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平和への祈り (2002年12月15日記載)
今回は、真面目な話題。「平和」について考えたい。
この世界を見ると、本当に紛争ばっかり。あっちでテロが起こったと思えば、向こうでは爆弾がばらまかれ、そっちでは子供たちが大勢死に瀕している。過去数千年間、人類が平和だったことは一日もないと言われる。必ずやどこかの国や地方で、争いが起こってきた。時には習慣や言語を異にする民族同士の争い、時には思想や信仰の相違から来る対立、時には莫大な資源を埋蔵している土地の奪い合い、時には狂信的な権力者の誇大妄想によって起こった戦争や虐殺…。そして、多くの紛争はそう言ったものが複雑に絡み合っている。
それだけではなく、この一世紀ほどの間に新たな戦争の要因が作り出された。武器の消費マーケットとして、戦争が頻繁に利用されるようになっている。これは古くからある武器商人の概念とは、ちょっと違う。これは、武器消費経済システムと言っても良いかもしれない。多くの国々や権力者は、目的達成のため戦争用に兵器を"生産ないし購入"する。しかし一部の国や企業は、兵器の流通で利益を挙げるのを主目的に、兵器を"生産および販売"する。歩兵が使う鉄砲の弾では大した利益はでないから、一機数千万円から数十億円するようなミサイルやジェット戦闘機を大量に造りたい。しかし、兵器は消費されないと減らない。減らなければ、新しい兵器を作ることができない。だから、古い兵器を大量に消費したい。そんな戦場がないかと、虎視眈々と狙っている国や企業というものが存在するのだ。その代表例が、アメリカ合衆国の軍産複合体だろう。軍隊と企業が共同体として、新型兵器や軍事システムを開発したり、兵器の生産を行う。これは、日本のゼネコンにとてもよく似ている。多額の税金を投入してダムや道路などを造っていき、一部の企業や政治家が恩恵を蒙る。その規模があまりに大きくなると、利益を受ける関係者が増えすぎて、誰も税金の無駄な流出を止めることができなくなって、国の経済を混乱させる。これを軍事面に置き換えたのが、アメリカの軍産複合体だと言えよう。多くの政治家、軍人、軍需産業が関わって己の利益を確保しようとして、税金流出に歯止めが効かなくなる(実際に、絶対に成功しないだろうと言われる防衛システム開発に、税金を数兆円も投じているのだ)。軍産複合体は新たな軍需を起こす為に、アメリカ以外のどこかで戦争を起こす必要が生じる。そう、大儀を作って戦争をしなければならないのだ。歩兵を投入しても大した利益は出ないし、死者が出ると世論が反戦に走るので、高価なミサイルをここぞとばかりに発射し、大量の爆弾をここぞとばかりにばら撒く。そんなことを、アメリカは半世紀以上も続けているのだ。
では、アメリカだけが悪いのかというと、まったくそんなことはない。ロシアは、過去国内で多くの民衆を弾圧・虐殺し、諸外国で非道な軍事行動や謀略活動を数多く行ってきた。イギリスにしても、過去に世界の国々を植民支配し、また中東において現在の混乱のもととなる政策を行ってきたのだ。旧ユーゴスラビア連邦内で起こった、数々の民族浄化弾圧や虐殺は記憶に新しい。ドイツと裏取引して、他国が侵略されるのを黙ってみていたスイスも非難に価しよう。ドイツのヒットラーについては、もはやここで詳しく述べる必要もないだろう。イラクの周辺諸国への戦争や侵略、国内少数民族の虐殺。北朝鮮の、もはや犯罪としか言い様のない過去の活動…拉致、麻薬密輸、偽札製造疑惑まで…の数々。イスラエルの不公正な過去の歴史と、パレスチナの人々への弾圧。行き場を失ったパレスチナ人民によるテロの残虐性。中国共産党の民衆への弾圧。カンボジアのポルポト政権による、人類史上稀な大虐殺。ミャンマー軍事政権の民主勢力への弾圧。自由を求める東ティモールに対する、インドネシアの間接的な武力介入。ソマリアの政権民族による他民族の大虐殺。アフリカ史上最大の大虐殺を生んだルワンダ内戦。小さな子供たちを兵隊に狩り出したシエラレオネの内戦。麻薬生産拠点であり、暗殺や虐殺を繰り返す内戦下のコロンビア。…等々、数えれば切りがない。日本だって同様である。三国包囲網の下、他国の資源を確保するため為に、"大東亜共栄圏"と言う大義名分を掲げて、アジアの国々を蹂躙して多くの犠牲者を出したのだ。
