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5.小学校1~3年 (2004年9月19日記載)

 さて、いよいよ子供の小学校入学。子供達に、新しい世界が待っている。一方で、不安と緊張も多い学校生活。ここでは、各学年毎に分けて、子供達への対応法と言うものを考えていきたい。今回は、小学1~3年生を考えてみよう。

小学校一年(入学)

 「一年生になったのですから、絵もしっかり描くのですよ。貼り出しになれるようにね!」・・・子供を良くしようと言う気持ちは分かるが、こんな事を言われた子供は不幸である。子供は、絵を描くこと、それ自体に喜びを感じている。自分の感じたままを素直にぶちまけているから、おかしく見える時もある。しかし、不用意な言葉は、伸びようとする芽を摘むことにもなるのでご注意を!

 一般的には、親から一定時間離れて新しく出かけた所で(より広い世界で)、色々な事を見たり聞いたりして、それが楽しくなってきます。しかし、親があまりにも面倒を見過ぎた子は、こうはいきません。心理的離乳ができていないので、家へ帰れば元気だが、大勢の中では元気が無くなり不安になります。字の読み書きや、足し算よりも、心理的離乳についてまず注意すべきです。こう言う子は、なるべく親から離れる時間を持つようにすると良いのでしょう。
 また、この時期には「自分」を離れて物を見るようになります。答えが、一つで無いことが分かってくるのです。しかしながら、はっきりと説明できないので「何か変だ」と思うような事が出てきます。これは、表面的には「退歩」のように見えることがありますが、間違いなく成長の一過程です。
 その他、この時期の特徴・注意点をいくつか述べます。

・先生を恐がる・・・
大勢の子供がいる場合、その育っている環境は様々です。親が子供に手を出す家庭の子の場合、その子供は先生に少しきつく言われたくらいでは平気でいます。一方、大声で一度も叱られた事の無い子供は、先生が他の子をきつく叱るのを聞いて、先生を恐いものと受け取ります。その場合は、何故その子がきつく叱られなければならないかを(先生が恐い人なのではなく、やむなくやっている事を)きちんと話しましょう。

・家と外では態度が違う・・・
家ではおとなしい良い子なのに、学校では意地悪をしていたり、逆に家ではきかん坊なのに、学校では友達の言いなりになっていたりすることもあります。子供は色々な性質を持っていますが、家庭と言う場で出しているのは、その子の一部分です。非常にやかましい父や母の影響が強ければ、子供の外見は一見おとなしい(無気力)。周囲の人がすべてその子を中心に動いていたら、いつのまにか積極的に物事をやらなくなる・・・等々。色々な家庭に育った子供が、上下関係でない、平等の立場にあるたくさんの友達の中に置かれると、今までと違った自分を現してくるのです。

・遊びの中から学ぶ・・・一年生では、生活の中、遊びの中から勉強をする・・・これが大切!!

・一人前に扱う・・・なんでもかんでも大人だけで決めておいて、従わせると言うのではなく、良い意見の時にはこれを取り入れ、自分の行動に責任をもたせます。

・他人に迷惑をかけない・・・親が良く「電車の中で騒いでいるのは、みっともないですよ」とか「誰々に叱られますよ」と言って、子を叱ります。これは、大きな間違いです。電車の中で騒いでいけないのは「みっともない」からでも「誰かに叱られる」からでもありません。(この親の発言からしてそうなのですが)、他人の迷惑を考えている子は一人もいないのです。小さい頃から、他人に迷惑をかけない―と言うルールを教えることが必要です。br />


小学校二年

 子供には、のびのびと絵を描かせたい。そのためには、子供達が自由に駆け回って遊べる「心の場」を作ってやらねばならない。

 二年生になると、字が書けたり、学校の生活になれたりして自信が付き、全体的に安定感が出てきます。また競争心が出て、努力もするようになります(勝つことは、それなりにうれしいらしい)。
 学業を含め、良い評価のものは「あなたは○○が得意ね」と喜んであげましょう。標準以下のものがあっても、「悪い成績だ」と言う風に叱ってはいけない。どう改善していくかを工夫する事こそ大切です。良くないのは、「もっとしっかり勉強しなくちゃ駄目!」と言うような抽象的表現。これは、"下級生"の時期には、精神的な負担を与えるだけで、良い結果を生みません。
 その他、この時期の特徴・注意点をいくつか述べます。

・落ち着きのない子・・・落ち着きがなく世話焼きの子だったら、落ち着くことをやかましく言うより、他人の役に立つ事を学ばせます。その後、少しずつ相手の立場に立つ事を教えます。

