日本におけるキリスト教の伝道 6

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6.日本人はどこから来たのか

 今回から日本の文化の特徴を探っていくわけだが、まず日本人のルーツを探りたい。日本人の特質を知る上で、その起源を知る事はたいへん重要な事であると思う。日本人の始祖はどこから来て、どのようにして日本人が形成されていったかと言う背景を見てみたい。よく漠然と、「アメリカは多民族国家で、日本は単一民族国家」のように言われるが、これは正しくない。日本人は、アジアの様々な地域からの渡来人によって構成されてきた事が、最近の多くの研究によって(例えば形態人類学、自然人類学、歴史地理学、民族学、遺伝学、動物考古学その他様々な学問の領域で)、明らかになりつつある。

 人類の発祥の地は、アフリカ東部であると言われる。母方からしか伝わない"ミトコンドリアDNA"を解析し、その系譜を辿っていくとアフリカの一人の女性にたどり着くと言う。いわゆる現生人類つまりホモサピエンスの始祖、"ミトコンドリア・イヴ"と言われる女性である(※このアフリカ単一起源説は"イヴ仮説"と呼ばれる)。最古の人類と認められているのは、東・南アフリカで発見されたアウストラロピテクス群であり、洪積世初頭(※400万年前頃)の事と考えられている。彼等は粗末な石器を用い、直立歩行をしていた。その後、ホモハビリスや(ホモサピエンスの直接の先祖と言われる)ホモエレクタスが登場する。
 しかし、ミトコンドリア・イブに象徴される、我々に近いホモサピエンスの始祖が登場するのは比較的最近のことで、もっと後の時代(※15万~20万年前)である。ホモ・サピエンスの始祖たちは、長い間アフリカで活動していたが、次第に東西南北のあらゆる地方に散らばっていく。アフリカの西へ、南へ。地中海沿いを通って中東へ。そしてそこから北へ。ユーラシア大陸の南側を通って、またヒマラヤ山脈の北側を通って東へ。
 クロマニヨン人に代表されるホモサピエンスがヨーロッパに入ったのが、約4万年前と言われる。しかし、そこでは既にネアンデルタール人達が20万年もの間、生活を営んでいた。ネアンデルタール人は、60万~100万年前にアフリカを出発したホモエレクタスの子孫達であると考えられ、ホモサピエンスの始祖ではなく長年人類とは無縁の旧人類と思われていた。ネアンデルタール人達は、ホモサピエンスよりも全体的にずんぐりむっくりしていた。この形状は寒冷な土地で生きるために発達した特徴であり、体温を逃がさないために体表面積を減らすために手足の先が短く、胸板は分厚く背が低かった。鼻(鼻腔)も冷たい空気を暖めて肺に送るため大きくて低かった。彼等は、ホモサピエンスの流入を境にヨーロッパから絶滅していく。
 ネアンデルタール人の長年のイメージは、文化の発達の遅れた粗野な原人のような旧人類の姿だった。しかし、実は彼等の脳の容積は、ホモサピエンスよりも1割も大きかった(ホモサピエンス「1,350cc」に対しネアンデルタール人「1,500cc」)。腕力も、現代のボディビルダーのように発達した力強いものだった。そしてクロマニヨン人に引けを取らない石器文化を持っていたと言う。そのような彼等が何故、絶滅してしまったのか?ホモサピエンスによって駆逐されたのか?ホモサピエンスがヨーロッパに持ち込んだ病気が、免疫力のないネアンデルタール人に急速に感染が広がって絶滅したのか?もしくは(勢力的に圧倒されつつも)ホモサピエンスと混血しつつ、歴史の表舞台から消えていったのか?諸説があるが、データが少なくはっきりした答はまだ得られていない。なぜ、このようなヨーロッパの"ネアンデルタール人"と"ホモサピエンス"の歴史を書くかと言うと、日本人の起源の歴史に適用できる部分が多々あるように思われるからである。その辺は、後ほど触れたい。