もちろん、ここに挙げた国々だけが酷いのではない。他の多くの国々も、大同小異なのだ。多くの国々が、過去なんらかの紛争の当事者であったはずなのだ。私が言いたいのは、「自分の国だけは戦争や弾圧や虐殺や飢餓や貧困や差別と無縁だ」と思っている人々がいたら、それは幻想でしかないということだ。「紛争なんて所詮は他人事」と嘯く人がいたら、それはまやかしに過ぎない。誰もが、もっと世界の平和について真剣に考えて、行動すべきなのだ。
とは言っても、この世界中に山積する諸問題を目の当たりにする時、眩暈にも似た無力感を感じざるを得ない。一体、何をすべきなのか。と言うより、私たち一人一人に一体何ができるのか。私たち個人は、余りに無力ではないのか。"イマジン"を部屋の中で一人で歌っていても、世の中は何も変わらない。かと言って、すべてを突然変えるのは無理である。私は思う。まず、「祈り」から始めよう…と。
では、祈りって何であろう?日本人は、よく祈る。初詣で神社にお参りに行くと、必ず祈願する…健康でいられますように、お金が儲かりますように、等々。受験前にも、受験に効くと言われるお宮に行って祈願する…志望校に受かりますように。彼氏や彼女と付き合いたい場合は、縁結びの神様の元を訪れる…うまく行きますように。子供が生まれる時にも、安産の神様にお参りする…子供が無事に生まれますように。厄年の人は、厄除け大師にお参りする…厄が払われますように。本当に、日本人はよく祈願する。そっちの神様にお参り、こっちの仏様に祈願、でまたあっちの…である。
私も祈る。クリスチャンとして祈る。色々なことを祈る。祈りの前提として、全能の父なる神がこの祈りを絶対聞いていて下さる、と言う確信を持って祈る。祈りは、神が聞いているだけではない。祈りは、ただ自分の内側にのみ留まっているのではなく、積極的な外への行動となる力の源となる。ちょっと神学的になるが、人生はすべて運命の下にあると同時に、人間の自由意志で形成されていく。歴史も同様で、神の計画下にある歴史の事象も、具体的な一人一人の人間の行動で築き上げられていく。かつて映画"フォレスト・ガンプ"の中で、主人公がこんな事を言っていた。「ダン中尉は、人間には定めってもんがあるって言ってた。でも母さんは、人生はチョコレートの箱のようなものよ、開けてみるまでは何が入っているかは分からない…って、言ってた。僕は、これらの事が同時に起こっていると思うんだ」。そんな感じの台詞だった。人には運命がある、同時に生きてみないと何が起こるか分からない。祈りも、それに似ている。神は、人には何が必要なのか分かっていてくださる。同時に、私たちが執拗にそれらを祈り求めることを神は求めている。祈りとは、格闘なのだ。願いを聞いてくれるまで、決して諦めない。扉を、開けてくれるまで叩き続ける。求めるものを与えられるまで、ずっと求め続ける…さて、神学的な話はここまでにしておこう。
で、私たちが真に"平和"を求めるなら、この執拗に何度もしつこく求める姿勢を忘れてはならない。平和でない世界の状況を知ったなら、"平和"のためにしつこく祈る。"平和"のために祈るなら、どうしたら平和にできるかを執拗に考える。"平和"について考えたら、平和を実現するために粘り強く行動する。平和に少しでも近づくように、じりじりと前へ進んでいく…いつの日にか平和が実現するように。それが"平和への祈り"の本質だと思うのだ。
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