・動作の遅い子・・・
動作ののろい事をやかましく言わず、確実にやる(成し遂げる)方に導きます。

・遊びに行きたくて、じっと勉強のできない子・・・①机に向かったり、本を一人で読むまでに成熟していない。②遊ぶのが楽しくて、じっとしていられない、等。→子供には、性格的にいくつかの傾向(型)があります。時間で区切れない子には、ページ一枚とか言う風に変える―それぞれの型に応じて対応が必要です。

・叱り方の工夫・・・
「○○さんに叱られるよ。」「後でごほうびをあげるから静かにしなさい。」「黙れ!」は、いずれも良くない。いつも静かにしていろと言うのは、子供には無理です。→①楽しく遊ぶ場所を教えてあげる。②他人の迷惑にならない事から、一歩進める。物の置き方や、家庭でのTVチャンネルの割り振り等、積極的な方向に進めます。

・嘘をつく・・・義務観念が出てくる一方、嘘もつくようになります。嘘を強く責めてはいけませんが、放っておくといい加減な物の言い方をする基になります。嘘をつく事を咎める替わりに、それを繰り返さないように工夫してあげる事が大切です。嘘をつくのは一つの能力ですが、それを自己弁護に使ったり、人の迷惑になるように使ってはいけないので(その事は子供には分からないから)、その時その時に具体的に指導して、この嘘の能力を悪い方に使わないように指導していきます。

・先生との関係・・・先生一人に対して、生徒複数(多数)を受け持つ。先生は子供達を公平に愛し指導する(よう求められている)。しかし、すべての子に公平であるのは難しい。育った環境が違う子は、他の子と同じように叱られても、同じようには感じないかもしれません。〈※先生に不満があって学校が嫌になる〉→①キカン坊に見えて、実は気の小さい子だったりもします。叱られているのを気にしているようだったら、先生には機会を見つけて優しい言葉をかけてほしいものです。②先生のエコヒイキ問題。もし、親が不幸にも先生のエコヒイキ的な点を見出しても、決して子供に同調しない事。(一例)「○○先生は、僕ばかり怒るんだ」→「おや。先生は、あなたをみんなより大人で、偉いと思っているのね。だから大人に言うように、きつく言っても良いと思っていらっしゃるのね。本当は、まだ子供なのにね。」・・・こう言う方法を取る事によって、たいていの子供は幸福に子供時代を過ごせる。こうしても、決してお人よしにはならないし、後にしっかりと正しい批判もできるようになる(実際には、先生も不完全な人間であるし、中にはエコヒイキをする先生もいるのは事実。成長して大人になるに従いそれを受け止められるようになっていく)。

小学校三年

 「よく出来たわね。随分とがんばったのね。」・・・結果はともあれこのような言葉は、子供を満足させ、またこの次も一生懸命やろうと言う意欲をもたせる。色々な分野で、得意・不得意はあるだろうが、行事などが楽しい思い出になるように扱ってやりたいものである。

 三年生になると、子供は非常に積極的になります。どちらかと言えば、落ち着きがないのかと思われるほど明朗になるのです。色々友達ができるが、特に仲が良いのかと思うとそうでもないようで。二年生までは近所同士で遊ぶのが常であったが、あっちこっちの友達の家に遊びに行き始めます。
 大人にとっては迷惑なことも、平気で質問します。そして、叱られてもあまり気にしなかったりします(逆に上級生になると、小言を言われた場合、その事を口にしたり、考えたりするようになります)。
 一方、非常に気が散りやすくなっていることもあります。一つのことをじっくりやると言うよりは、お互い友達の言いなりになることの方が多いようです。
 三年生になって現われてくるもう一つの傾向は、自分に都合が悪いことは黙っていると言う事です。喧嘩の時なども、自分に都合の良いことだけをしゃべります(よって、喧嘩の時は両方の話を聞く必要があります)。それは人間として卑怯な事だと、教えてあげると良いでしょう。そして、報告をさせる時には、失敗したところから話すようにさせます。その代わりに、絶対に叱らない。失敗した事をはっきり言えた時には、その勇気を認めて、それから今後の注意を与えてあげましょう(都合の悪い事を隠すこの傾向を、この頃に直しておかないと、その後青年期へ至るまでに重大な問題を抱えて困っていても親に打ち明けられず、大事件に発展することもあります)。 もう一つの三年生の特徴は、力のある人を絶対的に尊敬する傾向があります。学者でも、スポーツマンでも、何か素晴らしい発明をしたとか、凄い記録を作った人が尊敬されます。同様に、生活の中でも、勉強や音楽ができる人より、運動ができる人、背の高い人、力のある人が人気があり尊敬されます。遊び仲間では、そう言う人が大将となります。
 その他、この時期の特徴・注意点をいくつか述べます。