 さて、アフリカを出発した人類の始祖達は、ヨーロッパだけでなく、(先にも記したようにヒマラヤの北側ないし南方を通って)中国や東南アジアにも広がった。アジアにも約60万年前から、石器や火や言葉を使用する北京原人やジャワ原人などの原人が活動していたが、彼等もまたネアンデルタール人と同様に、60万~100万年前にアフリカを出発した始祖達がアジアまで広がって独自の発達を遂げたものと考えられる。これらの原人達は、ホモサピエンスの始祖と同じ始祖から180万年前に分岐したとも言われ、現代の我々の先祖とは関係なくて、ネアンデルタール人と同様に絶滅種となったと考えられている。
 日本人の遠い先祖達が10万~20年以上の長い時をかけて、北東~東南アジアにやって来た頃、時代はまだ氷河期(※最終氷期)だった。海水面が低く、日本列島は九州北部と対馬と朝鮮を結ぶ線でつながってた。北海道は、樺太を通じてロシアとつながっていた(※気候の文明に対する影響は、文明を左右してしまうくらいに大きいのでこの点は後で述べたい)。
 この大陸とつながった陸地を通って日本に入ってきた人々が、日本人の先住民と言われる。それが、今から6万年~3万年前の事と考えられている。我々が教科書で習ったいわゆる"縄文人"である。縄文人と一括りにされるが、単一の地域の人々ではなく、実際は色んなルーツとルートが入り混じっていたらしい。
 そして、今から約一万年前に気温の高い現間氷期に入り、海水面が上昇して日本は大陸から切り離された。こうして日本の縄文人は孤立し、日本と言う閉じた環境下でアジアの人類とは違う独自の変化を見せていく。例えば、縄文人の歯は、同じ祖から出たと考えられる東南アジアや太平洋民族の新石器時代人に類似性が認められるものの、歯が小さく口元が引き締まっている。元々新石器時代人の歯は、噛み切ったりするなど酷使に耐えるために大きくて頑丈だった。しかし縄文時代には道具が発達し、また調理等の文化が発達するに伴い、歯を酷使する頻度が減り、縄文人の歯は退化したものと考えられる(※そうは言っても現代の我々と比べれば遥かに酷使していて、顎の老化は早かった)。
 昔の教科書では、「縄文時代(縄文人)は狩猟採取社会で、弥生時代(弥生人)になって稲作がもたらされ農耕社会に移った」と教わったと思うが、最近の研究から、実はそんなに単純ではなかったと考えられるようになった。
 縄文時代と言っても、それらの全ての時代と地域を一緒に括れるほど単純ではなかった。縄文時代人は確かに狩猟採取系の民族ではあったが、ヒョウタン、リョクトウ、大麦、蕎麦、ヒエ、アワ、そして稲などの植物も栽培していた(※稲は水耕ではなく他の雑穀と同様に乾いた陸地での栽培)。また、犬や猪を飼っていたのではないかと言う説もある。また、家屋や道路等が計画的に配置された縄文遺跡も見つかっていて、定住生活の傾向が伺える。
 また、縄文時代のある人々は海洋環境へ適応していた。釣針やモリ、ヤスなどの漁具も揃っていた。また丸木船も見つかっており、島へ渡る事ができるほどの航海術と船の製作技術も持っていたと考えられる(※これは縄文人の中に、航海してきた太平洋民族由来の人々もいたかもしれないことを示している)。縄文人が航海によって日本各地と交易を行なっていたと言う説もあり、高度な文化が発達していた可能性がある。こうしてみると、我々がイメージしている石器時代の延長線上にある縄文人のイメージとは、かなり異なってくる。
 しかし、現代の学者は、縄文人とその文化が発展して弥生文化になったとは考えない。縄文時代の文化がそれほど優れたものであったとしても、弥生文化との間には大きな断絶があると考えられてきた。稲作を伴って大陸から渡ってきたいわゆる"弥生人"達が弥生文化をもたらし、この人たちが現代の我々の直接の祖であると考えられている。では、縄文人はどこへ行ってしまったのか?ここで、冒頭で取り上げたネアンデルタール人に対するのと同じ疑問が沸いてくる。縄文人は、弥生人に駆逐されてしまったのか?それとも、渡来人が様々な病原菌を伴ってやって来て、閉ざされた島国で生活していたため免疫を持たない縄文人に急速に感染してしまったのか?それとも混血を繰り返し、緩やかに弥生人に溶け込んで行って歴史の表舞台から消えていったのか?

