JOLLYBOYの教育について考える

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7.中学生以降・そのⅠ (2006年 2月19日記載)

 過去六回で、妊娠・誕生から小学生までの育児や教育を考えてきました。中学生以降の教育を考える前に、小学生までを今一度振り返ってみたいと思います。
 二回目の時にも述べましたが、子どもの育児や教育の仕方について、完全なマニュアルとか方法論と言うのは存在しません。親の愛情をきちんと子供に伝えるための技術(テクニック)は絶対に必要だと思いますが、こうすれば絶対に間違いないというマニュアル・正解は無いと思います。世に氾濫する育児書も、せいぜい参考書程度に考えた方が良いと思います。子供達は、それぞれ生まれた親も違うし、育っている環境も違うのです。まったく同じように育つ訳がないでしょう。例えば、うちの子も育児書に書いてあるよりも、ずっと言葉が遅れていました。
 専門家や学者でも、色んな事を言う人がいるのです。例えば幼児のテレビ視聴に関しても、「百害あって一利なし」と言い切る医者から、「テレビによる幼児の脳の発達への影響は無い」と言い切る学者まで、対極の人達がいるのです。専門家の意見が、100%違うのですから、素人の我々がどちらが正しいかなんて、判断できるわけありません。他にも、例えば少し前は「なるべく早く離乳食にした方が良い」と言う育児方法が主流だった事がありますが、様々な弊害が表出し、現在はあまり早すぎる離乳食は避けらるようになっています。学者の提唱する育児方法は、時代と共にコロコロ変わる可能性が大きいのです。私達は、臨床試験のため育児をしている訳ではありません。そう言った意味で、育児書を参考にする事はあっても、あまり振り回される必要はないと思っています。

 過去六回に渡って僕が色々調べて考えてまとめた記述も(…色々と書きましたが)、「まあ、全体としてはそう言う傾向があるのかなぁ。参考程度にはなるかなぁ…」程度の内容でしかありません。生まれた時は、だいたいみんな同じような体格で、ある程度は似たような反応をしていた子供達も(それでも随分と違いますが)、成長するに従い色々な違った個性が表出してくるようになります。身長も体重も、どんどんと差がでてきます。赤ちゃん→幼児→小学生と成長するに従い、その差は大きくなっていきます。幼稚園児・保育園児にしても、小学生にしても、その世代全体として、ある一定の傾向と言うものはあるかもしれませんが、各人の成長度合いはバラバラですし、その平均枠に当てはまらない子だっている訳です。

 それが中学生ともなれば、個人の差と言うのはかなり大きくなっています。また、精神的にも身体的にも、子供と大人の狭間を彷徨っているのが、ちょうどこの中学生と言う時期です。もうマニュアルとか、育児書(まあ中学生に対しては育児なんて言わないと思うけど…教育書?)は成立し得ない、不可能じゃないかとすら思えるのです。実際、赤ちゃんや幼児用の育児書は世に山ほどあるのに、それが小学生レベルになるとぐんと減ります。中学生用になると、もう町中の本屋さんではほとんど見つけられない…教育の専門書を扱う店ならあるのかもしれないけれど、街中の一般書店では皆無。僕も、あちこちの本屋で中学生の教育に関する書籍をけっこう丹念に探したのだけれど、一側面を記した物や特殊な分野を記した本ばかりで、包括的なものほとんど見つからなかったのですが…それぐらい中学生以降の教育と言うものを考えるのは、難しいのかもしれません。おそらく中学校の現場の先生や実際に中学生の子を持つ親達が、最も懸命に試行錯誤しながら悩んで、日夜取り組んでいるに違いないと思います。