・お手伝い、留守番、お使いをさせる・・・一、二年の人に迷惑をかけてはいけないと言うところから一歩進んで、お手伝いをさせましょう。この年齢では、長く時間のかかるもの、難しいものはできませんが、難しくないものをちょいちょい頼んで、家族の一員として、自分の出来ることは喜んでする方向へ導きましょう。ただし、最近は治安が悪化してきていて、留守番やお使いなども注意が必要なご時世になっていますので、家族と一緒にいる時にできるお手伝いで良いかもしれません。

・お稽古事、塾に関して(特別な専門家性の場合は、下記の注を参考)・・・最近では、幼稚園のうちから、ピアノ、水泳、その他様々なお稽古事に通わせます。その事について触れておきます。お稽古事は、三年生ぐらいに始めるのがちょうど良いようです(それより下だと、学校とお稽古事が同じ比重に感じられて、学校が好きでない子は、お稽古事の方に興味が集中します)。三年生ともなると気持ちも安定し、お稽古事に神経質になったり、健康を害することもありません(僕も、小学校三年生で書道を習いに行きましたが、これより下の年齢だったら難しかったと思います)。しかし、お稽古事は本人が好きなものであることが条件です。親の勝手な希望で決めてはいけません。バレエを習いたがっているのに、これを抑えてバイオリンを習いに通わせる、と言うのは良くありません(塾については、四年生の部で触れたいと思います)。

・三年生の悪い癖・・・三年生ともなるし、平気で遠くへ出かけます。これは、①無事に帰宅出来るという自信、②知識欲、友達同士の冒険心、が背景にあります。冒険は、決して悪いことではありません。しかし、その方法を誤らないように注意します。行き当たりばったりでなく、計画してから実行させるようにしましょう。特に最近は、街の治安が極度に悪化してきていますので、日頃の注意を怠らないように諭すと共に、非常時の具体的な行動方法についても必ず教えておきましょう。

・学校を喜ばない子・・・三年生になると、次第に勉強が遅れてくる子も出てきます。勉強ができる子と、できない子のグループができてしまいます(僕は圧倒的にできない子で、通知表には5段階評価で1と2のオンパレードでしたので、"できない子"の気持ちが良く分かります)。
①知能が低い子→その子の能力の範囲内で、将来他人の迷惑にならぬ社会人となるように指導していきます(例・・複雑な事、難しい事ができなくとも、単純な作業の繰り返し等で、みんなに認められるように、等)。
②能力が出し切れていない子(アンダー・アチーバーと言う)→鼻、目と言った体の(健康の)問題、病気で休んだ場合、先生の言う事をうっかり聞いてしまう性格(家庭に問題あり)等、様々なパターンがあります。アンダー・アチーバーの子の場合は、まず学校へ楽しく行かせる事が大切です。

注:専門家をめざす5つの条件・・・
「明らかに特別の才能があるなら早いうちに目指した方が良い」とも言われています。
①健康が、人並み以上である(厳しい鍛錬、練習には、体力が必要である)。
②知能が、少なくとも普通以上なければならない(学業成績の事ではない)。
③努力家であり、根気の続く性格である(才能があっても、ものにするのは相当な努力が必要)。
④創造する、または工夫する才能があるか(その先に、伸びる事が必要だからである)。
⑤経済的な見通しがついているか(専門性を有するものは、大概お金がかかる事が多い)。

 これらの条件を満たしていても、その子が世間に認められるとは限りません。どの世界にも多くの専門家がいて、大成功をおさめるのはその中のほんの一握りの人だけで、残りの多くの人達は苦労しています(初めから専門家にする事を考えず、まずお稽古させてみてからでも良いかもしれません)。例え専門家を目指すにしても、青年期に必要になる一般教養は身に付けさせてあげましょう。また、一つの分野で鼻が高くなってきたら、他の分野では劣る事もきちんと教えてあげましょう。

ティー・タイム/子育ては技術である

 二児の父となってから、日々学ぶことが多い。育児書の紙面からは学ぶ事のできない体をフルに使っての育児は、毎日学習の連続だ。これと似たような経験が、以前にもあった。実は大学一年生(18歳)の頃から18年間に渡って日曜学校の教師(主に小学1年生から3年生の担当/今は引退しました)をやっていたのだが、その頃も色々と子供から学ばされた。もちろん親と教師では立場は違うし、ほんの僅かな経験でしかないが、それらの経験から感じたことを書いてみたい。