 さて、ここで一旦"気候"の話しに移ろう。先ほども述べたように、気候の人類への影響は多大だった。人類の始祖達にとっては、気候は食料の確保を左右する最も大事な要因だったと言っても過言ではないだろう。地球は誕生してから現在に至るまで、寒期と暖期のサイクルをずっと繰り返している。大きなサイクルとしては、だいたい10万年ぐらいのサイクルがあって、10万年ごとに寒期と暖期が入れ替わっている。その中に、4万年のサイクル、2万年のサイクルがある。更に、その中に数百年の周期で寒期と暖期が交替するサイクルがあり、更に更にその中にもっと短い周期のサイクルがある、と言う事が分かっている。現代に続く最終氷期の地球の気候は、"寒冷期→急激な温暖化→温暖化→斬新的な寒冷化"を3000年ぐらいの周期で繰り返している。地球の寒冷化は、人類の食料確保にとって大きな試練となった。食料を求めて、現生人類の始祖達が移動する大きな要因ともなったろう。例えば、世界的な寒冷化が3500年ぐらい前に起こった時、それは旧来の生活を維持できないほど急激な寒冷化で、世界的な民族移動が起り、事実上世界の四大河文明は崩壊したと考えられる。
 日本でも、そのような寒冷化気候の最初の危機が縄文人を襲った。温暖化のピークが6000年前で、5000年前頃に気候が寒冷化した。次第に、暖流系の魚介類の安定的な食料確保が困難になった。理由は、寒冷化による"海岸線の後退"と"冷たい雨の土砂による内湾の埋め尽くし"である。それらの原因により、食料を採取できなくなってしまった。海岸近くの縄文人達は、内陸の方へと移動を始めた。さて、この縄文人達は、日本のどこに居住していたのだろうか?
 現代の我々は、「生活するには、南の方が暮らしやすい」と漠然と考えがちだ。暖かくて過ごしやすそうだし、緑も多く、食料も北方よりもたくさん在りそうな気がする。しかし、実際の縄文人の分布はそうなっていない。西方面(九州から関西ないし東海)よりも、東方面(東海ないし関東から東北)の方が圧倒的に人口が多かった。縄文中期(4300年前)には、日本には約20万~30万人の縄文人がいたと考えられるが、大半が東方面に居住していた。それは何故か。キーは、食料の存在である。氷河時代末期、照葉樹林は九州から伊豆半島にかけての太平洋沿いにあるだけだったが、温暖のピーク(6000年前)に"照葉樹林"の面積が拡大。しかし縄文人に適した環境は、"落葉樹林"だった。"照葉樹林"は暗くて使いにくく、食料(※木の実)があまり豊かではない。一方、"落葉樹林"は、ドングリ、栗、トチ、クルミ等の豊富な木の実を提供してくれた。また、東日本には鮭も俎上した。これらの採取狩猟に加えて、先に例示した雑穀の植物栽培によって栄養バランスがよくなり、5000年前に気候が寒冷化したにも関わらず、東日本で人口は増えていったのである。しかし寒冷化の悪影響は徐々に現れ、縄文時代晩期には人口は数万~10万人以下にまで落ち込んでいった。