 中学生の時期の問題は、個々人の成長の度合いの差や微妙な時期であると言う第一の問題に加えて、義務教育のシステム的な問題と言う第二の問題があります。ご存知のように、"義務教育"と言うのは小学校と中学校の9年間の教育です。恵まれた家庭の子であれ、そうでない子であれ、皆が平等に教育を受ける権利があります。将来皆が社会に出て行って困らないための"読み・書き・算盤"的な基礎学習を受け、基本的な知識を授けられます。小学校は、特にその面が顕著です。しかし、中学校と言う場は義務教育でありながら、小学校とは決定的に違う面があります。中学校卒業後は(つまり義務教育終了後は)、「みんなが別々の道を歩むこととなる」と言う点です。社会に出て働く子もいますし、専門学校に行く子もいます。とは言っても、高校に進学する子の数は相当な割合に達します。同じ高校に入学する同級生は、ごく僅かでしょう。高校と言うのは、基礎教育を終えて高等教育の場、専門教育の入口な訳です。つまり中学校と言うのは、小学校の"基礎教育"と高等学校や大学へ続く"高等教育・専門教育"の狭間に位置しています。小学校の勉強にはなんとか着いてこれたこれた子供も、中学生になると着いてこれなくなる場合もあります。中学校というのは、構造的にそう言う問題をもっています。
 "子供と大人の狭間"、"成長の個人差"と言う個人に関わる問題と、"義務教育と専門教育の狭間"、"長年の仲間がバラバラな方向に進んでいく最終地点(スタート地点)"と言う構造上の問題と言う二つの大きな問題を、中学生と言う時期は抱合している訳です。

 そんなわけで、たかが3年の育児経験と、18年間の日曜学校教師の経験しかない僕が、中学生の教育について考えるのはおこがましいとは思うのですが、わが子もいずれは中学生になるわけです。避けては通れない道なのだと思い、ここで色々と考えてみたいと思います。ただし、中学生以降は「AをすればBのような行動を取るからCのような対処が相応しい」的な方法論はなかなか難しいと思われるので、今回からはなるべく本質論に迫った考察をしてみたいと思います。

・親が子供に対してすべき事は何処までなのか

 最初に考えたいのは、「子供に対して親がすべき事(もしくはできる事)はどこまでなのか」と言うことです。結論を先に言うと、人生のスタート地点のレールをひいて上げる事ぐらいじゃないかと思うのです。高校や大学の選定、ひいては就職先まで親が決定する、ないしは面倒を見る、そんな家庭も確かにあります。
 これは僕が直接営業に行っていたある会社の担当者から聞いた話なのですが、その社に入った新入社員が仕事が一週間で嫌になったそうです。この不況下、人気のあるその会社に入社するにはそれなりの苦労があったはずですが、彼はすぐに嫌になってしまった。それでどうなったかと言うと、辞職の届けを本人ではなく、彼の母親が電話でしたそうです。この話を聞いて担当者はやりきれない様子でしたが、聞いた僕も唖然としました。たった一週間で会社を辞め、退職の電話を母親がする…彼の母親が、彼の人生の責任を最後まで全部背負い続けられると言うのならそう言う話も「有り」かもしれませんが、人はいつか確実に死にます。彼の母親も、いつか死にます。その母親は、残念ながら息子の人生を変わりに歩く事はできません。いつか間違いなく死によって不可能になるのです。
 親は子供の人生を変わりに歩く事はできません。親ができる事は、最初のレールをひいて上げる事だけだと思います。後は、子ども自身が自分で先に進んでいくしかないのです。あがいて、がんばって、時には壁にぶつかって悩んで。この"自分の力で先へ進んでいかなければならない分岐点"が、実はこの中学生と言う微妙な時期なのではないかと思います。この分岐点が、現在どんどん先へ伸ばされている気がします。高校や大学すら、義務教育的になりつつある…二十歳を越えて社会人になっても、まだこの分岐点を越えずにいる人が増えすぎている気がします。
 実際は「大人」と呼ぶには随分と未熟でも、中学生と言うこの時点、13~14歳のこのタイミングで「おまえは大人だ。ここからは責任を持って自分で歩いていかなければならない」って、例え嘘でも言うべきなのだと思うのです。幼稚園児や小学生低学年~中学年は、間違いなく"子供"でしょう。親の庇護の下に自由に冒険する事ができ、親にその存在を肯定的に認知してもらって安心できる"子供"です。そして小学生も高学年になると、大人への門口に立ちます。一方、高校生や大学生を、"子供"と言う人はいないでしょう。実際どうであるかと言う事は別にして、建前は自分の意志で学び、そして自分の人生を考え決定していく時期です。その中間である中学生は、本当に微妙な時期です。社会的・制度的にも色々矛盾があります。中学校に入ると、建前上は大人、つまり一人前として扱われるようになります。各家庭でも、「もうあなたは小学生じゃないのよ」と煽るでしょう。しかし義務教育と言う事は、「まだあなたは社会に出るには一人前ではなく、教育が必要なのです」と言う事です。だから、極度に悪い事をしても退学にはならない(と言うか、退学にできない)。高校生なら、即"退学"の様な状況においてもです。つまり中学生は、建前はともかく半人前扱いなのです。法律の面でもまだ成熟した人間ととらえられていなくて、例えば犯罪を犯した時の刑罰も圧倒的に大人よりも軽く保護されている。一方で「あなたは大人」と言っておいて、一方では「半人前」扱いをしている。これが、中学生という微妙な時期の実情なのです。
 親は、わが子が「子供から大人」へ苦心して変身中なのだと、きちんと認識して接する必要があると思います。次に、親は子供にどのようなレールをひいて上げる事ができるのかを考えみたいと思います。