①親と子は友達ではない・・・よくテレビのインタヴューで、親が「子供とは友達のような関係です。」と言うのを耳にする(タレントに多かったりする)。しかし、親は友達ではない。友達関係とは、対等の関係と言うことだ。多分、基本的人権の尊重とか平等と言う事を念頭に置いているのだろう。もしくは、子供の事を理解してあげられる物分りの良い親だと言う事を強調したいのかもしれない。その子の存在をありのまま認めてあげる事はとても大切だが、立場と言う意味では親と子は決して同じではない。人生経験、知識や智恵の量が圧倒的に違う。親は、子供の道しるべであり、ある時は子供にとって雷の様な恐ろしい(叱咤する)存在で、またある時は子供を一方的に包み込むような(慰めたり保護する)存在なのである。その逆ではないし、ましてや友達関係ではないと私は思う。子供が成長する大事な時期には、そう言うしっかりした頼りになる"絶対的な"親の存在が必要だと考える。子供は、安心して帰宅できる家庭や頼れる親の存在があって、初めて外で冒険できるのだと思う。親の存在は、衝突し乗り越える壁としての親であるかもしれないし、従うべき巨大な存在としての親であるかもしれないが、いずれにせよそれは"友達"関係ではない。これは、教師と生徒との関係にも言える。教師の威厳や尊厳が確立されていなければ、学校教育は成り立たないと思う。子供と対等に付き合うのは、子供が成長して自立・自律してからで良い・・・と僕は現在考えている。

②子供になめられるな・・・上の話と似たような話なのだが、最近大人は子供を叱らなくなったし、反対に子供が大人を値踏みするようになっていると思う。要は、大人がなめられているのである。これは、大人の側に問題がある。僕が小学6年生の時の実話だが、音楽大学出立ての音楽の新任教師が赴任して来た。彼女は音楽の高等教育を受けていたのだが、それと教育現場での智恵や経験とはまったく別物である。最初の授業であるが、彼女の言うことを聞かずに、みんなが騒いだり席を立ったり歩いたり、挙句の果てには一部の男子生徒が教師のスカートをめくったりとし放題だった。その女性教師は、黙ってピアノを見つめたまま動かなくなってしまった。今で言う"学級崩壊"の瞬間である。その後、騒ぎを聞きつけた担任の男性教師が、ドアを開けて、「何をやってるんだ!」と一喝。すると生徒は蜘蛛の子を散らすように全員席へ戻って、あっという間に教室内は静かになった。担任教師は普段から特別に恐れられていたわけでもないし、逆に子供からの信頼は厚かった。つまり、当時は先生の威厳とはそう言うものだった。親も教師に全幅の信頼をおいていたように思う。「悪いことをしたら、どんどん叱って下さい」と言う親の言葉は、当時当たり前だったと思う。僕も子供の頃先生に叱られたことはしばしばあったが、別に恨みに思ったことはないし、親に言いつけたことももちろんない。日頃からの信頼関係が築かれていれば、問題にはならないのだ(ちなみにその新任女性教師の音楽の授業は、僕らには二度と無かった)。
 今は、状況は一変したようだ。学校で子供が喧嘩をしても「先生は叱らない」と言う話しを聞いた。叱ると、親達が騒ぐのだそうだ・・・どっちの子を"えこひいき"したとか、先生の叱り方がどうとか。その替わりにどうするかと言うと、喧嘩をした当事者の親達を学校に呼び出して、親同士に話し合いをさせるのだと言う。これほど馬鹿げた話は聞いた事が無いが、そう言う事が行なわれている教育現場が実際にある。親が子供を異常に甘やかして当事者の話しも聞かずに一方的に相手を罵ったり、子供の前で頭ごなしに学校の先生を非難するようでは、当然教師の威厳など保てようはずもない。同時に、不信を招くに価する教師側の不祥事も近年増えている。全体的に教師の錬度(つまり質)も下がってきていて、サラリーマン化の傾向が高まっていると言われる所以である。現在、全国規模で学級崩壊が増えているのは、こうした背景と無縁でないと思う。また、街中にもかつての頑固親父がいなくなった。僕らは、よく街中でも"普通に"怒られた。最近は、公共の場で子供が騒いでいても、(親自身が叱らないのも問題だが)周りの大人が見て見ぬフリをするシーンが多すぎると思う。子供の立場や存在を認めてあげる事と、大人が上に立って子供を指導する事とは、矛盾しないと思っている。社会にルールがあると言うことを、大人は子供に教える義務があるはずだ。子供が大人を舐めてかかるのは、子供の問題と言うより、大人の側に問題がある。社会全体で、教師や親を含めた大人達が、幼稚化・自己中心化しているように思う。