 そのような縄文時代後期と平行して、大陸から新たなる人々が渡来してきた。つまり弥生人となる人々である。人口密度の低い新天地を求めてなのか?…理由は解明されているわけではない。縄文人は主に東南アジア方面に起源を持つ人々と考えられるが(※もしくは中国南部に起源を持ち、東南アジア方面に進んだ人々と北部や日本へと押し進んだ人々と分かれたのか?)、弥生人達は北方それも酷寒の寒冷地方の北方アジア人をルーツに持つ人々だと考えられる。
 アフリカ東部から十数万年の歳月をかけて南ルート、ならびにヒマラヤの北のルートを辿って来た人々がいたと先ほど書いたが、およそ2万年前に中国北部に住んでいたアジア人が、南方のモンゴロイドに押されてシベリアに侵入した。シベリアと言う酷寒の地で生き抜くために、彼等は技術を進歩させた。弓矢、ソリ、縫製衣服等を発明していった(北方での"技術発展説"については、将来このHPの別コーナーで取り上げたい)。
 またマイナス数十度と言う厳寒環境に対して、身体も環境適応していった。厚い皮下脂肪、一重瞼、眉や髭の薄さ、小さい耳、低い鼻は、厳寒に対応するために適応していったものである。彼等が、5000年前の気候の寒冷化に対応するように(食料=獲物の減少か?)、シベリアから北東アジアへ拡大を始めた。その寒冷地仕様の人々の子孫が、金属や水田稲作を携えて日本にやって来たと考えられる。
 だから、縄文人と弥生人は、身体的特徴が違う。大きなくくりで言えば、顔の彫りの深い"縄文人"は暖かい東南アジアや太平洋民族と同じ先祖を持ち、のっぺりとした顔付きの"弥生人"は寒冷地に特化・適応した人々を先祖に持つ、と言える。
 では、その弥生人達は、縄文人を駆逐して弥生文化を築いたのであろうか?それについては、多くの学者が否定的な見解を持っているようだ。蒙古襲来のように、どっと大陸から大量の人々が押し寄せて縄文人を駆逐したとは考えられない。もちろん局所的な諍いはあったろうが、少なくとも弥生人が縄文人を大量に殺害した、そう言った証拠を示す遺跡は見つかってない。むしろ、弥生人達は長い年月をかけて少しずつ日本と言う環境に適応し、生活範囲を広げていって先住系の縄文人と入れ替わっていったと思われる。
 さきほど書いたように、縄文人達の生活圏は主に関東から東北にかけての東方面だった。西方面は縄文人の人口密度が低かったのだが、そこに弥生人達がやって来て村落を築き水田稲作を始めていく。そこに住んでいた縄文人はどうなったのか?弥生人が縄文人を征服して滅ぼしたと言うよりは、押したり引いたりしながら、双方とも相手の長所を取り入れたりしながら、緩やかに融合していったのではないかと考える学者もいる。先ほども書いたように、縄文人が採取狩猟民族であると言っても、補助食的に雑穀を栽培していた。家畜的なものを飼っていたと言う説もある。一方、弥生人も水田稲作文化と言いながら米だけを食って生活していた訳ではもちろんなく、家畜も飼っていたし、採取狩猟もしていた(実際、弓の最高装飾は弥生時代のものだそうだ)。縄文人達は、弥生人の優れた文化を取り入れながら融合したのかもしれない。しかし、同時に弥生人が持ち込んだ"結核"や"はしか"や"天然痘"等の未知の伝染病が、孤立した島国で生きてきたために免疫を持たない縄文人に感染し、(弥生人の意志とは関係なく)結果的に縄文人達を病死へと追いやってしまったかもしれない。結果的に、"弥生人7割、縄文人3割"的な弥生人の社会となる。
 "結果的に"日本の隅へ隅へと縄文人は追いやられてしまい、つまり北と南に追いやられてしまい、琉球と北海道と言う孤立した地域で縄文人の子孫達が生きていく事となったと考えられる。琉球人とアイヌ人の"文化"は同じではないが(※アイヌは北方文化を引き継いでいる)、身体的特徴は双方とも縄文人の直系の子孫で、最も縄文人の特徴を現代に残している人々だと言われる。ただし、琉球人とアイヌ人がそれぞれ縄文人の直系の子孫とは言っても、1万2千年前にはそれぞれ別々の集団であったことがDNAの解析から判明している。
 縄文時代晩期に数万人まで減少した日本の人口は、こうした弥生人の進出によって弥生時代には50万~60万の人口へと増加した。
 さて、この大陸から渡来して増えた弥生人達についても(縄文人と同様に)、ルーツやルートは一括りにはできない。流入したルートはいくつもある考えられ、3~4ルートと言う説も在る。DNAの解析である程度解明されつつあるのだが、現代の日本人は、大陸のあちこちの雑多なルーツを持っている。一般論として、日本人は弥生系ないし縄文系の顔立ちに分類されたりするが、実際の現代人はその両方が混血して雑多な人々で構成されていて、かつDNA解析でもっと細かな起源が判明しつつある。現代日本人は、大まかな少数のサンプルの分類だけでも、26%の中国系に特異的な遺伝子タイプ、以下24%の韓国人系、16%の琉球人系、8%のアイヌ系、5%の日本国本土系、(そして不明は21%)に分類される。これらは日本全体の平均値だが、各地域ごとに区切るとこの比率は大きく変わる。
 上記の研究結果を見ると、日本の"先住民系(縄文人系)"は日本古来の本土系に琉球人とアイヌ人を加えても、3割弱である。一方、韓国は4割を韓国系の特異性が占めるし、台湾は6割を中国系の特異性が占める。DNAから分かることは、日本人は全体として、アジアの様々な遺伝子タイプを引き継いでいる。起源を辿れば単一民族などでは決してなく、現代のアメリカのように、多民族によって形成されてきたのが現代日本人の姿である事が分かる
(※)
※日本人が雑多な民族の遺伝子を引き継いでいると言っても、その差は、例えばスペイン人とフランス人の差よりはずっと小さい。
※そもそも、すべての民族が雑多な遺伝子を引き継いでいる。一見単一に見えるどのような民族も、歴史の中で遺伝子の交換を行なっている。
※もちろんイヴ仮説によれば、それら種々雑多の民族も最終的にはアフリカの同一民に行き着く。つまり起源を辿れば、究極的には世界中の人々は単一の"ホモサピエンス"と言う種であると考えられる。