・親が引いて上げられるレール

 "レール"って書いたけど、これは単なる比喩だから"道路"でも"滑走路"でも何でも構わないのだけど、要は親が子供のためにすべき基本的な事だと思うんです。この基本的な事について、考えてみたいと思います。

 子供にする基本的な事って言うと、まず最初に"躾(しつけ)"が頭に浮かぶと思います。躾って言うと、叱ったり、説教したり、そう言う事を通して子供を矯正していく、正しい道へ導いていく、そう言うイメージが強いのではないかと思います。確かに叱る事も説教も、躾の一部かもしれませんが、躾と言うのはそう言う局所的、一部的な事だけではなくて、生活全体で子に示すものだと思います。
 よく「朝ごはんを家族みんなで食べる」事の重要さが、語られる事があります。家族の一員である事を認識する事の、一つの知恵です。中学生へのルールは、そんなに多くなくて良いと思います。朝ご飯を一緒に食べる、決められた時間には帰ってくる、家族で決められた役割を一つくらいは実行する、そんな程度で良いと思います。毎日、家族が同じリズムで生活していくのです。
 幼稚園や小学生の頃は、「あれは駄目、これは駄目」と口を酸っぱくして言ったでしょうが、中学生になれば、最低限のルールを作って後は本人に任せます。本人も、精神的自立のため葛藤している時期でしょう。本人に考えさせ行動させる、困った事があれば親がそっと援助の手を差し伸べる、子供の葛藤や悩みや不満を知るためにも、家族全員がそろってご飯を食べる…と言うのが大切でしょう。家族が同じリズムで生きていく。この経験は、その後の子供の人生にとって(目には見えませんが)大きな宝となるでしょう。

 レールの二つ目は、実際の子供の進路の方向を一緒に考えてあげる事だと思います。中学を卒業すると、子供は何らかの進路の方向を選択しなければなりません。高校、専門学校、就職、その他の道、色々と考えられます。子供は、大人に比較して圧倒的に"経験"や"知恵"が不足しています。親がその子供の不足しているヶ所を、補填・カバーする事になるでしょう。子供は往々にして、夢見がちな進路の方向を選択しがちです。対する親は、(私自身も中学時代そうでしたが)たいていそれを"一笑"に付して"一蹴"してしまいがちです。子供は子供なりに真剣に悩んでいるので、夢物語をあきらめさせる事に終止するだけではなく、色んな可能性を親として"助言"できるようにしておく事が大切だと思います。
 子供の希望する進路に、子供の能力(才能)が適しているか、子供がそのために努力をしているか、親にそれを支援するための経済力があるか、子供がその進路を順調に進んだ時、将来その職業で食べて行くだけの業界のキャパシティがあるのか、業界時代の将来性はあるのか、と言った状況や情報の収集や分析が、親として必要だと思います。親にも、(子供自身ができない事で)陰に日向にと色々できる事がある訳です。子供の能力や努力の仕方からして、その道で生きていくのは非常に難しいと思わざるを得ないと判断した時は、その件について客観的なデータを示しながら、子供と真剣に話し合う必要が生じるかもしれません。
 最初にも書きましたが、親は子供の人生を代わりに歩いてあげる事はできません。いつかは、最終的に子供自身が自分の人生の道を選択しなければなりません。その子供の人生の指針を与え、子が正しく進んでいけるように最初のレールを引いてあげるのが親ですが、その後の人生のレールをひいてそのレールの上を歩いていくのは、その子自身です。

