を歩くことを余儀なくされてしまった。