 縄文人、そして弥生人が、日本でどう生活圏を確立して、どう増えていったかを駆け足で見てきた。アフリカに起源を持つホモサピエンスがアジアにやって来て、アジアと言う環境に適応し、その一部の人々が氷河期の陸続きの場所(ないし海路)を通って日本へやってきた。その後、地球の温暖化により日本は大陸から完全に孤立し、縄文人は独自の発展を遂げた。その後、再び世界が寒冷化の危機に瀕した時、弥生人達が緩やかに時をかけて(結果的には大量に)大陸から渡ってきた。彼等は、縄文人と争うよりは、融和的に溶け込む形で生活圏を広げていった。原因は定かではないが(伝染病?)、北海道と琉球以外の縄文人とその文化はかなりの部分失われた。しかし、水耕や金属の文化は確実に日本中へと広がり、人口は増えていった。ざっとこんな感じであろうか?まだ多々研究されている歴史の事柄であり、仮説も色々ある状況なので、何かを断定する事は難しい。しかし、とりあえず私の頭の中にできたイメージは概ね上記のようなものである。

 現代の日本社会は、「出る杭は打たれ」、「和をもって尊しとなし」、「善悪をはっきり判断せず」、「言わなくても分かるだろう」と言う"横並び"かつ"曖昧"な社会であると、多くの人が感じている事と思う。こうした傾向は、現代になって急に出現した傾向ではなく、緩やかに連綿と続いた歴史の上にそのような特質が形成させていったと思う(もちろん歴史の真実はすべて解明されたわけではないが、ある程度分かっている事も多々ある)。

 私達は、一般的なイメージとして、狩猟民族について
"狩猟=一匹狼的ハンター=ヒーロー=個人主義"をイメージし、農耕民族について"農業=村落の共同作業=平等ないし全体主義"をイメージするだろうが、そのようなステレオタイプのイメージは歴史の解釈に果たして適合しているのだろうか?日本が基本的に農耕民族、農耕社会だから、全体の和、協調を重んずる社会として発展してきたと言うのは、間違っているとは言わないけれども、それが全てとも思えない。
 日本は、律令の制度を中国から輸入して自国の政治制度に上手く取り入れた。仏教を輸入しては、自国に合うように取り入れた。近世史の明治維新でも、欧米の民主主義思想や産業技術、軍事技術を取り入れて自国の発展へとつなげた。長年の歴史において、政治制度、宗教、建築、美術、技術、様々なものを取り入れてきた。
 日本は、新しい物と出会った時に衝突して争うのではなく、それを飲み込み、吸収して自分の物とした。自分の物とする過程で、新しい物を日本に合うように改変・改質し…時には新しい物を「換骨奪胎」して、時には様式だけ残し「仏を作って魂入れず」のような方法論も取り入れ、体制に大きく影響が出ないようにソフトランディングを繰り返しながら、(歴史上、例外はもちろん多々あるが)全体的にはそうやってこの国を形づくってきたのではないだろうか?
 それは縄文人や弥生時代から少しずつ築かれてきた特徴なのではないだろうか?弥生人が縄文人と出会った時(もしくは逆に縄文人が弥生人に出会った時)、争う道ではなく、その文化を受け入れて吸収・同化する道を選びながら、何百年~千年もかけてそう言う文化を発展させてきたのではないだろうか?
 争う道を選ばず
穏やかに吸収・同化していく文化を発展させた結果、「秩序を乱す者を警戒する社会」「絶対的な"善悪"よりは相対的な"社会全体の意向"を第一とする傾向が高い社会」となったのではないだろうか?
 日本と言う比較的温暖で水も緑(※=飲料や食料)も多い土地だったと言う地理的要因も、そう言う
"争いを生まない"要因の一つだったかもしれない。生存に過酷な環境だったら、自分が生き残るため、限られたパイを確保するため、他者を滅ぼす道を選択するかもしれない。事実、過去の歴史において、砂漠のような過酷な環境下では、たった一つの井戸を巡ってしばしば激しい争いが生じた。

 日本と言う国は、地理的な「他者が大量に入って来づらい孤立した島国」であり、かつ「温暖で水と緑の豊富な環境」であり、そして歴史的な「争いの少ない融和的な日本人の成立過程」があり、そこにプラスして「地域や村落が長年共同作業を必要とする農業を主体」としてきたため、"横並び"かつ"曖昧な"文化・社会を持つ国へ至っているのではないか、と考えるのである。この考察と推論が合っているとは自分でも断定できないが、これらの日本人成立に関わる歴史的な(ないし地理的な)背景は、日本の文化や社会の特徴を考える上で有用だとは思うのである。次回は、こう言った事も頭の隅に入れつつ、その後の日本の歴史の展開を考察していきたいと思う。

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