 今回は、中学生の子供に親がするべき事(できる事)は何なのかについて、考えてみました。


ティー・タイム/変化する社会の狭間で生きる子供

 このシリーズでは、度々子供を育ていくのに完璧なマニュアルは無いと言う主張をしてきた。それぞれの環境も違えば、子供の才能も違うだろうから、全部に当てはまる正解のような方法論は無いと思う。それぞれの親が悩みながら、対処していくしかないだろうと考えている。一方で、現代社会の中核を担う人々は、間違いなくマニュアル的な社会で育てられ競争してきた世代だ。偏差値で自分の行く学校が決定され、どこの大学に行けば、こう言う企業、こう言う官庁に入れる、そう言う流れに乗っていれば取りあえず"成功"や"幸せ"を手に出来る…と言う暗黙の了解があった。ところが過去のそう言った方程式が崩れつつあり、リストラと言う名の下に解雇が行われる。マニュアル世代の人々は、かくして新しく出現した状況に対処不能となる。その後の人生を、どう生きていって良いか分からない。子育ても同様、子供が殺人を犯すニュース等を聞くと、途端に心配し不安になってしまう。「うちの子は大丈夫かしら。間違った教育をしているのではないかしら」。子供がまだいない若い人は、「こんなたいへんな世の中、子供を生むなんて自信が無いし、怖くてできない」と思う。だれかが、「大丈夫ですよ」と背中を押してくれない限り、前に進めなくなってしまう。

 話しは少し脱線するが、TVゲームの攻略本はけっこう売れる。攻略本を見ながら、そのゲームを終わらせるのだ。僕はこれが不思議で仕方が無い。さすがに、僕も今はTVゲームをする時間などまったく無いが、昔はドラクエやFFが好きでよく遊んでいた。色んな秘密を見つけたり、主人公を成長させながらゲームを進行させて行く。それが面白いのに、攻略本を読んでしまったらそれが台無しになってしまう。攻略本を読んでまでゲームをする意味が、僕には分からない。実はゲームに限らず、大人・子供の別なく現代人は攻略本を求めているようだ。ある精神科医の本を読むと、そのような事が書かれていた。色々と問題を抱えている子供を診ている医師が、その子供の親と対面する。当然、色々な事を話す。子供が問題を抱え込む要因は一つではなく多面的だからだ。だから医師は、色々な事について親と話しをする。ところが親は「では、うちの子を○○するには、××すれば良いのですね?」と簡単に結論づけようとする。医師の言う事を深いところで理解せず、親は単純化した方策・結論に変えてしまう。
 実は、こうした問題の単純化は、マニュアル化とは決して無縁ではないと思う。社会は、どんどん複雑化している。複雑化すればするほど、より単純な解答を求める。大人である我々も、もう社会や経済や政治の何がどうなっているのか、把握できなくなっている。あらゆる物事が細分化し、スピード化し、利便化されている。それへの対応・解答も、より簡潔かつスピードが求められる。社会の問題は多岐に渡って複雑化し簡単な解決法など無いのに、総理大臣が一つの単純な方向を示しただけで、それにみんなが寄りかかり安心してしまうと言う社会的な病理も、決してそれと無縁ではない。

 再び話しは脱線するが、僕らの子供の頃は、アイドルはけっこう長く人気を保ち、ヒット曲も数ヶ月以上テレビで流れていた。ところが最近は、人気歌手やグループが人気をはくしたかと思うと、もうすぐに消えてなくなってしまう。グラビア・アイドルも次から次へと現れては、超高速で消えていく。まさに日進月歩から秒進分歩の時代。また、昔は国民的歌手や国民的アイドルと言う人も多かったが、最近はよりマニアックに一部の人に受けるアイドルやグループが増え、同級生でも興味の対象が違うと話しが通じない。昔はみんなカローラに乗っていたのに、今はみんなバラバラな車に乗っているようなものだ。物事も色々と便利になった。真夜中にカップ麺を食べたくなっても、24時間コンビニが開いているから困らない。明日まで我慢する必要もなく、欲しいときに欲しいものがすぐ手に入る。しかも山ほどの種類のカップ麺から、自分の好みに合ったものを選ぶ事が出来る。