③誉めるだけでは子供は育たない・・・最近の子供の育て方で、幅を利かせている方法に「子供は誉めて伸ばす」と言うのがある。(強引だとは思うが)その内容を一言でまとめてしまうと、「叱っても子供は萎縮してしまうだけで伸びない。むしろ誉めてやる事で子供の才能は伸びる」と言う理屈である。ここには、盲点がある。誉められる事で自分の居場所を見つけた子が、誉められる事をし続けるのに疲れてしまった時に、自分の存在価値を見失う恐れがある(誉められる前提として、その子のありのままの存在そのものが認められていなければならないと思う)。また、誉められるだけで育った子供は、失敗してしまった時や自分が悪い事をした時に正しく対処できない弱さを持った子になる可能性も秘めている。もっと言うと、自分が勉強等で誉められることには集中するが、自分が悪いことをする事に悪びれない(気にしない)自己中心的な子になってしまう可能性だってあるのだ(世間で言う所の"馬鹿息子"と言う奴である)。確かに毎日ガミガミと叱るのは問題だが、闇雲に誉めるだけでは子供は正しく育たない。教育には、正しい叱り方と誉め方がある。親や教師には、その両方のバランス感覚が求められると思う。
 うちの子でも、そう言った面では日々試行錯誤している。上の子が1歳を過ぎて、立って歩いたり、いろんな物を手に取って遊ぶようになると、親としてはつい誉める方ばかりに夢中になってしまう。可愛くて、ついつい甘やかしてしまうのだ。特に両方の祖父母の甘やかせ方は、段違いに凄い。どの家庭でもそうだが、祖父母が孫を叱る事はまず皆無と言って良いだろう・・・欲しがるだけお菓子を上げ、おもちゃをどんどん買い与える・・・子供は際限なく増長する。上の子が1歳2ヶ月を過ぎた頃の話しだが、寝ている親(我々夫婦)の髪の毛を思い切り引っ張ったり、口の中に指を入れたり、時には目を突っついたりすることもあった。「起きて一緒に遊べ」と言う意思表示である。まあ小さな子供のする事だからと、長らく叱らずにいた。ある朝、子供が目覚まし時計を寝ている僕の顔の上(しかも目の上)に投げた。僕はたいして怒っていなかったのだが、「人に危害を加える事は叱ろう」と以前から夫婦間で決めていたので、激しく叱った(フリをした)。すると不思議なことに、翌日から子供はピタッと悪さをしなくなった。髪の毛も引っ張らないし、口や目にも指を突っ込まなくなったし、顔の上に物を投げることも無くなった。小さいなりに、ちゃんと理解しているのである。よく「3歳児までは物事を理解していないのだから、叱っても無駄だ」と言う意見があるが、僕はその意見には反対である。3歳までの子供の吸収能力は物凄く高い。だから誉めることと叱ることを、小さな頃からバランスよく育児に取り入れる事が必要だと思う(逆に3歳になってから突然叱りだしたら、子供は反発するだろう。「昨日までは怒られなかったのに、なんで今日はダメなの?」と思うに違いない)。

④結論/育児や教育は技術である・・・(上記はほんの一例に過ぎないが)上で述べた事を一言でまとめると、子育てや教育と言うのは「技術・テクニック」だと言う事だ(
もちろん、これには親が子に対して深い愛情を持っていると言う大前提が必要である)。いくら「子供が好き」だと言っても、具体的な育児の知識や技術を持っていないのでは、寿司を握ったことも無いのに「俺は寿司職人だ」と言っているのに等しい。寿司を握るのに知識や技術がいるのと同様に、子育てにも知識や技術がいる。もちろん世の中には"完全な子育てマニュアル"とか、"完璧な教育方法"と言うものは存在しない。しかし、自分なりに確固とした子育て方法や教育方法は持っていた方が良いと思う。例えそれが穴や欠けの多い方法であっても、首尾一貫していれば、まだ子供は納得しやすい。良くないのは、親の気まぐれで昨日は「良い」と言っていたものが今日は「悪い」と言うように、日々コロコロと変わることである。夫婦の間で、日頃からよく話し合っておく必要があると思う。
 昔は、お婆ちゃんの智恵袋ではないが、育児の方法は先祖伝来伝授されてきた。それが最近は、核家族化により失われつつある。夫婦間での育児に行き詰まりを感じたら、(恥とは思わずに)祖父母や諸先輩に相談しても良いと思う。育児書に書いてある事だけがすべてではないし、色々な活きた智恵を取り入れながら、各家庭に合った育児方法や教育方法を作っていけば良いと思う。

 以上、僕が育児や教育で最近感じていたことでした。







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