 社会は細分化、スピード化、利便化し、たいへん複雑になった。物事をたった一つの要因で判断したり、処理できなくなった。このように社会が複雑化しているのに、子供に対する指導や対応はその逆になっている。子供がいじめを受け、学校へ行かなくなる。そこで教師に勧められて、親は我が子を精神科医へ連れて行き相談する。精神科医で治療やカウンセリングを受けて、また登校できるようになるためである。
 しかし、これっておかしな話ではないだろうか。これは、子供が不登校になった理由が"その子本人にある"と言う前提に基づいてる。しかし問題の要因は、他に色々あるかもしれない。親の教育方法や家庭環境にも要因があるだろうし、学校の先生の配慮の足りなさにも要因があるかもしれないし、そもそも虐める側の生徒の方にもより大きな問題があるかもしれない。考え方によっては、親や先生やその他多数の生徒の方が、カウンセリングを受けるべきなのかもしれない、そう言う可能性だってある。一人の子供の治療で、すべて解決する問題ではないはずだ。
 しかし、時代の進む方向はそんな風になってきている。多くの生徒、親、先生や社会や学校の制度等の圧倒的多数側に問題を見出して対処するよりも、少数の子供の側に問題を見出し、それを治療すると言う考えの方が、より"単純"でより"スピーディ"で手っ取り早いのだ。要は"便利"なのである。親も自分の問題として捉えず、「教育も治療も、専門家の領域の事だから…」と任せっぱなしで、時間をかけて子供と関わらない。小学校の教師も、生徒の喧嘩の処理を当の親同士に話し合わせて、教師本人は介入しない。中学校の教師も、生徒の進路の問題を子供とその家庭に丸投げにして、一応相談には乗るが責任は一切負わない。

 親も教師も、子供を虚構の"どこかにいる"はずの"誰か"専門家に任せて、それで問題解決を図ろうとする。「心の問題処理のコンビニ化」とでも言いたくなる。

 良く言われる事だが、社会のどこか一つでも心の拠り所があれば子供は生けていけると言われる。例え教師がひどい人でも、理解しあえる友達が一人でもいれば耐えてやっていける。良い友達がいなくとも、それを支える親や家族がいればがんばれる。酷い家庭環境でも、口はうるさいが親身に相談に乗ってくれるおばさんや頑固な爺様でも近所にいれば、それが支えになる事もある。親、教師、友人、すべての環境に恵まれていればそれに越した事はないが、どれかの要素が欠けても、他の要素が補っていれば人は生きていける。
 うちの姉は、体育系の短期大学を卒業した後、中学校で保健室の先生をやっていた。保健室と言うのは、教室に居場所の無い所謂"不良系"の生徒が集まってくる。うちの姉も中学、高校、大学と、ずっと運動系一本で通してきて、中学生の頃は教師を泣かした事もある所謂"良い出来ではない"生徒だったので、保健室で不良の話しをよく聞いてあげていたようだ。平日だけでなく、日曜日さえ相談の電話が我が家に頻繁にかかってきた。担任でもないのに、生徒に熱心で生徒からもそれなりに支持をされていた姉だったので、中学校側からも教師試験に受かれば「正規教員として採用するから」と言われていた。ところがうちの姉は運動の試験ならともかく筆記はからきし駄目で、教師試験に毎年落ちる"お馬鹿"であったため、最後まで正規の教師にはなれなかった(笑。…結局、姉はジャズダンスの道を目指し、最終的に根性でジャズダンスのチーフ・インストラクターにまでなった)。うちのような姉が学校にいれば、一部の生徒にも居場所があったろうに…と思ったりもする。子供には、家庭でも、仲間でも、先生でも、保健室でも何でも良いから、何処かしら自分が"居ても良い心の安息場所"が必要なのだと思う。それは役人や政治家が法律に基づいて正規に作った"きちんとした"場所では、その代用にはならないのだ。

 僕らの子供時代も、そう言う面が多々あった。我が家は僕が小さい頃から両親が共働きだったので親と過ごす時間が短かった。父親とキャッチボール一つした事が無い。そんな訳で、内向的な僕は小学生3~4年生の頃は、外で遊ぶよりも室内で思索的な遊び(絵を描いたり、物語を考えたり、プラモデルを作ったり)をする方が好きだった。ところが、10人以上もの同級生が自転車に乗ってうちまで来て僕を誘い出しに来る。「おい、野球やるから来いよ。でないと二度と誘ってやんないぞ!」と言う(「二度と誘わない」と言うフレーズは単なる形だけの台詞で実は何度も誘いに来てくれる)。せっかく来てくれるので、僕も野球は好きではないけど渋々出かけていく。そんな事を繰り返しているうちに、僕もいつか野球を好きになってルールも覚えた(もちろん遊びは野球だけではなく、馬とび、缶蹴り、Sケン等々と多様だ)。
 また僕は、なんと小学生高学年まで自転車に乗れなかった。それまでは、いつも友人の自転車の後ろに乗っていたのだ。それを克服してくれたのも、近所の仲間達だった。「そんなに大きくなって自転車にも乗れないのは、恥ずかしいぞ」と言って、寄ってたかって僕を特訓してくれた。おかげで、僕は自転車に乗れるようになったのである。学校の先生にも、恵まれたと思う。当時は一学年あたり十数クラスもあり、一クラスあたりの生徒数もとても多く45人前後もいたのに、担任はけっこう一人一人の話しを聞いてくれた。そう言う教師に対して僕らも好感を持っていて、みんなで一丸となって極秘裏のうちに先生の誕生パーティーを企画して、先生を驚かせた事もある。みんなで先生のうちに遊びに行って、先生と一緒に銭湯に行った事もある。当時は、そう言う人間関係でみんなの足りない部分が補われていたと思う。今は少し違っているのかもしれない。
 一般的に学校の教師は、生徒やその家庭から一歩引いている感じがする。親ですら、子供の事に関して他人事のように距離をおいて"誰か"ないし"他人"任せにしている傾向がある。同級生には本音を語れない…人との違いを指摘されたり、本音を言った事でキモイと言われるかもしれない。教師との関係、友人との関係、親との関係、どこにも居場所が無い子供は、どこへ行けばよいのか。よく知らない始めてあったような精神科医やスクール・カウンセラーに面談させられ、自分自身を"見つめ"自分自身が"変えられる"事を求められる。一方で、教師や学校や家庭の方が変わる事はまずほとんど無いのだ。

 子供の成長は、時間がかかる。色々な人と会い、色んな局面で様々な問題にぶつかって少しずつ成長していく。そもそもすべてが解決可能なのではなく、解決できない事だって人生ではたくさん出てくる。そこには"手っ取り早い"効率化と言う考えとは、決して相容れないものがあると思う。すべてが単純かつ単時間に効率的に解決できる訳ではない。多くの人々との関わりを通してしか解決できないもの、長い時間をかけてしか解決できないものもある。現代社会は複雑化、高速化してしまったかもしれないが、親であれば自分の子、教師であれば自分の生徒と、どっしりと、ゆったりと、しっかりと向き合う事が大切だと思う。親がおろおろしていら、子供だって不安になるだろう。親だって不安や辛い事はたくさんある。それをぐっとこらえるのも、子供を育てる上でのテクニックの一つであろう。例えば、「お前たちを育てる為に、お父さんはやりたくもない仕事を毎日苦労してやっているんだ!」…絶対に言ってはいけない親として最低の台詞である。辛かった事は、子供が自立・自律した後に、酒を飲みながらでもして、ゆっくりと語り合っても良いではないか。
 どんな社会になっても、父親である僕の背中を見て子供がいつも安心していられる、そう言う風にしてあげたいと思う。その"どっしり・ゆったり・しっかり向き合う"ための心構えとテクニックを、僕自身がこれからも磨いていきたいと思うのである。





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